Infinity 第三部 Waiting All Night21

木蓮 小説 Waiting All Night

 山の木々が朱や黄に染まり変わって、秋の深まりを感じさせた。国中が大地の実りを蓄える準備に忙しい。宮廷も今年の食糧のとれ高や地方から届く荷の勘定に忙しい。
 そのような時に、後宮から礼に手紙が届いた。大王の第五妃である碧妃からである。いつものように後宮に来てほしいとの依頼で、実言はその手紙を受け取った夜、礼に見せた。
「礼、碧様から手紙が届いた。とても、お前に会いたがっておいでだから、会いに行ってもらえないかい」
 部屋で縫い物をしていた礼は、手を止めて手紙を受け取った。実言は礼の前に座って、礼が手紙に目を通すのを待った。
「私はかまいません。最近はお便りもなくて、随分長くお会いしてないもの」
「そう、では明日、朝早くに返事を出すよ。午後にもお伺いしておくれ」
 礼は静かに頷いた。
 実言は気づいているだろうか。碧妃の手紙が本当に言いたいことを。
 その手紙は少し多弁だった。いつもなら、お付きの侍女に代筆させることもあるのに、今日の手紙は碧妃の直筆であった。そして切々と礼に会いたいと書いてある。その中に自分の体の変化を記している。季節の変わり目に、体調が悪いというようなことを書いてるが、礼にはそれとは別に、碧妃が体の変化を訴えているのを感じていた。
 しかし、それも明日確かめればいいことだから、ここで実言と憶測を話し込んでも仕方ない、と思った。
「礼は何をしているの?」
 明日の朝届ける碧妃への返事を書き終えた実言は後ろから礼の手元を覗き込んで訊ねた。
「冬支度よ。子供たちの着るものを用意しているところ」
「そう。でも、まだ冬まで日もあるし、今は私と一緒にいることだし、あちらに行って、二人だけの会話をしようじゃないか」
 実言は、頬を赤らめる礼の反応をおもしろそうに見て微笑えむとその手を取って立ちあがり、強引に寝所に連れて行った。
 翌日、礼は付き添いの侍女淑を連れて碧妃の館を訪れた。話は通っていて、碧妃の側近の侍女が渡殿の前で待ち構えていた。
 碧妃の部屋に入ると、ちょうど有馬王子が一緒であった。久しぶりにお見かけしたその姿は、健やかに成長されており、愛嬌を振りまかれて、周りの者を笑顔にしていた。碧妃は有馬王子に向けていた笑顔を庇の間で待っていた礼に向けて、微笑んだ。
「礼!」
「碧様!」
 礼はしずしずと部屋の中に進み、用意された場所に座った。部屋に入ってきた客人に少し驚いた表情をした有馬王子は、母君の右側に寄り添って固まった表情だったが、しばらくして礼ににっこりと笑顔を向けた。
「礼のことは覚えているのかしら?有馬よ、この人は礼よ」
 有馬王子は母君の胸に頬を寄せて、礼を見る。
「有馬様、お久しぶりでございます」
 礼が深々とお辞儀をすると、有馬王子は面白そうに手をたたいた。
 我が子の姿に目を細めて見ている碧妃は、この前会った二月前より痩せて見えた。美しい人のその削いだような頬が凄艶さを浮き立たせていた。
 有馬王子を膝に抱いて、碧妃は礼と近況を話し合った。碧妃は実家である岩城家のことを気にかけており、養父の園栄や、実父の河奈麿の様子を聴きたがった。
 実家の話が一通り終わるころには、碧妃の膝の上の有馬王子は目をとろんとさせてまどろんでいた。それを潮に、碧妃は乳母に王子を渡して、人払いした。側近の侍女一人の他には、礼と礼の付き添いの淑がいるだけだった。
「碧様、いかがなされました?ご気分がすぐれないとのことですが」
 碧は礼を手招きした。礼は誘われるまま、膝でにじり寄った。
「礼…」
 先ほどとは違い、か細い声で礼の名を呼ぶと、碧妃は右目から一筋の涙をこぼした。
