Infinity 第三部 Waiting All Night11

小説 Waiting All Night

 一人残った礼は、朔の走って行った先をしばらく見つめていた。
 それから、碧妃の頼みを聞きに行った侍女の淑が戻ってきてもいい頃だと思い、階を登った。すると、階の上に立つ人の足が見えた。袴だから、男である。礼は驚いて顔が上げた。すると、そこには実言が立っていた。
「浮かない顔だね、碧妃から何か嫌味を言われたのかな。お前に言っても仕方ないことなのに」
「実……いいえ。そのようなことないわ。……どうされたの?」
 礼はまだ朔とのことで頭の中がいっぱいで、実言が後宮にいることに混乱した。
「ここまでくる許可をもらったのだ。ちょうど、仕事も終わってね、控えの間で待っていたのだが、だいぶ遅いものだから」
「ええ、今、淑が碧様からの頼まれ物を受け取りに行っています」
「そう。……それにしても顔色が悪いね。おいで」
 実言は礼の手を引くと、腕の中に入れて、深く礼の体を抱きしめた。礼もそっと、実言の背に手をまわした。
 実言は、朔とのやりとりを聴いていたのかもしれない、と礼は思った。図らずも朔と対決するようになってしまったその言葉のやりとりをこの人はどう思っただろう。礼は深く、優しく抱かれて、改めてこの腕を離すことはできないと思うのだった。
「落ち着いたかい?」
 ゆっくりと腕を解いて、礼を離す実言は、礼の顔を覗き込んで微笑み、礼は頷いた。
「……おっと」
 それは、突然だった。実言の背後で不意に声がして。
「失礼」
 と続いた。
 実言が後ろを振り向くと、そこには小柄な男性が開いた扇で口元を隠して立っていた。実言はいきなり、その男に駆け寄った。
「哀羅様!」
 実言はその男の前に進み出て足元に跪いた。
「……お前は……誰だろう?」
 実言のなりふり構わぬ態度に礼も習って、その後ろに同じ姿勢をとった。
「哀羅様。私は……岩城実言でございます」
 実言らしくなく、少しうわずった声で応えた。
「……実言……」
 顎に手をやりしばらく記憶を辿った哀羅王子は、ハッとした顔をして、目を見開いた。
「ああ、実言か!」
「はい。久しくお会いできませんでした。私が岩城実言でございます」
「もう、何年振りであろうか……お前を思い出せないほどに、月日が経ってしまった」
「……はい。しかし、私はあなた様を忘れることはありませんでした」
「忘れることはなかった……か……」
 哀羅王子は跪いて下を向く実言を冷めた目で見下ろして呟いた。そして、実言の後ろに控える、左目に眼帯をした女を見た。
「後ろの女人は誰だ?……ここで許されぬ仲ではなかろうな?……なにやら親密そうな素振りを見せておったが」
 怪しげなものを見るように、広げた扇から少しばかり目をのぞかせて斜に構えた哀羅王子は言った。
「これは、私の妻の礼でございます。大王の第五妃である碧様は岩城家の出身で、時々お側に遣わせているのです」
「……妻……」
 実言がそっと、後ろの礼を促した。
「礼でございます」
 礼は急なことで、動揺して小さな声で名を名乗った。
「……妻か。……そうだな、私たちは歳をとった。……大人になったと言ったほうがいいのか。もう、妻を取る歳であったな」
「哀羅様!……近々」
「私は急ぐゆえ、これで失礼する。では」
 実言の勢い込んだ言葉を遮るように、王子は言ってそのまま真っ直ぐに伸びる廊下を歩いて行った。
 実言はだんだんと遠ざかる哀羅王子の背中を哀切の表情で見送った。
 実言の物悲しそうな背中を見つめながら礼は、後ろで黙って畏まっていた。
 実言はなんと言いたかったのか。
 すると、礼の後ろから慌てた声がした。
「まあまあお待たせ致しました。……時間をとってしまって」
 それは、侍女の淑が簀子縁を曲がって現れたのだった。手には両手に納まる箱を携えていた。
「……あれ、旦那様!」
