Infinity 第三部 Waiting All Night121

小説 Waiting All Night

「耳丸……もっときつく縛ってくれないか」
 実言は耳丸の肩につかまって、近道である後宮側から宮廷に行く途中に言った。周りは慌ただしく、先に王宮への取次に走る者、弾正台への取次に走る者と、指示とそれに対応する役人が右往左往している中である。
 妻が自分の肩に掛けた領巾が巻きが甘くなって、実言の肩から外れそうなのだった。
 耳丸は立ち止まると、実言を抱くような恰好で反対側の肩に手を伸ばし、領巾の端を引っ張ってきつく縛った。
「すまないね」
 そしてまた歩き出した時には、王宮や弾正台の役所に向かった者たちが折り返してきてその首尾を報告しに来た。
 実言は昨日、礼が不自然に隠す立派な箱を見た時から、良からぬことが起ころうとしていると直感した。
 困った顔の礼を、どうしたの、と訊いて、どう返答してくるか見るなんて、可哀想なことはしなかった。黙っている礼に、実言は手を差し出した。礼は実言の手の平をじっと見て考えた。そして、最後には箱の中から手紙を取り出して、実言に渡した。
 実言が手紙を読んでいる途中で。
「私は行きたいの。詠様のお力になれたら……と思って」
 小さな声だが、自分の気持ちを伝えた。詠妃からの手紙に目を落としたまま実言は。
「いいよ。……でも、私を連れて行かなくてはだめだ。後宮は危ないところだからね。春日王子がいなくなっても、同じことだよ」
 と言うと、礼はまた困った顔をした。実言は顔を上げて、礼の顔を見た。
「別に、お前より前に出て行こうなんて思っていないよ。お前が危ない目にあいそうになったら、出て行くだけさ」
 実言は手紙を脇に置くと、膝の上で丸まっている礼の手を取って引き寄せた。
「念のためさ。春日王子がいなくなっても、まだ宮廷は権力の奪い合いをしている。詠妃は心細く思い、お前に懐かしさを感じたり頼りにしたいと思っているだけかもしれないが、もしかしたら誰かの思惑がないとも限らない。だから、念のためだ。安心おし、ね」
 実言は礼をすっぽりと腕の中に入れて抱き締めた。礼は詠妃にとっても自分にとっても、いい方へと向かえばいいと思った。実言の腕の中で心も落ち着いてきたところで、実言は腕の力を緩めて、体を起こした。礼も同じように顔を上げた。
 実言はにこっと笑って、本家に行ってくると言って出て行った。
 そして、実言は本家に赴き、父園栄や兄と話し込んだ。詠妃が春日王子との関わりの痕跡を消すために何かしらの行動を起こした時に我が岩城一族にとってどのようなことが起こりえるか。そのために、どのような準備が必要であるか、考えに考えて備えたのだった。
 これが、愉快。うまくはまったということだ。
 しかし、こんな太刀傷を負うとは想定外だった。
 今は意識が興奮して、肩の痛みもさほど感じない。
 これが興奮しないでいられようか。我が一族の血を引く王子が大王の位に一歩近づくことができたのだから。
 後宮の庭を抜けて、王宮へと入って行く。弾正台に話を通しておいたことで、物事は速やかに進んで行き、大王の謁見が叶いそうである。
 大王の面前で、先ほどこの目で見て、耳で聞いたことをお話ししたら、後は自邸に帰るだけである。
 あの子と約束した。必ず帰るからと。
 柱の陰から出てきた男の剣の前にあの子が身を投げ出していたら、あの子に命を救われるのは三度目になる。またも、あの子の体を傷つけて自分が助かるなんてことはお断りだ。隠れていた男が、不用意に柱から大きくその剣先を出したことで、実言にもその不意の襲撃を察知できた。そして、三度目にして、礼の体を傷つけずに守ってやれた。
 実言は心の中で呟くのだった。
 お前を失いたくない。私の命に代えてもね、と。
 しかし、自分の命が尽きては元も子もない。運もあるだろうが、我が一族のためにひと働きしなくてはならない。
「実言様……」
 自分を支えてくれる耳丸が実言を呼んだ。顔を上げると、そこは大王の謁見の間に上がる階の前まで来ていた。この階を日をあけずして再び上がるとはどういう廻り合わせだろう。
 実言は回廊の反対側から走ってきた男たちの一団を見た。先頭に立っているのは、後宮の薔薇の庭へと一緒に乗り込んだ川原だった。川原が脇に退くと、後ろから男たちをかき分けて現れたのは、弾正台長官の藤原七重だった。
「妃の中に、春日王子に加担していた方がいるとの報告を受けた。そなたが、すぐに大王に申し上げたいと聞いた。こうして、私がここまで来たが、それに間違いはないか」
 弾正台長官に問われて、実言は、耳丸の腕から離れて、一人で長官の前に跪いた。
