Infinity 第三部 Waiting All Night73

小説 Waiting All Night

春日王子は自らも部屋を回って左目に眼帯をした女を探したが、すぐに見つからない。春日王子は、翔丘殿の奥の部屋で待った。しかし、待てども女をそして岩城実言とともに逃げて行った哀羅王子を捕らえたとの報告は来ない。
「まだか。どちらも捕らえられないのか!」
 春日王子は、近くの舎人に怒鳴った。その剣幕に気圧されて、舎人は簀子縁に出て、暫く歩いていてまた部屋の中に戻ってくる。なにも知らせることがないことを申し訳なさそうにうつむいたまま庇の間に座っている。
 東の空が少しばかり白んできたころに、一睡もできない春日王子は翔丘殿を出た。王子の怒りが痛いほど感じ取れて、誰も春日王子が捕まえろと言った者たちを捕まえられませんでしたと報告はできなかった。皆が震えながら、春日王子の馬を引き、周りを警護しながら佐保藁の邸へと帰って行った。
 春日王子の腹立たしい気持ちは、出迎えた舎人や侍女に向かった。腰の剣を投げつけるように渡して、気遣う者の手を無造作にはねのけて自分の部屋に向かった。それでも気が収まらず、庇の間に入る時に下がっている御簾を引き下ろし、部屋の中に進むと几帳を蹴り倒した。
「王子!」
 まだ怒りが収まらない春日王子は、机の上の筆や綴り箱などをなぎ倒そうと手を上げた時に。
「王子!お怪我を致されます。おやめください!」
 古参の舎人の声が飛んで、春日王子は我に返り動きを止めた。気がつけば肩で息をするほどの所業だった。
「……」
 恐怖で顔を引きつらせた舎人や侍女を見て春日王子は、心の荒れ狂うままに暴れていたことを自覚した。
「お休みくださいませ」
 若い侍女が駆け寄って言った。
「言われなくても休むわ!」
 王子は怒鳴って奥の寝所へと入って行った。心配して侍女がついて入ろうとしたところ。
「来るな!一人になりたい」
 若い侍女は何度か王子の夜伽の相手をしたことがあり、自分が傍にいることが王子のためになればと思っての行動だったが、拒絶された悲しさに耐えられず勢いよく後ろを振り向いて走り去った。
 春日王子は一人、己の感情に向き合うのに精一杯で、女の背中など見向きもしなかった。
 どさり、と褥の上に腰を下ろしつっかえ棒が取れたように後ろに倒れて寝っ転がった。
 哀羅王子に仕える老爺が岩城実言の邸に持ち込んだ箱を奪ったはいいが、中身は愚にもつかない誰かの歌だった。
春日王子はこんな宴の席にそのような重要なものを持って来るなんて、と思ったが、一瞥するなりとっさにそれを握りつぶした。それは、すぐに偽物だとわかったからだ。そうなれば、本物はどこへ。岩城に渡されたと考えるのが自然だ。
 あれは、岩城に渡ったのか。
 持っているのは岩城実言だろうが、そう遠くないうちに園栄もそれを知ることになるだろう。それをどう利用してくるか……。それを持って、王宮に駆け込めば、大王❘いや、兄上はどう思うだろう。青天の霹靂であろうか。それとも遂に、と思うだろうか。
 密かに王宮に持ち込まれていれば、こうして寝転んでいるうちにこの邸を大勢の兵が何重にも取り囲んで、起きた時には首元に剣を当てられていて謀反人として捕らえられてもおかしくない。
 どうするべきか。人を走らせて仲間を招集するか。それで、何を話す。
 もうこの世にはいない久留麻呂の失言から、都は政治的な行動が起こるのではないかと、皆が緊張している中、月の宴は行われた。しかし、この時は誰も久留麻呂の失言を取り上げて、政変を企もうとする者はいなかった。しかし、その水面下では哀羅王子が裏切りを働いた。これは、春日王子にとっては、左手が自らちぎれて敵の腕を掴んでいったと同じことだった。
 こんな状況を、仲間に話したところで、皆が何と思うか。
 分の悪い話に皆はうなだれて、結びつきの弱い者は怖気づいて離れていくかもしれない。
 地方の連携している豪族たちを、不安にしないためにも地方には人を走らせる準備をさせようか。もっと、戦の体力を付けたかったのに時間が無くなった。
 あれこれ考えるが、今すぐできることはないように思った。そして、急に眠気が来た。
起きたら汚い兵士が土足でこの褥の周りを取り囲んでいても知ったことかと、春日王子は体が求める欲に身を任せた。

