Infinity 第三部 Waiting All Night65

小説 Waiting All Night

 月の宴は陰陽によって、満月の日を選んで行われる。その夜に雲がかかるのか、雨が降るのか祈るのみである。
 実言は夜明けとともに起きだして、簀子縁から階の半ばまで下りて天を仰いだ。
 雲のない空だった。
「今は雨の心配はないわね」
 追って簀子縁まで出ていた礼が声をかけた。実言は階を上がってきて、礼とともに庇の間に入って言った。
「今日のために沢山の人が準備に時間をかけてきたからね。このまま天気が持って、無駄にならないとよいが」
 礼は実言に朝餉を用意して食べさせた。その後実言は、起きた子供達の相手をした。二人が左右の膝に乗って話しかけてくる。娘の蓮はいち早く実言の首に細い手を回して頬を寄せて抱きついた。自分も甘えたいのに先を越されて我慢する実津瀬の手を握ってやると、寂しそうな顔がにっこりと笑顔になって、実言も笑いかけた。
 子供達のかわいらしい仕草やその柔らかく温かな体の感触を感じると、実言は心が安らぐ思いだった。
 昨日、宮廷は何も動かなかった。しかし、実言は密かに動いた。いや、向こうから動きがあった。
 哀羅王子から連絡が来たのだった。
 哀羅王子と通じることはできたが、確固とした連絡の手立てはなかった。だから市に毎日人を立たせて、何かあればそこに哀羅王子の使者が来るという方法を取った。その日、耳丸が市の魚売りのおやじの後ろに座って店先を見ていると、哀羅王子の邸の老爺が声をかけて来た。
「魚を売ってもらえませんか?」
 耳丸はおやじの前に出てきて訊いた。
「何が欲しいんだ?」
 老爺は魚の前にしゃがみこんで魚を見ている。
 それが哀羅王子に仕える老爺の日良居である。日良居は魚を六匹買って邸に戻って行った。
 それと同時に、五条の岩城実言邸に耳丸は飛ぶようにして帰った。妻の胸の中で眠りについた実言は、清々しい目覚めで起き上がったところに、耳丸が帰ってきたのだった。
 耳丸は老爺から受け取った貨幣を通す紐を解いてその中にある手紙を実言に渡した。
 その中で、哀羅王子はすぐにでも渡したいものがあると伝えてきたのだ。渡したものを見れば、なぜ岩城に預けたいかわかるという。持って行った者は返さず、渡した物と一緒にそのまま保護してほしいと書いてある。今、哀羅王子が言ってくるということは、昨日の久留麻呂のことはもう知れているということだ。
 あの場には王族はいなかったから、春日王子の配下にいる貴族がその足で伝えに行ったか、間者が向かったか。春日王子の知るところとなり、それが哀羅王子にも伝わったのだろう。
 今からどうやって哀羅王子と連絡を取ったものか。
 実言は部屋で頭をひねった。
 暫く考えてから頭をまっすぐ元に戻した。
申し訳ないが、あの方を頼るしかないと思い、すぐさまあの方の邸に使いを走らせた。
 あの方とは大田輪王である。大田輪王なら、哀羅王子の邸を訪れるのは不自然ではない。供の一人として実言の家人を連れて行ってもらい、細かく話を聞かせてもらうように計らった。
 実言が直接聞けばすぐに最善の対応ができるだろうが、そうもいかない。家人は実言から預かった手紙を持っていき、哀羅王子から詳細を伺った。そして、その物とそれを持ってくる者は、月の宴の行われる明日に行動することに決めた。月の宴で町は賑わっており、往来の人も増える。間者の目も欺きやすいのではと考えた。
 実言は昨日の忙しさを考えれば、今日の子供達とのこののどかな時間はこの上もないものだった。
 正午には着替えを始めた。礼は寂しがる子供達を遠ざけて、着付けを手伝った。
 夫は、翔丘殿で武官の美しい装飾の衣装を身に着ける。礼は碧妃とともに月の宴の席でその姿を見るのが楽しみだった。
「また後で。お前が美しく着飾って座っているのが楽しみだ」
 礼が思っていることを実言は言葉にして言って礼の右頬にそっと触れて部屋を出て行った。礼は、簀子縁に出てその後ろ姿を子供達と一緒に見送った。
 萩は、庭の隅で自分の主人家族の様子を見ていた。旦那様が渡殿を進む姿が見える。
 この邸は多種多様な植物、木や草、花を植えている。薬になる植物、食べておいしい果実、見て愛しむ花たち。束蕗原の主人である去の元で医術について学んでいた萩は、望んで都の礼の邸に来た。去は萩が華やかな都に憧れていることは分っていたが、若い萩が都で学ぶことはいいことだと、礼の邸に勤めることを認めた。
 今も庭の隅で雑草を抜いたり、できた木の実を取ったりと庭の手入れをしながら、都の貴族の生活を垣間見ている。
「……萩」
 後ろから名前を呼ばれた萩は振り返った。後ろには間羽芭(まはば)が立っていた。この邸で働いている下男である。十八の萩より少し年上の若い、男ぶりの良い男。
「間羽芭」
 萩は背の高い間羽芭を見上げた。間羽芭は笑いかけて、萩に近づいた。
「今日、どなたかこの邸を訪問されるだろうか?」
 声を潜めて間羽芭は訊いてきた。
「お客さま?」
「そうだよ。奥様から何か聞いていないかい?」
 萩は少し考える表情をしたが、答えは。
「何も聞いていないわ?どうかしたの」
 と問い返した。
「いいや。なんでもない」
 萩は怪訝な顔をした。そんな表情になったことを忘れさせるように、間羽芭は萩の体に近づいた。傍にある樹と間羽芭の体に囲われるようにして立っている萩は、心が躍るのを隠そうと下を向いた。
「萩」
 間羽芭は恥ずかしそうに下を向いて腹の前に重ねた萩の上の手を取った。振り上げられた萩の顔を見つめて、そっと抱き寄せた。
 萩は先日、間羽芭が急に顔を近づけて来たと思ったら、唇が重なって吸われたことを思い出していた。今日もそんなことが起こるのではないかと思った。間羽芭の胸に頬を押し付けられながら、あれは夕暮れ時で辺りが暗くなりかけていたし、倉の陰で人目につかなかったから、今日と違う。だから、今こうして腕の中に入れるだけにとどまっているのかしら、と思った。
 しかし、間羽芭の頭の中は違った。昨日、この邸の家人がどこかから情報を持ち帰ったのをかぎつけた。そして、部屋に張り付いて聞き耳を立てていると、月の宴の当日にこの邸に誰かが来るということまでは盗み聞きできたが、それがどこの誰なのかまではわからなかった。
 間羽芭は毎日、夜明け前に邸の外に出ることが日課である。それは、真の主人からの連絡や、自分が得た情報の伝達のためだった。昨日も、夜明け前に起き出して裏門から邸の外に出ると、行き倒れ寸前のぼろをまとった男が道の端に座っていた。その男が低い声で言う。
「昨夜、久留麻呂が口を滑らせて謀反を企んでいるかのような発言をした。話の風向きによっては、春日様が標的になる可能性がある。仕掛けるとしたら、岩城だろう。だから、この邸に人の出入りがあれば教えろ」
 間羽芭は短い説明で要領を得て頷いた。そして、真の主人である……春日王子のために邸の中に潜んで聞き込みをした。そして、部屋の奥でこの邸の主人である岩城実言が帰ってきた従者と話したことを人づてに聞いた内容が、月の宴当日、誰かがこの邸に来るということだった。
 誰だかわからないが、それは我が主人春日王子にとって、破滅を呼び込むかもしれない。それを阻止するのが自分の仕事である。
 間羽芭の正体は、春日王子が岩城実言邸に送り込んだ間者である。
 情報を得るために、月の宴当日、この邸の女主人に近い萩に近づき、何か有益な情報はないかと探りを入れたが、萩はこの邸で起こることについては何も聞いていないようだった。
 間羽芭は萩を抱く腕の力を弱めると、萩はすぐ近くで顔を上げた。
「奥様に来客があれば教えてくれ。庭の警護に当たるから」
 間羽芭にそう言われて、萩は信じた。この邸を守るために間羽芭は大きな働きをしていると思っているから。
「わかったわ。もう行かなくては。他の人に怪しまれるわ」
 間羽芭は頷いて、萩を行かせた。萩は別れ難そうに一度間羽芭を振り向いた。間羽芭が微笑むと、それに安心したのか、萩は立ち去った。
 間羽芭は萩と入れ替わるようにして、樹の陰に立ちこの邸の主人の部屋に目をやった。
 今日、誰が訪ねてくるのだろう。誰だろうと見逃すわけにはいかない。地方から来た荷物持ちだろうと、必ず誰と話をするのかを確認するように言われている。
 間羽芭は樹と同化してじっと目を凝らした。
 
