間羽芭はこの邸を訪れた者から受けとった物を邸の外にいる仲間に渡さなくてはいけなかった。今、広い庭へ入って追っ手を巻いたが、外に出ようとしても門は固めてあるだろうし、これからどうしたものかと考えた。
「間羽芭!」
自分の部屋へは戻れないため、自然と侍女達女の部屋が並ぶ区域に入っていたら、萩が声をかけて来た。萩は簀子縁から庭にいる間羽芭を見ていた。
間羽芭はこの女が、自分に好意を抱いていることはわかっている。自分もまんざらではないが、優先するべきは自分の役目である。この女を利用することに何の躊躇があるだろうか。
「萩、すまないが頼まれてくれないか。これを持って邸の外に出てほしい。これは、秘密のものだ。このお邸に、旦那様や奥様に関わることだ。誰にも知られずに、外に出してほしい。そうすれば、外に受け取る者がいるから、渡せばいいだけだ」
萩は近くの階から駆け下りて近寄ると同時に間羽芭から口早に言われた。
「これを……」
萩はわけもわからず、手の中に押し付けるように渡された細長い箱を見た。
「頼む。これをやり遂げれば、旦那様からの信頼を得らえる。お前との仲を認めていただけるはずだ。どうか頼む」
箱を持たせた萩の手の上から間羽芭は手を握った。
「門の外に出れば渡す相手がいるから、心配することはない」
間羽芭に強く促されて萩は階の後ろに隠してある沓を履くとすぐに庭の中へと走って行った。
萩は近くの門はどこだっただろうか、と考えた。本当にこの邸は広くて知らない区域に来たらもう迷子である。
渡された物をなぜ外に持ち出さなければいけないのだろう。間羽芭は旦那様や奥様に関わることと言ったが、旦那様が宴のために外出された今、奥様に渡せばいいことではないのか。大事なものを外に出す必要があるのだろうか。
奥様は部屋で子供たちを相手にされていたはず。
萩は、門に向かう足先を母屋の方へ向けた。
しかし、言われた通りにしたほうがいいのかもしれない。外にいる人に手渡したら、旦那様のところへ運ぶのかもしれない。
萩は思い直して、庭を突っ切ろうとした。
子供部屋で実津瀬と蓮が遊んでいる。侍女の澪や他の侍女の娘で十二歳の少女を子守り役に置いているが、礼も庇の間に座って二人を見ていた。
先ほど、門の近くでは大きな声がしていたけど、それは夫が話していた客人のことなのかもしれない、と礼は思った。渡道が何も言ってこないうちは、礼も普段通りに過ごしていた。
蓮は人形遊びに付き合ってくれる少女と人形を動かしながら何やら言い合っている。人形遊びに飽きた実津瀬は、礼の方へと駆け寄ってきた。
「お母さま」
実津瀬は膝の上にあがって、礼の肩に抱き着くと小さな声で耳元に囁いた。心地よい声に礼は微笑んだ。実津瀬も笑い返して、礼の胸の上に頭を載せてきて、その小さな体に腕を回してぎゅうと抱き締めた。しばらくすると実津瀬は目をしばたかせ、やがてゆっくりと目を閉じてまた開くということを何回もしている。眠たくなったのだろうと、礼はその背中をとんとんと叩いて眠るのを助けながら、庭を見た。
庭の低い木の向こう側を萩が歩いている。顔は後ろを向いて何かを気にしながら、しかし急いでいるようで、足だけは前に進みたがっているようだ。そして、礼の視界からいきなり消えた。躓いたようだ。
何をしているのだろうか。
不思議に思いながら、礼は腕の中でむずがる実津瀬の背中を撫でた。
木の根に躓いて転んだ萩は、間羽芭から受け取った箱を投げ出してしまった。
ああ、間羽芭のいうことを聞いて、早く門の外にこの箱を持って行かなくては。
わかっていても、今一つしっくりとしないものを感じる萩は、のろのろと立ち上がった。
木の陰から立ち上がった萩の姿が見えて、礼は安心した。転んで怪我でもしたのではないかと思ったのだ。しかし、立ち上がったまま動かないので、礼は萩が足を痛めてしまったのかもと気になった。
傍に近寄ってきた澪に眠り落ちてしまった実津瀬を渡して、礼は簀子縁へと出た。
再び萩の姿が木の陰に隠れてしまったので、足が痛くて歩けなくなったのではないかと、階のところまで進み。
「萩!」
と呼んだ。
「萩、怪我でもしたの?」
萩は投げ落とした箱を拾うためにしゃがんだのだった。そして、箱を手に取った時に、名を呼ばれた。
奥様の声。
萩はしゃがんだまま顔を上げた。ここは子供部屋に面する庭だった。自分の姿が奥様に見えていたこと今初めて知った。
「萩、お前は転んだでしょう。大丈夫かい?」
萩を心配する声が再び聞こえた。
萩は返事をしようと体を起こそうとしたところ、後ろから口を塞がれた。一瞬のことで何が起こったのわからず恐怖が全身を走った。しかし、この恐怖の源を見ようと、必死に顔をねじって後ろを見た。そこには、今まで見たこともない表情をした間羽芭が、萩の腰に取り付き腕を伸ばして萩の口を封じていたのだった。