「その通りでございます。これから私が大王に申し上げることは、私だけでなく、弾正台少弼、川原殿と共に見聞きしたことでございます。また、後宮の庭において、男が剣を振るい私に刃傷に及んだことも、春日王子への関わりを消すための凶行と思われます。それをご説明したいと思います。私と、他にその場にいた衛士たちの話を聞き、その後に妃や妃の配下の男への聞き取りを行い、調査を行うことをご判断いただきたく存じます。どうか、それを献言するための機会をお与えくださいませ」
 実言は藤原七重に深く頭を下げて訴えた。
「大王に直々にお話しするのだから、覚悟しなければ。今聞いたことが真実だとすれば、大王は深く悲しまれるだろうからな」
 実言は頷いたが、だから辞めるとは言わない。真っすぐに弾正台長官を見つめた。
 その時、謁見の間の扉が内側から開き謁見の準備が整ったことを伝えた。
 実言は、付き添う耳丸の耳に口を寄せて、囁いた。すると、耳丸は実言の左肩に回り、元の色がわからない程に赤く染まった礼の領巾を結びなおした。
「すまないね。お前の手を汚してしまって」
実言は無意識に深く息を吐いて吸った後に、耳丸に言った。
「何を言う。あなたがいなければ私がいないと同じこと。子供の頃から変わらない」
 耳丸が言うと、実言は口の端を上げた。
「部屋の中へお入りください。大王も直に参られます」
 内側から出てきた近侍の武官が言って、弾正台長官を先頭に少弼が続き、実言は耳丸と別れて謁見の間に入って行った。そこには、ひとり、玉座の隣に設えた椅子に座っている女人がいた。
 大后だった。
「大王は暫くしたら参られる。先の出来事で心労がたたっておられるから、手短に話をしておくれ。おや、お前、酷い傷を負っているものだね。大丈夫なのかえ?」
 大后は弾正台長官たちの頭を眺めながら話している間に、赤く染まっている実言を見咎めて言った。
 実言はより深く頭を下げて「はい」と答えた。
 皆が下を向いて大王がこちらに参られる足音に耳を傾けた。大后が椅子から立ち上がり、奥に続く廊下の入口まで迎えに行って、大王に歩み寄り腕を支えて、謁見の間に戻ってきた。
 実言にとっては春日王子の討伐を命じるきっかけとなった、哀羅王子の直接の申し開きの時以来の近さでの謁見になる。
 大王は大后の手を握って支えを得ながら椅子に座った。
「顔を上げよ」
 大王は弾正台長官を先頭に一段下の板間に座る者たちを眇める。
 言葉を受けて皆は少しばかり頭を高くした。実言も弾正台長官の隣で顔を上げて、大王の気配を窺った。
「何が言いたい。次から次へと、粗さがしの話を聞かされるのはもうたくさんだ」
「大王を煩わせるのは本意ではございませんが、この度、後宮において見過ごせない事実があったとの報告があり、こうしてご報告に参ったわけであります」
 弾正台長官は神妙な面持ちだが、慣れたもので淀みなく大王へ告げた。
「この隣におります岩城実言より、奏上致します」
 実言は一度深く頭を下げて、顔を上げた。大王のお顔は哀羅王子と共にこの間でお会いした時より頬はこけて、憔悴した様子が窺えた。
「大王。大変申し上げにくいことですが、見過ごすことができない事柄が起こり申し上げます。妃の詠様に関することでございます」
 大王は表情を変えずに言った。
「詠が……何を」
「はい、詠様は春日王子と親密な間柄を隠すために、本日、そのことを知る我が妻を後宮の庭に呼び出し、亡き者にしようとしたのです。昔のことは忘れようと誓い合った後に、殺害を図ろうとしたのです。そのことは私だけでなく、弾正台少弼の川原殿も見聞きしていることでございます。殺害には、身元不明の男が柱の陰に潜み、剣を振るう算段だったのでございます。私のこの肩の傷がその証拠であり、多くの者がその凶行を目撃しているのです」
 実言は赤く染まっている左肩を押し出すようにして大王に見せた。大王は腕を上げて、袖で背けた顔を隠した。
「それに……大王には大変申し上げにくいことではございますが、詠様は……春日王子と親密という言葉以上の様子があります。それは、詠様の周りに仕えていた女官侍女に聞けばわかることではございますが、今その者たちは皆、詠様の周りから排除されております。これは、弾正台に調査をしていただきたいことでございます」
「……詠は……どうしている」
 大王は肘掛けに肘をついて、右頬を掌で支えている。悩ましい表情で、時折こめかみを押さえ、考えているようだ。
「そのお体を捕えました。ひとまず後宮のお部屋に籠っていただいています」
「どうして……」
 大王は細い掌で顔を覆って深く俯かれた。
 隣で静かにその質疑を聞いていた大后は沈黙の中、口を開いた。