 礼は実言を見送ると、子供達を部屋に連れて行って遊ぶのを見守った。蓮の好きなお人形遊びに実津瀬がつき合っている。
 礼は、二人の仲の良い様子を微笑ましく見ていたが、心の中は他のことに気を取られていた。昨夜、実言が寝物語の続きのように耳打ちしたことに緊張していた。
 暑いと言って、衾を跳ねのけた実言は、だからといって礼の体を離さず、自分の肌をぴたりと押しつけて、しっとりとした感触を喜ぶような言葉を囁いていたかと思うと、ふと声色を変えて言った。
「礼、このまま私の言うことを聞いてくれ。明日は客人がいらっしゃる。私が月の宴の準備に邸を出て行った後にいらっしゃったら、渡道に全てを任せている。心配することはないが、昨日言っただろう、争いが起こるかもしれないと。その口火を切る出来事になるかもしれない。だからお前にも話しておくよ」
 夫の言葉に礼は恐怖したが、夫は礼の体をきつく抱いて。
「お前は私の守り神だから、全てがうまくいくように祈っておくれ」
 と言った後、再び礼の体を抱きなおしてその髪の中に顔を埋めると、すぐさま寝息をたて始めた。
 今日は何が起こるのだろう。実言が言うように邸のことは側近の渡道が全てを取り計らってくれるから、心配はしていないけれども、胸の中には悪い夢を見て起きたような苦しい気持ちが渦巻いているのだった。

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