翌日に、岩城園栄は有馬王子を連れて王宮を訪れた。御簾を下ろした中に横たわる大王の傍に、有馬王子だけがお入りになった。その日は、大后がお傍にお付きになっていたので、幼い有馬王子の手を取って、病に臥せっている父君を一緒に励ました。
体調のすぐれない大王の部屋を早々に辞して、園栄は大后と少し話すことができた。大后は王族出身である。先王の弟君の姫なのだ。教養もあり政の理解が深い方なので、園栄も率直な話ができた。結果、何も証拠と言えるようなものはなかったにせよ、まるで岩城家に疑いがあるように捜索の手が入ったことを、園栄はひたすら弁明した。大后は岩城家に曇りがないことはわかっているので、園栄が言葉を尽くしすぎる手前で手を挙げて止めた。
「わかっている。岩城が大王を呪うなどないことだ。しかし、そなたもわかっているだろう。これは、取るか取られるかの戦いを仕掛けられているのだ。もし、そなたがしくじったなら、私は手助けできぬ。その時は、私は私が守るべきもののために最善を尽くす。それが岩城と敵対することになっても仕方ないことと思っている。それはそなたもわかってくれるな」
決意のこもった言葉に、園栄は平伏した。大后ははっきりと口には出さないが、大王の健康状態がこのまま続くとおのずと後継者の問題を考えなくてはならないのだ。もっともな話で、園栄も改めて覚悟を決めるのだった。
「しかし、私の思いは、最後までそなたが私の味方であってくれたらと思っている」
大后はまだ何を話されているか理解できない有馬皇子をあやして、決して園栄の方を見ることなく話す。
「わたくしも同じ思いでございます」
と平伏したまま、園栄は答えた。
それから十日ほど経つと、大王の容体は安定し、そして回復に向かった。
大王は食欲も出てきて、水や薬湯だけだったものが、粥を口にされるようになり、一時痩せられた体も心持ち戻られた。そして、褥に体を起こすことができるようになったと聞くと、妃や王子、王女が次々に大王の寝所を訪ねられて、格段に顔色が良くなった大王の手を取り、快癒したことを確かめて皆が目を細めて喜び合った。
お腹の膨らみも目立ち動くのもしんどい碧妃は、大王快癒の知らせを聞くとしたためた文と有馬王子を園栄に託した。王宮から帰ってきた有馬王子は、今日会った父君の様子を母に話して聞かせた。有馬王子を抱くこともままならなかった大王が今日は体を起こして、有馬王子を膝に抱いてくれたという。
碧妃も飛んで大王の元に戻りたかったが、身重の体は輿に乗るのも辛くて、ただただ実家の岩城本家で神の加護に感謝するばかりだった。先ほどまで大王が抱いていた有馬王子を抱いて、その柔らかな頬に頬ずりした感謝の言葉を何度も呟いた。
「まだ、いいではないか。……そう急ぐこともあるまい。私は余韻に浸っていたいのに」
王宮内の春日王子の住まいで春日王子は、起き上がろうとする朔の動きを察知して、後ろから抱きすくめて、起き上がれなくした。
「……王子」
朔は王子に抱かれたまま、じっとしていた。
「この時が一番嫌いだ。手離し難いよ」
朔は 王子の腕から力が抜けるのを待って、その身を起こした。
「もう行きませんと」
朔は傍に脱ぎ散らかした衣服の中から肌着を取って、裸身を覆った。
「つれない態度だ」
王子は寝そべったまま吐き捨てるように言った。しかし、朔は気にすることなく、御帳台の浜床の端に座って袍を引き寄せた。春日王子の恨み言に付き合うことなく、朔は帰り支度を進めた。
「いい匂いだ。服に焚きこんだ匂いが髪にも移っている」
朔が帰り支度の動きを止めないので、春日王子は体を起こしてゆっくりと朔の背後に寄った。朔のたっぷりとした長い髪の中に顔を寄せてその芳しい匂いを鼻孔に吸い込んだ。
朔はこの匂いについて春日王子が話すのに驚いた。そんなことを言ってほしくはなかった。
椎葉家の古参の侍女がこの香を焚きしめたようだ。朔にとっては、懐かしい芳しい匂いだった。
