Infinity　第三部　Waiting All Night114

　この大きな湖のほとりの土地で礼のするべきことは全て終わった。心はまだ朔の傍にいたいとも思うが、ここまで自分の我儘を通してきただけに後は夫と我が子のたち、そして、お腹の子のために都に戻る。そうと決めたら、間々代に帰ると告げた。
　伊緒理はどうするか、と訊いたらもうしばらくここに滞在すると、佐羽高が代わりに答えた。伊緒理の心はすぐにこの土地を離れる気にはなれないのだ。
　意思の強い子だと思って、礼は伊緒理の手を握った。
「都に戻ったら、また会いましょう。あなたに会わせたい人がいるのよ」
　伊緒理は頷いて、礼を見上げた。
「……はい」
　伊緒理は力強く返事をした。
　出立のため礼は間々代とともに邸を出るとすぐに言った。
「一人で馬を操るのは無理なのよ。後ろに乗せてちょうだい。帰りが遅くなってしまうけどゆっくりと行っておくれ。早く都に帰りたいけど体が辛いの。無理を言ってすまない」
　間々代は、言われた通りにして都への復路をたどった。朔の看病と葬送までの張りつめた精神状態の礼は今それが解かれて弛緩して、体は馬の上でもゆらゆらと揺れて間々代に心配された。何度も休憩を取り、二日かかかって都へと戻った。
　都の中はまだ謀反人を一掃しようと密告が行われるなど権力闘争が繰り広げられているが、庶民の暮らしには落ち着きが戻り始めている。都への出入りもそれほど厳しい取り締まりはなされていなかった。
　朝方、自邸に着くことができた。
　自分の拠り所である夫の邸に戻ってきたと思うと、礼は重苦しい気持ちが少しずつ剥がれていくのを感じた。門をくぐって間々代が邸の者を呼びに行った。実言は宮廷に行っているとのこと。
　子供たちは部屋を出て簀子縁を踏み鳴らして礼に向かって走り寄ってくれるかと思ったら、いつまでも静かなままだ。
　どうしたことだろう。子供部屋の庇の間に入ると、侍女の縫と澪の二人が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。ご無事で何よりでした」
「実言様から、礼様が春日王子様と朔様と一緒に都を出たと聞いた時は本当にびっくりしましたわ。あなた様らしいといったらそうですけど、またも幼いお二人を見放したようなことをされて」
「礼様の気持ちをまだわかるはずもない幼いお二人なのですから、心から謝ってあげてくださいな」
　説教めいたことを侍女二人から言われてどうしたことかと思いながら、実津瀬と蓮が向かい合って遊んでいる部屋の前に立って、二人の態度を見てからよく分かった。二人は礼に一つの視線を送ることなく、逆にそっぽを向いていた。礼が部屋の中へ入って行くと、二人は立ち上がって、礼を通り越して庇の間へと走って行った。
　愛おしい我が子の強烈な拒絶に礼は驚いた。しかし、それもそのはずである。母はある日突然いなくなり何日も帰って来ないのだ。まして、都は春日王子の謀反で不穏な空気に覆われて、都中が恐怖していた。父も母もいない邸で子供たちは心細い思いをしたことだろう。
　怒って当然のことである。
　心から謝れというのはもっともなことだ。礼は二人を振り向いたが、二人の気持ちは固いのか、礼に話しかける隙をみせない。礼はもう一度、実津瀬と蓮に向かって歩き声をかけた。
「……実津瀬、蓮……」
　二人の名を呼んだが、二人は簀子縁へと走り出て行った。お互いの名を呼び合って追いかけっこをしている。母の声など耳にも入らないし、聴きたくもないらしい。礼は、心の中で何度も詫びて、縫と澪に言った。
「風呂に入れてもらえるかしら。もう何日も体を拭いていないし、汗やほこりでひどい状態。こんな格好だから、子供達も近寄りたくないのかもしれない」
　礼は、子供達から避けられているのは自分のひどい身なりや不衛生な姿だと、お道化てみせた。
「礼様の苦労はわかりますわ。今、湯の用意をさせています。もう少しお待ちになって」　
　二人の子を澪が見守り、礼は縫に連れられて夫婦の部屋に入った。
「褥に横にならせて、とても疲れたわ」
　礼は子供の頃から自分の傍に仕えてくれている縫には甘えたことを言った。縫は礼の手を取って、褥の上に連れて行った。
「疲れた顔ですわね、礼様。しかし、あなた様のいつもの我儘を通したのですから、あなた様もその我儘で寂しい思いをした人たちのことを思って過ごさなければなりませんわ」
「……お説教ね。……でも……全く持ってその通りよ。あの子たちには許してくれるまで頭を下げ続けるわ」
