【小話】景之亮の結婚 4

小説 STAY(STAY DOLD)

 景之亮は部屋で腕を組み、考え込んでいる。
 侍女の丸が入って来て、声を掛けた。
「ご主人様……ご夕食は要りませんよね?」
 その言葉から、景之亮の今夜の行動を予想していると分かった。
「ああ……いらない……」
「そうですね。承知しました」
 丸は言って部屋を出て行った。
 丸にそう言ったのだから、景之亮の心は決まったのだが、それでも、まだどこかでぐずぐずしているのだった。
 景之亮は石にでもなったかのように部屋でじっとしていたら、簀子縁に影が差した。
 妻戸が押されて、ひょっこり丸が顔を覗かせた。
「ご主人様!何をなさっているのです?陽もとっぷりと暮れてずいぶん経ちましたよ!」
 丸の叱咤によって、景之亮は腰を上げた。
 昨日と同じ路を歩く景之亮は道すがら考えていた。
 あの女人……蜜はどう思っただろうか……私のことを。今日も来てほしいと思っているだろうか……それとも父に言われて仕方なく、覚悟を決めて待っているのだろうか。
 荒良木家の門の前を素通りし、塀から垣へと変わるまで同じ速さで歩く。そして、その先に昨夜と同じように小さな灯りが見えた時、蜜の気持ちはわからないが、荒良木家は待っていたのだと分かった。
 柵の戸に手をかけると、何の引っかかりもなく景之亮は庭の中へ、邸の奥へと入って行った。
 階の下まで来ると、内側から御簾を照らす灯りが揺れた。
 それで、蜜も景之亮が今夜も来たことを知ったのだと分かった。
「……私だ。鷹取景之亮だ……」
 景之亮は沓を脱ぎ、階を上がった。
 妻戸を押して、一歩部屋の中に入ると、蜜が立ち上がって几帳を挟んでこちらを見ていた。
「今夜も訪ねて来てしまった……」
 立ち上がった蜜は昨日見ていた姿とはまた別の一面が見えた。ほっそりとした体ではあるが、背は案外高い。低い几帳から上半身がよく見えた。
 赤の上着に深緑の裳を着けているが、質素な装いであり、景之亮は好感が持てた。
「……どうぞ、奥へ」
 昨日と同じ場所に席が整えられていた。
 景之亮は蜜の前を通って座った。
 蜜も座ると徳利を持ち上げた。
「杯をお取りください」
 景之亮は杯を取り上げた。注がれる酒が、杯に溢れる手前になるのを二人で見つめていた。
 徳利を上向けたところで、景之亮は杯を自分に近づけると同時に、口を近づけて飲んだ。
「今日もありきたりの料理で、お口に合えばよいのですが……」
 そう言って、蜜は膳の上の蓋を取った。目の前の膳は昨日より増えている。二つの膳の上にたくさんの料理が並んでいる。昨夜は温かい汁物があるので、持ってこようかと言っていたが、今夜は湯気が上がる汁が置かれていた。景之亮が来る時刻を読んでいたようだ。
 昨夜と同じように、景之亮の飲む様子に合わせて蜜が徳利を差し出してくる。景之亮は皿の上の煮魚や焼きアワビ、干し肉、茹でた青菜などを酒の合間に口に運んだ。
「……昨夜は……」
 景之亮の杯に満たして徳利が空になった頃、蜜が小さな声を発した。
「なんだい」
 景之亮は続きを促すように言った。
「私が……鷹取様のお話は面白くないようにおっしゃっていらっしゃいましたが、それは大変な誤りです。鷹取様がお邸から宮廷に向かわれる道中も、お仕事で馬に乗って都の外まで出て見聞きされた話もどんなことでも私はとても興味深く聞いていました」
「そうか」
「……はい。……聞いておられると思いますが、私は幼いころは病弱でした。よく熱を出して寝込んでいたのです。だから、外を出歩くことはできませんでした。私が知っているのはこの狭い邸の中だけです」 
「あなたに兄弟は?一緒に遊んだりできなかった」