夫の荒益と結婚して、椎葉家の邸に入って気づいたのが、この香の匂いだった。異国から持ち帰えられた香木を椎葉家が譲り受けて、邸中で焚いていた。朔は嗅いだこともない魅惑の香りに喜んだ。朔が嬉しそうにしているのを見た夫の荒益が、邸中のその香木を集めて朔にだけ使わせた。夫が朔だけの香りにしたのだった。当時は衣服にも焚きこんでいて、身近に感じていた匂い。最近は、焚きこむこともなかったが、今日は幹様のところに行くというので、古参の侍女が気を利かせたつもりかもしれない。
春日王子は、袍を着るのに膝に置いて前後ろを確認している朔の後ろにぴたりと寄ったかと思うと、朔の腰に腕を回して再び朔を抱きすくめた。
「久しぶりに会ったというのに、慌ただしいことだ」
大王の病気平癒のために、大きな行事を取りやめて王族も臣下も祈りを捧げていたため、朔が後宮の幹妃の元を訪れるのは一月、いや二月近くぶりになった。大王の回復に皆が喜び、静かだった都の大通りはいつも通りの賑わいを取り戻し、朔も外出がしやすくなって久しぶりに幹妃の元を訪れたのだ。
春日王子の腕はゆっくりと、朔の腰から上に上がってその手は朔の顔をとらえた。
「少し痩せたか?」
春日王子の言葉に、朔は答える。
「いいえ」
「そうか。これも久しぶりだからかな。しかし、顔色もよくない」
春日王子の言葉に、朔は顔を春日王子の方に向けた。
「お前の白い肌が、湖の底のように青く見える」
王子はそう言って、振り向いた朔の唇を覆って吸った。
「冷たくなったお前の血潮を温かくしたいよ」
王子は、唇を離してそう囁くと、朔の顎、頬、首筋へとその唇を移動させて、朔の肌を色づかせていく。朔はそのほっそりとした首を傾げて、王子のするままにその愛撫を受けた。春日王子は、故意なのか朔の真っ白い肌に当てた唇が吸って離す時に、大きな音をたてた。
「……王子」
侍女達も遠ざかっていて二人っきりの静かな部屋の中で、王子の唇による愛撫は再び二人の性愛の欲求を呼び起こす。春日王子は朔と共に御帳台に倒れこみ、その柔らかな素肌を求めて着込んだ肌着の中に手を入れた。
朔は、その力強い手に思わず、あっと声を上げた。
それと同時に。
「……春日様」
寝所を仕切るために垂らした御簾の外から、いきなり男の無粋な声がした。
「なんだ!」
春日王子は、朔の首に押し付けた唇を離して言った。
「大王がお呼びでございます」
王宮の舎人が大王の呼び出しを伝えに来たのだった。
「……わかった。……すぐに行く」
春日王子は朔の首に顔を押し付けた状態で、返事した。
「はっ」
御簾から離れる人の気配があって、朔は春日王子が自分から離れるのを待った。しかし、王子は先ほど以上に力を込めて後ろから朔を抱いて、その髪の移り香を嗅いだ。
「王子?」
「わかっている」
朔の肩に載せていた顔を上げると同時に、朔の胸に回していた腕も解いた。朔は、自由になって、着付けの続きを始めた。朔の帰り支度のそばで、春日王子は褥にあおむけに寝転んだままだ。
「王子?」
再び朔が呼びかけた。
「ああ」
王子は返事して、低い声で笑った。
「どうしましたの?」
「どうもしないさ。……兄上は……大王は、いろいろと考え始めてくれたようだ。ありがたい」
春日王子はそう言って、また喉を鳴らすような声で笑った。
「……とてもいいことがあるようですわね」
「いいこと?……それは、これからの兄上の気持ち次第だよ」
春日王子は笑顔で言った。
「兄上と私の思いが合えば、それはそれはこの国をもっと飛躍させることができるであろう。そう思うと、体の底から力が湧いてくる思いだ」
「頼もしいことでございます」
春日王子は先ほどまで朔を離すのが嫌だと、子供のようにだだをこねていたはずなのに、今はもう朔への興味はなくなって、明日を見ているような遠い目の中に爆ぜる炎を見せた。
この部屋に入ってきたときと寸分たがわず美しく着付けた朔は王子の部屋を辞去するとき、王子は寝転んでいた御帳台の中で体を起こして、その帷子を揺らして出てきた。
「次は、こんなに間が空くことなく会いたいものだ。今日、そなたと会ってそう思った」
朔にその言葉を投げかけて、春日王子は振り向いた朔の頬に手を添えて撫でた。
朔は困ったような、戸惑ったような、照れたような表情をして、最後は笑って庇の間から簀子縁へと出てった。
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