「碧様!」
 礼も囁き声であるが、鋭く碧の名を呼んだ。
「どうされましたの?」
「……」
 言葉もなく、碧妃は瞬きすると、両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「礼、怖い……」
 やっとのことで絞り出した言葉だった。
「どうなさったのです?そのように悲しまれるのはなぜなのです?大事なお体に障りますわ」
 礼は囁き声のまま、碧妃の耳元で話した。
 礼の言葉に感じた碧妃は泣き顔を上げて礼を見た。
「お手紙から感じましたわ。碧様の体のこと」
「ああ、礼!実言兄さまには話したの?」
「いいえ、まだです。今日お会いしてからと思いまして」
「怖いのよ。私はとても怖い」
「何をそう恐れられるのですが、すでに有馬様がいらっしゃるのに」
「有馬を得たからこそ、怖い。それまでの私は、全く無邪気に大王のおそばにお仕えすることだけを考えていたわ。それが、有馬を身籠った時に、それまで優しくしてくれていた侍女や女官が急に冷たくなって、頼みごとをしても忘れたふりや、そもそもそのようなことがなかったように扱われて、この館の者は苦労したものよ。有馬を生したことで、こうも妬まれ、苛まれるのかと思うと、悔しくもあったが、私が子どもでのんきであったと、世間知らずを恥じたものだ。虐げられていた時はわけもわからず必死で堪え繕い笑っていたが、今思いかえしても恐怖だった。また、あのような思いをするのかと思うと、怖いのだ」
 碧妃は礼の胸に寄り添い、すすり泣くのだった。
「大王にはお話したのですか?」
 碧妃は礼の胸でいやいやをするように首を振った。
「いいえ、まだよ。そこにいる雅しか知らないこと。医者にも見てもらっていないわ。だけれど、これは有馬を授かったときと同じよ。体の内側に別の命がいるのがわかるわ」
「なんと、おめでたいことでしょう。岩城のお父様もたいそうお喜びになるでしょうし、何より大王にお知らせしないと」
「それはダメ。また、早いわ。二人目の子を生すとなったら、この体に危害を加えようとするものがいるかもしれない。大王にお知らせする前に、どうか実家に下がらせてもらえるようにお父様にお願いして。普段と違うことをしては、敏い他の館の侍女に気付かれてしまう。私の館にだって、どこぞの間者が入り込んでいるかもわからない。だから、いつも出入りしている礼を呼んだのよ。どうか、帰ったらお兄様に伝えてちょうだい。お兄様もいいようにしてくださるはずでしょう?」
 碧妃の手紙には、ところどころに懐妊の兆候を匂わせていた。礼はそれを読み取り、今日は満面の笑みで対面し喜び合えると思ったものを、この怯えようである。
 後宮の女の生活は苦労の多いもの、時には命さえも落としかねないのだ。我が身と共にお腹の子が葬り去られはしないかと心配をしている。
「わかりましたわ。戻りまして、すぐに実言殿にお伝えします」
「お願いよ。礼が頼りよ」
 それからしばらく礼は碧妃の気を静めるのに背中をさすって、とぎれとぎれに話す碧妃の気持ちを聞いた。
 止めたはずの涙は、また気持ちが高ぶって、こぼすといった具合で、碧妃の気持ちを落ち着かせるのに時間がかかった。
「ほかの侍女がどう思うかわからない。あらぬ噂を立てられぬようにしなければ」
 そんなことを言いながらも、わが身の内側で育っていく命のことを考えると、不安でたまらなくなるのか、袂で目頭を押さえた。
 碧妃の姿は礼の心配を駆り立てて、すぐさま邸に戻ると実言を探した。
 実言に会う前に、子供たちが駆け寄ってきて、礼は庇の間に座ると一人を膝に上げて、一人を背負い、二人が交互に言うことを聞いてやった。その合間に、傍に来た侍女の澪に実言のことを尋ねると、まだ邸には帰ってきていないという。