 実言がいるのを見て、驚いた声を上げた。
「こちらへ渡る許可を得てきたところだ。ちょうど礼と出会ってね」
「お待たせしました。碧様からお父様宛のお預かりものを受け取ってまいりましたわ」
 そこで、実言、礼、淑は連なって車の待合所に向かった。
 車の用意ができるまでしばらく時間がかかり、待合所で三人はたわいのないことを話した。いざ、用意ができると、実言は礼と淑を車に乗せて、自身は馬で邸に帰って行った。
 礼が邸に着いた頃には、実言は当然戻っていて、子供たちと遊んでいるところだった。
「お母様、お帰りなさい」
 息子の実津瀬が勢い良く簀子縁に出てきて走り寄ってきた。
「まあ、実津瀬」
 礼は実津瀬を抱き上げて庇の間に入って行った。部屋の奥では、実言が娘の蓮を膝に抱いて、礼を迎えてくれた。
「礼、おかえり」
「早いお帰りで。先ほど、碧様からのお預かりものをお父様にお届けしてきましたわ」
「そう」
「異国から届いた薬のようです。碧様はお父様思いの方ですわ」
 実は碧妃は岩城家当主の園栄の弟の娘であるが、園栄の養女となっているので、父親というと二人いることになる。碧は実の父と、対外的な父の二人にきちんと異国からの珍しい薬を用意して渡してほしいと言い付けていた。
礼と実言は家族で食事を摂って、子供たちを寝かしつけて、寝室に夫婦二人だけになったが、異なことに、二人とも、互いに背中を向けてそれぞれの思いにふけっている。
 もう寝ようかと衾を被ったが、実言も礼も反対方向を向いて、身じろぎせずに考え込んでいた。
 実言は哀羅王子との、礼は朔との今日のやりとりの一つ一つのその時の光景が目を閉じても思い浮かんできて、相手の言葉や態度のすみずみが瞼の裏に映るのであった。
「礼?起きてる?」
 実言がため息と共に、暗闇の中で礼を呼んだ。
「……ええ」
 実言は起き上がった。
「少し話をしよう。昼間のことだが」
「はい」
 実言は、褥に寝っ転がって横になり、肘をついた右手に頭を乗せて、礼を見た。礼は起き上がって、実言の前に座った。
「今日お会いした方は、哀羅王子様というのだ。先王の弟君、渡利王のご子息である。渡利王は、早くに亡くなられて、王族出身の母上も後を追うように相次いで亡くなられた。そして、大きな後ろ盾のなくなった哀羅王子達渡利王の御子をお支えするのに名乗り出たのが我が家であった。哀羅様の一つ年下である私は、哀羅様のお相手として引き合わされ、毎日を共にする仲になったのだ。渡利王はとても学問に通じたお方だったようで、異国の書物をたくさんお持ちであった。その父上に幼い頃から教育されていた哀羅様も博学な方で、十二になったばかりの私はとても興味深く王子がお話される異国の様子や、書物に書かれていることに魅了されたのだった。王子と私は波長があうのか、すぐに打ち解けて毎日を一緒に過ごしていた。王子が口添えしてくれて、王子が通っていた塾に私も一緒に行って講義を聴くことができた。王子との毎日は楽しくて、刺激に満ちたものだった。当たり前に、王子が住まわれているお邸にお伺いして話をしたり、庭で弓を射ったり、時には野に馬に乗って出たりして過ごしていたものだった」
 実言は体を起こして、礼の前にあぐらをかいて座った。
「私が十三の時だった。もうその年も終わりに近づいた寒い日だ。いつものように私は王子のお邸にお伺いした。すぐに異変に気づいた。門の中に兵士がいるのだ。昨日まではそのような物々しい警備はしていない。しかし、私はいつも通りに門をくぐると兵士は持っている槍を出して、私をその先へとはやってくれない。私は名を名乗って、王子に私が誰かを聞いてくれと頼んだが、兵士は私を通してはくれなかった。逆に侵入者の扱いをされて、他の兵士を呼ばれたのだ。大勢の兵士が集まってきて、子供の私を左右から捕まえて、門まで連れいき、その外へ放り出した。私は突き飛ばされて道に転がってね。