間羽芭だと思ったが、それはもう萩の知らぬ男の顔であった。なんと恐ろしい、凶悪な顔なのだろうか。萩はより恐怖が増して、死に物狂いでその手から逃れるためにもがいた。
「……萩」
礼の声が近くで聞こえた。
萩は奥様が階を下りて庭を見ていることが分かった。間羽芭がなぜこのような怖い顔をして自分を押さえつけているのかわからないが、ここから逃れなければいけないと思った。萩は渾身の力を振りぼって体をくねらせて上から押さえつける間羽芭を振り落そうとした。
萩の思わぬ抵抗に、間羽芭は驚いて腰を押さえつけようと力を入れた。そうすると、塞いでいた手が疎かになって、萩は顔を左右に振ってぴったりと口を塞いでいた手に緩みが出た。萩は容赦なく自由になった口を開き、間羽芭の手に噛みついた。力いっぱい噛みついたが、間羽芭は声を上げることはなかったが、その痛みに耐えかねて萩の口を覆っていた手を一瞬放してしまった。その時、萩は大きな声を上げた。
「いやー」
という悲鳴になって、子供部屋の前の庭に響き渡った。
「萩!」
鋭い声が飛んだ。萩は助けを求めようと、声を出そうとしたが、出せなかった。腹の底から「助けて」と叫ぼうと思っているのに、その思いは言葉にならない。萩は顔だけ後ろを振り返った。そこには、自分の腰に刺さった短剣の柄がぎらりと光って見えた。そこで初めて、腰から体中に痛みが走った。
「萩、どうしたの?」
心配そうな声音は、萩にどんどん近づいた。
礼は、確かに萩の悲鳴を聞いた。ただならぬ事態が起こったのだと、沓を履くこともなく庭へと走り出した。
「萩!萩!返事をしておくれ」
礼は、萩がいたであろう木の茂みに走り寄ると、そこには言葉にならない光景があった。
「お前は!」
礼は怒鳴った。萩の上に乗りかかり残忍な表情を浮かべた男の姿が見えたのだ。
間羽芭は萩の腰に突き立てた短剣を抜くと、素早く萩に馬乗りになり、躊躇なくその胸めがけて振り下ろした。
その姿を邸の女主人である礼に見られたのだった。礼の声で萩の体から飛びのき、転がっている箱を拾いあげた。
ここで、女主人を襲ったところで何もならぬと、間羽芭は逃げ出した。
「萩―!」
礼はすぐに胸を刺された状態の萩の傍に跪いた。
礼のただならぬ叫びに、子供部屋にいた澪は簀子縁まで実津瀬を抱いたまま出て来た。
「礼様!」
礼は立ち上がると澪に言った。
「澪、子供達を部屋の奥へと連れて行って!こちらに来てはいけない。早く、早くして。誰か!曲者が邸にいる!捕まえておくれ」
澪は礼の迫力に気圧されるように、実津瀬を抱きなおして部屋の奥へと走った。蓮と一緒に遊んでいた少女を急き立てて、少女は蓮の手を握って澪の後ろをついていく。
礼の叫びに、邸の舎人や侍女が簀子縁や庭へと飛び出し来た。
逃げていく影を追う者、礼を心配して階の下まで降りてくる者。邸の中は様々な人の動きがあった。
「萩!萩!」
礼は萩に呼びかけ、刺された胸に手を置いた。溢れ出る血を押さえても、指の間から流れ出る。
「萩!」
みるみると目の奥の輝きが消えていくのを、どうにか止めようと礼は何度も萩の名を呼んだ。
「萩!萩!私を見て、行ってはだめ。だめだ!行かないで!」
礼は叫び続けた。
「……萩?どうした……」
萩の口が小さく動く。礼は口に自分の顔を寄せた。
十八の可憐な女人は蒼白の顔に痛みに耐えるために噛んだ唇の赤さが際立っていた。
「……れ、れ…いさ、ま」
萩は振り絞るよう発した言葉は礼の名を呼ぶところで、こと切れてしまった。
「萩!萩!」
礼は萩の真っ白な顔に何度も呼びかけたが、目の奥はもうこの世を見てはいなかった。
「……うっ……うっ……」
何度も飲み込んで抑えようとする嗚咽が漏れてしまう。萩の手を握って、礼はそれを自分の額に押し付けた。詫びる気持ちだった。この邸に来なければ、萩はこんな目に会わなかっただろうと。
礼は、夫の……実言の言葉を思い出していた。争いが起こるかもしれないと。その争いが、まさにこの邸から始まったのだ。
「礼様」
礼の背後から渡道の声が聞こえた。夫が自分が外出した後は、全てを任せた男である。
「立ち上がってください。後は我々が良いようにやりますから」
礼は、渡道に肩を持たれて促され、萩の手を離して、立ち上がった。
「美しい姿で束蕗原へ連れて帰ってやってほしい」
礼は呟くように言うと。
「承知いたしました」
と渡道は言った。それが合図のように、邸の者たちが萩の体にむしろをかけて運ぶ準備を始めた。礼は渡道に促されて、邸の方へ体を翻した。
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