 都の中心から離れて、南西の方向へ向かうと粗末な家や、塀の崩れた手入れの行き届いていない邸が点々とある寂しい場所に突如高い塀に囲まれた邸が現れた。それが、岩城園栄の別邸である。
礼は舎人の駆る馬に乗って、その邸に届けられた。
玄関には侍女が二人、礼が来るのを今か今かと待ちわびている様子で、馬の蹄の音が聞こえると、二人が手を取り合って礼がであることを祈っていた。
「待たせたな!」
 礼がその背中にしがみついていた舎人は、嬉しさに泣きださんばかりの侍女二人を馬上で見下ろしながら言った。
 すぐさま男が駆けつけて、馬を鎮めながら礼が下りるのを手伝った。後ろをついてきていた耳丸はすでに自分で馬を下りて、薬を入れた箱を持ってきた。礼は無言でそれを受け取り、邸の中へと入って行った。
 侍女二人に案内されて入った部屋には、てっきり実言が待ってくれていると思ったが、誰もいなかった。それに、怪我人もいない。
「お座りになってくださいませ」
 侍女に促されるまま、円座の上に礼は座った。ほどなくして、簀子縁を歩く音が聞こえた。礼は緊張して立ち上がったところで、庇の間に実言が一人で現れた。
 礼は自ら庇の間まで駆け寄り、無言のまま実言の胸に飛び込んだ。
 実言は礼がこちらに向かってくるのが嬉しくなって、両手を広げた。勢いよく体をぶつけるように礼は実言の胸の中に飛び込む。その勢いの強さに、実言は礼のこれまでの心細い気持ち、不安、恐怖を感じ取った。ぐっと礼を抱きしめて、礼にだけわかる小さな声で言った。
「礼、全てを聞いている。私は知っているよ。お前を辛い目に会わせたね」
 実言は礼の息を止めるほどの力で礼を抱く腕にもう一度力を込めた。
「……すまない。礼」
 その言葉は礼の耳に届いたが、それよりも昨日の昼間に夫と別れて一日も経っていないのに、それはそれは長い間会っていないような気持ちで、実言の胸にすがった。
「全ては私が不甲斐ないためだ。お前を悲しませた」
 礼は無言のまま実言の胸に顔を埋めた。
 いくら実言の言い訳を並べたところで、礼には関係ない。その慣れた体の弾力や匂い、安心する声音を心が体が求めるのだった。
「……礼。私はいつもお前に対して我儘で甘えてばかりだ。お前を辛い目に会わせてしまって」
 礼は昨日の恐怖を振り払うように我が夫の胸に顔を押し付けた。
「……実言、怖かった。怖かった。私たちの邸で、萩が亡くなったわ。それも剣で刺されて、たくさんの血を流して」
「ああ、礼。聞いているよ。萩をこと。苦痛をあわせて辛い思いをさせた。むごい目に会わせてしまった」
「……もうあんなことが起こらないと言って。子供達や邸の者たちを危険な目に遭わせることはないと。もうあんな恐ろしいことは嫌よ」
「あんなことはもう私たちの邸では起こらない。私が誓うよ。お前を、子供達を、邸の者たち全員を二度と危険な目に遭わせない。だから許しておくれ、礼」
 実言は礼を抱きしめていた腕を緩めて、礼の動きを自由にした。礼は実言の胸から顔を上げて見上げた。
 切れ長の目がじっと礼の右目を見ている。
 いつもの実言の眼差しに礼は心の平穏を取り戻した。
「……実言……お怪我をされた方がいたはず。手当てをしなければ」
 礼は医者の心を思い出したかのように言った。
「そうだ。信頼できる医者はお前しか思い浮かばなかったよ。私の妻であって、ありがたい」
 実言は再び、礼を抱きしめた。
「矢で傷を負われたのは、哀羅様だ。どうか、哀羅王子を助けておくれ」
 礼はそれを聞いて驚き、身じろぎしようとするのを実言は腕の力を強めて封じた。
「今は腕に矢を受けて苦しまれている。早い手当てが必要だ。お前の知識と経験で王子を助けてくれ。頼む。王子は、お前を傷つけた時の王子ではない。お前にしたことを悔い、悩まれているはずだ」
 実言はそこできつく締めた腕を解いて、礼の肩に手を置いてその右目を見つめた。
 前に、後宮の碧妃の元へ通っていた時に、同じく後宮近くに部屋を持っている春日王子の元をたびたび訪れていた哀羅王子が、実言を苦しめるために礼を襲った。体を押さえつけて、礼の体を我がものにしようとした。礼は、すんでのところで逃げたが、胸には凌辱手前の痕跡を残されて、その心は傷つけられた。
 それから礼は哀羅王子を恐怖していた。その人を看護するのかと思うと、礼には動揺が走って実言の腕の中でも落ち着かないのだった。それをわかって実言は礼に言い聞かせた。目を見て礼に訴える。
 礼はじっと我慢比べのように実言と見合った。そして。
「……怪我人の方が休まれている部屋へ連れて行って。早く!」
「礼!」
 実言は礼の言葉を聞いて喜色に満ちた声で礼の名を呼び、解いた腕を再び広げて抱こうとした。礼は実言の胸に両手を当ててそれを止めた。
「あなたは酷い人ね!……最後にはあなたの望むようにしてしまうだもの」
 礼は恨めしそうに実言を見上げた。下から大きな右目がくっと実言を睨むのも、実言には可愛らしく思えた。
「優しい礼。私の女神」
 実言は強引に礼を腕に抱いて、左右に揺り動かした。礼はされるがままに実言の胸の上で微笑した。
「さあ、哀羅様を診ておくれ」
 礼が傍に置いていた薬箱を持って、実言は礼の手を取って、簀子縁に出た。
 夜はすっかり明けて陽が登る手前の真っ白な光が庭を映し出していて、二人は眩しく感じた。

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