「……確かに詠は春日を慕っていたように思いますわ。まだ子供のような心の幼い詠には、後宮は心の休まるところはない場所だったでしょう。それを少し年上の兄のように相手をしてやっていた春日が、楽しませて気持ちを紛らわせて、いろいろと助けてやったことでしょう」
 大后は呟くように言った。
「……そのような若い二人が親密になるのはわかるわ……。いろいろと自分の味方になり、教えてくれる者はたいそう頼りになり、ありがたかったであろうよ。しかし、それ以上とはどういうことか……大王の女として後宮に入ったのだから、大王の弟を兄のように慕うのは良いが、それを超えてはいけない。……お前はそのようなことがあったと言いたいのか?」
 大后は眇めた視線を弾正台長官の隣に控える実言を見た。
「はい。貴族の妻を殺そうとするなど、大王の妻であっても露見すれば無罪とは行きませぬ。それほどの危険を冒してまで詠様が隠したかったものは何でしょうか?優しい兄として慕っていただけなら、ただ驚き、悲しみに暮れるだけでしょうけれども、自分と春日王子の兄以上の繋がりを知る者を遠ざけ、はたまた殺そうと考えるのは、それは誰にもそのことを知られたくないからでしょう。知った者からどのような言葉が飛び出すかわからない。春日王子との秘密を守るためにしたとしか思えません」
 実言は言うと、大王はその発言から逃げるように身を縮めた。
「大王、これは由々しき告発ですわ。耳を塞ぎたいようなことでも、聞かなくてはなりません。……大王には申し上げにくいことですが……やはり、あの二人は度を越して仲が良かった。この男……岩城実言が言うことも合点がいくのです。今の話など聞いていると……やはり、葛城が誰の子なのかという疑念が拭いきれません……」
 大后は途切れ途切れに言葉を選びながら言った。
「……お前まで……そんなことを……大后よ」
 大王は顔を覆っていた手を下ろして、隣に座る大后を振り向き見た。大后は非常に険しい顔をされているが、詠妃を擁護する素振りは無かった。大王の妻を統括する立場の大后にとって、他の妃たちは自分の妹や子供という感覚であるが、やはりいざとなれば大王の寵愛を競う敵であるのだ。普段は年の功で余裕のある態度を取っていても、その愛、権力を我が身に引き寄せるときにはその非情な顔を隠しておきたくても隠せない。
 ましてや、岩城一族、岩城園栄とは少なからず協力関係にあり、岩城実言の言うことに同調するような言葉が出る。
「調べた方が良いでしょう。なぜなら……目の前の男がこのような傷を負っているのです。その場には詠や弾正台の役人もいたというのですから、皆に聞くしかないでしょう」
「……優しい女だ……詠は……酷いことはしないでやってくれ……何かの間違いかもしれないのだから……」
 大王は言うと、小さな声で命じた。
「後宮でのこの件を調べろ。これで春日に関わることは最後にしてくれ」
 大王は言うと立ち上がり、奥へと入って行った。
 それを受けて大后は椅子から立ち上がると言った。
「大王の言う通りだ。これを最後にしよう。それに、葛城のことは捨て置けない。はっきりさせなければ、禍根が残るからな。……岩城、それで満足であろう。早く手当てをしてもらいなさい」
 大后の最後の実言への言葉は、大王が消えて行った奥の部屋に向かうために体を翻す時に呟くように発せられた。
 実言は深く頭を垂れて、大后が下がって行く衣擦れの音を聞いた。
 弾正台は振り向いて実言にすぐに下がって傷の手当てをするように言った。実言は断りを言って、外で待っていた耳丸に支えられながら簀子縁を歩く。礼の領巾はたっぷりと実言の血を吸って、滴り落ちて簀子縁を点々と汚した。
「実言様、こちらに!お医者に来ていただいております」
 待機していた岩城の臣下が大きな声を出して部屋の中に招き入れた。
 実言は部屋の中へ入ったところで、その体は自制がきかず崩れ落ちた。耳丸はすぐに主人の異変に気付き抱きとめて、部屋の中央に敷かれた褥の上に寝かせた。 
 その時には実言は意識を失っていた。

 
 詠のために、薔薇の庭で柱の陰に隠れていたのは、詠の血を分けた弟の勇矢であった。
 詠妃は幼い時に将来をうかがわせる匂い立つ美貌を買われて、有力な貴族の養女となったが、実の弟との交流は続いていた。それは後宮に入った後もである。
 春日王子との繋がりを消すために、残るは岩城家の礼を葬り去るために頼ったのが、実の弟の勇矢だった。
 勇矢は、姉の求めに応じて女を殺そうとしたが、岩城実言に阻まれたのだった。
 そして、詠妃の息子、葛城王子は部屋で異国の書物を素読しているところに、弾正台の役人が三人現れて、警護を申し出た。
 葛城王子はその理由を尋ねたが、役人は王子が納得するような返答ができなかった。

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