Infinity 第三部 Waiting All Night103

萩 小説 Waiting All Night

「うわぁあ」
 大王軍から叫び声が次々に上がった。
 頭上から土や石が落ちてきたかと思ったらその後に矢が降ってきた。反応できる者は身を低くして盾を頭上に上げたが、動転した者は矢がその体を貫き膝から崩れ落ちた。
 混乱が収まると、頭上に上げた盾の隙間から大王軍も矢で反撃しつつ、中腰でそろそろと前進した。
 ダダダダッ!
 頭上から真下に向けて矢が放たれて、あちらこちらで盾に突き刺さる音がする。
 ヒュン!ヒュン!
 空を切って、風の唸りを起こし、大王軍も矢で応酬した。
 大王軍の頭上に叫び声と共に春日王子の軍勢の兵士の体が落ちて来た。
 すぐさま、何本もの抜いた剣がその体を刺し貫く。倒れた体を引きずって脇に寄せる。隊列は止まらず、前へと進み続けた。
 春日王子の軍勢からの弓による攻撃を通り抜けた大王軍の先頭は、今度は真正面から弓を構えた兵士と対峙した。春日王子の軍勢は弓を打つと同時に、その後ろから兵士が走り出して大王軍に突っ込む。大王軍はそれに怯んではいけない。盾を前に突き出し、こちらに走ってくる兵士に向かって頭から剣を振り下ろす。
 兜は割れ、額から一筋の血が流れる。
 その光景に、周りの者は体中の血が逆流するような震えが走り、常軌のたがは外れた。
 春日王子軍の弓射者は打てるだけの弓を打ち、大王軍の兵士は敵陣に突っ込んで、目の前の相手に剣を振り上げた。
 激しい戦闘が繰り広げられた。その中で、大王軍は少しずつ前進し、春日王子の軍勢は後退を余儀なくされた。
 やはり、数のことを考えれば、春日王子の軍勢は圧倒的に不利だ。奇襲をかけて打撃を与えても、ひとたび接近戦になれば人数の多い大王軍に囲まれて殺されてしまう。
 これ以上の人的被害を出さないためにも、春日王子は撤退を命じた。
 山頂だけは守る。
 春日王子は、次々と山頂に戻ってくる負傷した兵士の姿を黙って見つめていた。
「陽はとっぷりと西に沈んだ。もう夜だ。この先をどうしたものか……」
「完全に引きましょう。罠はいくらか仕込んでいます。ここで、どれだけ持ちこたえられるかわかりませんが、ただただ討ち死にさせることはよくない。士気が下がります」
 春日王子は金輪の言葉に頷いた。
 山頂で耐えれば、山の下にいる波多氏が助けを寄こすかもしれない。
「機があれば、あなた様は山を下りて逃げ切ることができる。その時はどうか冷静にご判断ください」
 釘を刺すように金輪は言った。春日王子は冷ややかに金輪を横目で見て、鼻白んだ。