しかし、すぐに顔を上げて門の中を見ようとしたが、大勢の兵士が何重にも重なって立っていて中の様子を見ることはできなかった。私は腹から力一杯の声を出して、哀羅様の名を呼んだ。何度も何度も呼んだ。このお邸のどこかに哀羅様はいらっしゃって、私の呼ぶ声を聞いておられると思ってね。そして、ひょっこり現れて今までの扱いは間違いだった、手違いだったと言ってくれるのではないかと思ったのだ。しかし、最前列の兵士が三人ばかり門からできて私を邸から離れさせるために私を両側から掴み上げて引っ立てられ、お邸の長い塀が切れたところで投げ捨てられた。兵士が去って行くのを見送ったが、私は諦めることができずに、邸の塀の周りを歩いた。しかし、兵士に見つかり、再び追い立てられること数度だ。それから毎日お邸に伺ったが兵士の警備が厚くて近づけるものではなかった。邸で下働きをしている老爺が、遠くから邸を眺めている私を見つけて、門の陰に連れて行って、もう哀羅様は邸には居ないと教えてくれた。老爺はそれ以上のことは知らないため、私が哀羅様はどこに行ったのかしつこくきいても、答えることはできなかった。……なぜ、一夜にして邸の警備が変わり、私は毎日のように通っていた邸に入れなくなったのか。そして、哀羅様は突然どこに行ってしまったのか。それは、謎だよ。私が子供の頃から今になってもわからない、謎なんだ」
 実言はそこまでしゃべると、小さくため息をついて、その体を横にして、座っている礼の膝に頭を乗せた。礼の腹の方に顔を向けて、小さな声で続きを話した。
「……それが、最近春日王子が哀羅様の行方を探して、都に呼び寄せられたのだ。……先に催された花の宴で、春日王子が大王に哀羅様をお引き合わせになられた。宴の末席に座っていた私は、遠くからそのご対面の様子を見ていた。大王は哀羅様が見つかったことをたいそう喜ばれたそうだ。……私はまた、哀羅様にお会いできて嬉しい。今日も予想もしていなかった場所ではあったが、哀羅様と対面できた。今はもう親しくお声をかけられない間柄であるが、私の気持ちは、突然会えなくなったあの日のお邸に伺う時の気持ちと一分も変わらないのだ。我が家は哀羅様をお支えする。また、私は哀羅様にお仕えする一番の従者と思っている」
 実言は言って、腕を礼の腰にまわした。礼も、実言の背に手を置いた。
「哀羅様が春日王子のもとにいるのが、気にかかるのだ。王族同士なのだから、互いに支え合うのもわかるのだが、しかし、相手は春日王子だ。……王族として哀羅王子の面倒をみられる。ただそれだけなのか、心配なのだ……」 
 実言は先程よりももっと礼に近づいて、その温かな腹に顔をうずめた。しばらくそうした後、実言は礼の膝枕から礼を見上げた。結った髪がほどけて長い髪が実言の顔にかかっているのを礼がそっとかきあげた。
「礼も浮かない顔のままだね。……昼間のことから気持ちが切り替わらないか。しかし、私にとってはとても嬉しいことだった」
 礼は実言のその言葉を聞いて、実言は礼と朔の会話をどの場面からかわからないが聞いていたのだとわかった。
「……」
 何も言わない礼の膝枕から体を起こした実言は、礼の正面に座った。
「私が選んだ運命だよ。お前は」
 実言は礼の脇の下から腕を通して背中に回し、持ち上げるようにして礼を抱いた。礼も両腕を実言の肩の上に載せて首の後ろで交差させて抱きついて、だんだんと近づく実言の顔を見つめた。実言は優しい笑みをたたえて、頬を合わせたら、礼の頭を肩に載せて、何度も撫でた。
 礼は身も心もこの男の優しさと愛情に満たされる。この男となら、たとえ地獄であっても一緒について行くつもりだ。言い表せないほどの安心と情愛の中で、礼は思うのだった。
 朔にも、礼にとっての実言がいる。夫の荒益だ。荒益の愛情に満たされて、荒益との愛に生きて欲しいと思うのだった。 

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