「姉がいます。……四つ年上の姉は私が寝込むので、よく世話をしてくれました。枕元でいろいろと話をしてくれたのです。それを聴いて、私も丈夫になって姉から聞かされる経験をしたいと思っていました。……姉が年頃になると踏集いに行って、その日あったことをいろいろと話してくれました。私も年頃になると従姉妹たちと一緒に踏集いに行きたいと思っていました。着て行く着物も新しいものをあつらえてもらって、その日を待っていたのに、朝になると熱が出たんです。楽しみに思い過ぎて眠れなかったのもあったのですが」
「それは残念だっただろう。踏集いは楽しいと聞く」
「鷹取様は参加されたことはないのですか?」
「興味がなかったわけではないが、機会がなかった」
「そうですか……行けなかったというところでは、私たちは同じですね」
「そうだな」
 そう言って二人は静かに笑った。
 蜜は徳利を持ち上げて、景之亮の杯に酒を注いだ。
 景之亮は一口飲んでから言った。
「今のあなたはとても元気そうだ」
 蜜は一つ頷いた。
「はい……熱を出すこともなくなりました。しかし、邸の者は今でも心配してくれて……。私も、庭には出るのですが、垣の外まで行こうとすると胸が苦しくなるような気がしていけないのです」
「そうか……無理をするのはいけないが、外に出てみたいと思うなら、少しずつ慣れていけばいいのではないかな」
 景之亮は干し肉を箸で裂いた。よく煮られていて、すぐにその身はほぐれて、小さくして口に入れた。
蜜はじっと景之亮の手を見つめている。箸が置かれて、反対の手が杯に伸びた。
景之亮は杯の中の酒を煽った。
「慣れる日が来るといいのですが……」
 そう言って、景之亮に向かって徳利を差し出した。
 景之亮は杯を蜜に差し出した。蜜はゆっくりと酒を注ぐ。少し濁った液体が満たされていく。杯の淵に届くとなっても蜜もそして景之亮もその満ちて、溢れていく様を見つめていた。
「あっ!」
 溢れた酒が杯からこぼれて、景之亮の手と膝を濡らした。
 蜜は徳利を置いて、自分の粗相に慌てて、胸から布を出して、景之亮の膝を拭った。
 景之亮はとっさに杯を口元へと運び、こぼれないように酒を飲んだ。
「お召し物を汚してしまって申し訳ありません」 
「大丈夫だ。気にすることはない」
 景之亮は杯を膳に戻して、自分の膝を拭く蜜に声を掛けた。
 着ている濃紺の上着と白袴が濡れて色を濃くしただけで、景之亮は気にしないのだが、そう言われても蜜は申し訳なくて、手を止めることができない。
「私の不注意でよいお召し物を」
 止まらない蜜の手を景之亮は取った。
「あなたを訪ねてくるのに、こう言っては何だが、随分と着古した上着を着てきたのだ。気にすることはない。それより、あなたにかかっていないかい」
 景之亮は蜜の手を少し引っ張って持ち上げ、蜜の膝や袖に酒がかかっていないかを確認しようとした。
 景之亮の動きに、蜜は驚いて腰を浮かした。その時、景之亮に手を握られていることに気づいたのだ。すると、傍に置いていた徳利に足が当たってしまい、倒れて中身が流れ出た。
「ああ!」
 蜜の嘆きに景之亮は即座に反応して、徳利を取って立たせた。蜜は持っていた白布を被せて酒を拭きとった。
「申し訳ありません。こんなことになって」
 蜜は顔を下に向けて消え入りそうな声で言った。
「いや、そんなに恐縮することはない」
「新しいお酒を持って参ります」
「いや、私が飲み過ぎたようだ。今夜はこれで失礼しよう。あなたも着物が濡れたのではないか。そのままではよくない」
 蜜は黙っている。
 景之亮は立ち上がった。蜜も遅れて同じようにする。
「見送りはいい。あなたは濡れた着物を取り替えなさい。今夜も夜は冷えるからね」
 景之亮に言われて、蜜は妻戸の内側で景之亮を見送った。
 妻戸を閉める景之亮は蜜が何か言いたげな表情をしているのを敢えて問うことなく階を下りた。
 一呼吸置いて沓を履き、昨日と同じように夜道を帰って行った。

コメント