 実言は前線に無理はしなくてよいと、伝えていた。攻め込んでもほどほどで退いて待てと。
 実言にとっても、大きな人的被害は望まない。山頂の手前まで自軍が攻め入れれば、それでよかった。
 先ほどまで皓皓と輝いていた月の下に厚い雲がかかり始めている。
 実言は空を見上げた。
 夜陰が全てを覆いつくして、山にいる兵士に暫くの休息を与えてくれるだろう。
 山頂を目指すとなったときに、それまで馬に乗り実言の後ろに控えていた荒益は、馬を下りて一人の歩兵になった。実言は荒益に一度は自分と一緒に行動しようと言ったが、それを固辞して馬を下りた荒益を止めなかった。
 荒益はこの軍隊の将軍である実言の傍で楽に馬に乗っているだけでは、兵士の反感を買うことも考えられる。それは、実言への信頼や軍の士気にかかわると思い、ここで馬を下りるのが賢明と考えた。
「荒益、私の傍を離れないで。いざとなった時に、朔を助けるのはお前なのだから」
 実言の言葉に荒益は笑って手を上げた。そして、なみなみと連なる隊列の一部になった。
 荒益は隊列の最後尾あたりまで下がった。前線が敵と対峙している時に隊列の歩みが停滞して、兵士はぽつぽつと座り込み前後左右で話をし始めた。
 そのような様子を窺い見ながら、荒益はそっと自分の気配を消し、山の茂みの中へと入って行った。
 いつになったら山頂に上がるかわからないのをただ最後尾で手をこまねいて待っていられなかった。春日王子を捕縛することはこの隊の絶対使命だが、荒益には別の目的があった。
 朔をひっそりと助け出すことだ。
 春日王子と共に、朔がこの大勢の大王軍の兵士の目の前に晒されるのを阻止したかった。
 美しい女は、御簾の隙間からのねっとりした無粋な視線は慣れたものであるが、これほど大勢の無粋もなにも敵意に満ちた視線には身がすくみその場に卒倒してしまうだろう。
 自分の美しい人をそのような目に合わせたくない。
 単独行動はここまで連れてきてくれた実言に申し訳ないと思う反面、邪魔にならないように、どうかして朔を助け出したかった。
 月が雲に隠れて、暗闇になったがだいぶ目が慣れて荒益は急な斜面を張り付くようにして上へ上へと登って行った。
 その時雲間から漏れる月の光で、樹々の影とは別の影が動くのが見えた。動くのをやめて目を凝らした。
 獣?
 それにしては静かである。こちらを警戒しているのか?
 流されていく雲の間から先ほどより長く光りがあたり、それは人影だとわかった。
 荒益はすぐさま、それは敵であると思った。
 このままやり過ごすが、それとも静かに近寄り斃すか。
 一人でも敵は少ない方がいい。勝手な行動を取っている罪滅ぼしとして、ここで敵を一人仕留めたいと思った。
 荒益は細心の注意を払い、無用な音をたてないようにその影へと忍び寄った。
 影はピクリとも動かない。より近くでその人物を感じると、とても小さいことが分かった。一流の間者ではなく兵士の一人のようだ。麓にいる大王軍の兵士たちを掻い潜ってここまで登ってきたのか。または、山頂からここまで下りて来たのか。
 荒益は、じっとして動かない人影に素早く駆け寄った。山肌に落ちた小枝や落ち葉を踏み鳴らしたが、それに気づいて相手が逃げる前に、荒益はその相手に飛びつき動きを封じた。口を覆って、頭を腕で固めて耳元で囁く。
「大きな声を出せばすぐに縊り殺す。これから、口から手を外すから静かに自分が何者であるかを言え。変な気を起こすんじゃない。そんな気を起こしたと見なしたら躊躇なく言ったように縊るからな。心して言え」
 荒益はそう言って、口元を覆った手をゆっくりと外した。
 荒益の手の平がまだその者の息を感じれるほど近くの時で返答があった。
「……荒益」
 その声は女であり、自分の名を呼んだ。荒益は混乱したが、その声の主が誰だか、すぐにわかった。
 驚きで大きな声を上げそうになるのを、ぐっと我慢して再び囁いた。
「礼!」
「……はい」
 荒益の腕の中にいるのは、礼だ。すぐに縊り殺すために首にかけた腕を離した。
「礼!なぜ、ここにいる!」