　礼は褥の上に座って、縫の手に助けられて横になった。
「縫……我儘をした者が、言うことではないけど、疲れたわ……。少しばかり眠らせて……」
　礼は言うそばから眠気に襲われて、自分の体を捕まえて放さない眠気にその体を明け渡した。
　目を覚ました時には、辺りは真っ暗であった。
　風呂に入りたいと言っていたが、随分と時間が経過していた。礼が体を起こすと、庇の間から澪が現れた。
「……お目覚めになりました？よく眠られていました」
「……本当に、体がまだ寝たいと言っているよう……実言は？……」
「まだお帰りになっていませんわ……。毎晩お戻りは遅いです。また、お戻りにならない夜もあります」
「そう……」
　礼は相槌を打ったがまだ気だるさの残る頭と体でぼうっとしていた。
「風呂に入りますか？」
「……そうね、髪も体も汗と埃だらけ。体を洗いたいわ。褥も汚してしまった。新しいものにやり替えておくれ」
　礼は澪に付き添われて風呂場に行き、単衣だけになって桶に入った程よい熱さの湯をゆっくりと足先から掛けた。澪自身も単衣になって、白布を湯につけてはだけた背中を優しく拭いてやる。
「まあ、絡みついて解けませんわね」
　ゆっくりと背中から湯をかけて髪を濡らした。いつもなら艶やかな黒髪であるのに、埃を被ったような薄白い頭は湯で注ぐとすぐさま、前の艶を取り戻した。
　礼は単衣の胸をはだけて、日に焼けた肌を晒して、湯に浸けた白布を滑らせて洗った。湯屋から出て椅子に腰かけると縫が来て何度も髪を櫛で梳いてくれた。礼は体を拭いて、さっぱりとした清潔な服を身に着けた。
　礼は子供部屋に行って、もう眠り込んでいる我が子の寝顔を見つめた。寝ている子は礼を避けることもなく、その可愛らしい顔を存分に見せてくれた。十日ほど離れていただけだというのに、前より幼い子のように見えてしまう。それは、少年の伊緒理が大人のように振舞うのを見たから、我が子をより幼く見せているのかもしれない。自分たちを見放す母など許さないと怒っている子はまだまだ子供だ。その子たちに寂しい思いをさせたかと思うと、礼は再び申し訳なく思い、その小さな手を取って握り、詫びた。深い眠りに入っている子らはその柔らかな手を握らせてはくれるが、握ってはくれない。
　その後女三人は夫婦の部屋の庇の間に座って、月見をしながら暑い夜に少しばかりおしゃべりをした。
　南の空に上がる月は少し欠け始めていた。月の宴の頃はまん丸だったはずなのに。
　礼は、円座の上に褥を折って重ねてふかふかの座り心地の上に腰を下ろして、月を見上げて思った。
　縫が団扇で礼を仰いで、柔らかい風を送る。
　礼は薄い衣の上から、これまた薄い織りの上着を羽織って涼しい装いになった。
　侍女二人は礼のことはよくわかっていて、礼の心情を思い図った。自らが飛び込んで行ったことだが、姉と慕っていた朔の最期を看取るのは辛いことだっただろうと、侍女二人は言葉にせずとも礼を労わった。
　三人は真夜中ではあるが、井戸で冷やした桃を切って、一切れずつ手に取って口に入れた。程よい冷たさと甘みが感じられて笑顔になった。礼も久しぶりに自分が笑っていると思った。残った桃の載った皿を縫が差し出した。
「礼様がお食べなさい。痩せてしまわれたし、それに……」
　と縫は含みを持った間を入れて、澪と目配せして。
「栄養を取らなければいけない体でしょうに。無理をなさって」
　と言った。
　礼は二人には自分の体の秘密は知れているのだと、わかった。
「……いただくわ」
　礼は桃を手に取った。
「……二人ともこのことは暫く黙っていて。実言にもよ。体に無理をさせてたから、少し不安なの。実言を悲しませたくないから、お願いよ」
　朔の最期の様子を思えば、自分もお腹の子も同じ道をたどってもおかしくないと思った。だから、自分と自分の体が落ち着くまでは誰にも黙っておくつもりだった。しかし、身近な侍女二人はその日の内に知れてしまった。
　侍女二人は頷いた。信頼のおける二人だから、逆に知っておいてもらった方が良いのかもしれない。礼はそう思って、安らかな気持ちが心に広がるのを感じた。
「……女人同士で月見かい？欠け始めたが、まだまだきれいな月だな……」
　三人が振り返ると、簀子縁に実言が立ち、同じように月を見上げていた。
　侍女二人は久しぶりの主人二人の再会の邪魔にならないようにすぐに立ち上がり、静かに部屋から出て行った。
　礼は立ち上がって、簀子縁に出て実言の正面に立った。
　差し出された実言の手に手繰り寄せられるように礼は実言へと近づきその手を握った。