 また一人、岩城家の血を引く御子が誕生するという喜びと、それを阻止しようとする勢力に怯える碧を助けるために、早く実言に話をしたいのに、こんな時に限って実言は帰って来ない。
 宮廷内でも、王族主導による政治を進めようとする一派と、臣下を含めた合議による政治を進める者たちの対立が深まっていると聞く。もちろん、岩城家は臣下の代表の位置にいるため、対立の真ん中にいて、実言も父や兄を助けて臣下たちとの意見の調整に忙しいのだろう。
 王族の代表は春日王子だという。そして、吉野山で隠棲していた哀羅王子も強固な王族の絆の元でそれに同調している。実言は、仕事のこと、宮廷の中のことで話せることを礼に、寝物語のように話すことがある。哀羅王子のことたまに口にするが、その時は話を割ると苦しそうにそっと目を閉じる。
 礼は政治のことはよくわからない。ただ、我が家、我が夫、我が子のためには、この繁栄は末永く続くものであってほしい。その礎として、微力ながら礼は何でもするつもりだった。
 子供の相手をしながら、夫の帰りを待ったが、夕餉の食事時になっても実言は帰って来ない。子供を寝かしつけて、夫婦の居間で礼は薬草の本を写しながら、実言を待った。
 今夜はどこかの邸に泊まり込みかと思って待つのはやめようかと思った頃に、簀子縁から足音が聞こえた。侍女や家人が前後を固めて、扉の前までたどり着いたようだ。ゆっくりと扉が開いて、実言が入ってきた。
「おかえりなさい」
 礼は、机から立ち上がって庇の間まで来ていた。
「ああ、礼。待っていてくれたのか」
「ええ、お話ししたいことがあって」
「そう」
 実言が振り向くと、家人、侍女は悟ったように静かに部屋を出て行った。
 実言は礼に着替えを手伝ってもらって楽な姿になると、そのまま寝室に礼を連れて行くと、褥の上に座って礼と向き合った。
「碧のこと?」
「はい。碧様は……ご懐妊されているご様子」
「そうか。やはり」
 と実言は言って。
「めでたいことだ」
 と続けた。
「あなたもご存じでしたの?」
「お前をよこすように書かれた手紙を見ると、どうもただの体調の悪さを言っているようには思えなくてね。もしやと思っていたのだ。大王は有馬王子をたいそうかわいがっておいでで、碧と一緒に過ごされることも多いと聞いていた」
「まあ。……碧様はたいそう怯えていらしたわ。後宮で大王を独り占めすることは許されないと。大后以外に二人目の御子を生した方はいないのに、碧様が二人目を授かったことが知れたら、嫉妬でひどい目にあうことを懸念されて、お宿下がりを望まれています。心労でたいそう痩せられていました。まだ、大王にもお知らせしていないとおっしゃっていたわ。どうか、碧様のお体のおためにも、まずは実家に帰れるように手配をして差し上げて。それから、しかるべき時期が来たら、大王にご懐妊のことをお知らせして。後宮では辛いばかりでお体がもたないわ!」
 礼は実言に碧に成り代わって訴えた。 
「そうだな……まずは一旦本家に帰れるようにしよう。そこで、体を休ませないと心配だな」
 碧妃を目の当たりにしてきただけに、早く本家に帰れるようにしてほしい礼は、不安そうに実言を見上げていると、それを安心させるように実言は目を細めて笑った。
 礼はいつも夫に安心をもらう。この時も、実言に話して、碧のことで重苦しい気持ちになっていたのが、荷を実言が代わりに背負ってくれたように楽になった。任せなさいというように、実言が礼の肩を抱いてくれたのだった。

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