 暗闇の中、荒益は礼を確かめるためにその頬を両手で挟んで言った。荒益は左頬から手にあたる布が、眼帯であることに気付いた。
「……朔を助けるためよ。……荒益、朔を助けたいの」
 荒益は暗闇の中、どんな危険なことをしているのか怒りたかったが、朔のことをそこまで思ってくれる礼に心が救われるような気持ちもした。
「……礼」
 荒益はその場に膝から落ちて、膝立ちになった。礼の頬から滑り落ちた荒益の手は、膝の上で止まった。
「……荒益、……あなたも私と同じね。……実言には実言の働きがあるわ。それを優先しなければならない。でも、私には夫とは違う思いがある。夫の任務を妨げる気はないけれど、私は私の思いのままに」
 礼は言うと、荒益の前に跪きその手を握った。
「朔はあなたを愛しているわ。……あなたも朔を愛しているからここにいるのね」
「……礼、それはどうかな?」
 荒益はすとんとその場に尻をつけて座った。礼も習って正座した。
「大王軍が圧倒的に有利なの明白だ。春日王子が勝利することはほぼない。逆賊は確定だ。一緒にいる朔はその一味とみなされるだろう。都からここまで付き従っているのだから。朔が誰かの愛人であろうと世間では私の妻だ。その朔が逆賊となった王子と共にいたとなれば、我が一族も逆賊の一味の汚名を着せられかねない。そうなれば、我が一族は皆、木の枝に首を吊るしかなくなる。私はそれだけは避けなければならない。自分一人なら忍従しなければならないと思えるが、我が子までもがそれに従うことは許さない。そうさせないために、私は我が一族の潔白を示さなければならない。最終手段としてそれは、朔を……」
 荒益はそこで言葉を切って、押し黙った。言葉にするのは憚られたのだ。
 しかし。
「……私の手で殺すしかない」
 と声を絞り出した。
「荒益!」
 恐ろしい話をする荒益を制して礼は荒益の手を取った。
「私が朔を助けます。あなたの言うようなことはさせないわ」
「私もだ。私もそんなことは望んでいない」
「……ええ……そうね」
 礼の手を握り返して荒益は立ち上がった。それに伴い礼も立ち上がる。
「君は山を下りなさい、と諭すべきなんだろうけど、そんなことを君はききやしないだろうね」
 暗い中、荒益は見えないが雰囲気で礼が笑っているのがわかった。
 諭されたからと言って、素直に聞くことはできないわ、ということだろう。そんなに聞き分けのいい女人なら、敵味方が入り乱れているこの山の中を女一人でここまで登ってきたりはしない。
「……佐保藁の邸で朔を追うために君を一人馬に乗せた実言に、驚いたものだった。女人を一人馬で旅立たせるなんてね。実言は君のことをよくわかっているのだろうね。止めても無駄だと。そして、決して自分を裏切らないとね」
「……酷い妻ね。実言に愛想を尽かせられてしまうわ」
 礼はおどけたような声を含んで言った。反対に、荒益は真面目な声音で言った。
「だから、下りろとは言わない。しかし、この先は私の後ろにいておくれ。君に何かあったら実言に会わせる顔がない。お願いするよ」
 礼と荒益は手を取り合って助け合い、道なき山肌を登って行った。
 山頂に近づくと、春日王子の見回りが持つ松明の灯りが遠くに見えた。二人は地に伏せてじっとした。そして、慎重に這って山頂の手前まで上がり、その場で様子を窺った。
「礼、私はあたりの様子を窺ってくるからここにいて。隠れておいで」
 荒益は言い置いて、白い袴が土で真っ黒になっていて闇に同化して姿を消した。
 山頂ではすぐ近くに人の声や馬の嘶きが聞こえて、狭い中に人と馬が詰め込まれているような気がした。
 礼は暫く山頂にいる春日王子の軍勢の人々のひそひそと囁く声と馬の嘶きに耳を澄ましていたが、夜通しの移動にいささか疲れて、いつの間にか気が遠くなった。

 実言は、兵士たちをその場で休ませたが自身は馬に乗って、前線へと進み、前線を指揮している兵士に状況を確認した。山頂を見てきた斥候も飛んで来てみてきたことを説明した。
「相手は夜明けまでは動くまい。皆にしっかり休めと伝えてくれ」
 その言葉は水が流れるように兵士たちの間を行きわたり、すぐさま麓から水や炊いた飯が運ばれてきた。

コメント