Infinity 第二部 wildflower31

階 小説 wildflower

 今朝、双子の男児が熱を出して周りの者は慌てた。そばで仕えていた侍女の一人も熱を出したため、流行病かと警戒して、双子の女児を母屋の部屋に連れて行き、渡り廊下では女たちの離れと母屋を行ったり来たりする姿が見えた。
 礼も行ったり来たりをしていて、母屋の女児の様子をみてから、離れにいる男児の元に戻る途中に、心もとない足つきで庭を歩いている見知らぬ男を見咎めた。簀子縁から「もし」と声をかけると、背中を見せていた男はびっくりして振り向いた。礼は側に来るように手招きした。
「見ない顔ですね。あなたはどこの方?」
 男は礼の立っている簀子縁の下に素直に来たが、自分のことをどう説明したらいいかわかず戸惑っていた。その時、倉に向かう老爺が礼と男の様子を見て走ってきて、耳丸を訪ねてきた者だと教えた。
「耳丸を?」
 礼は不思議に思った。都の岩城の家からの遣いであれば、自分が知らないはずはない。耳丸の個人的な客ということなのか。耳丸の家族といえば、すでに両親は他界しており、姉が一人いて役人の妻になっていたはずである。
「私は耳丸の主人です。どのようなことで訪ねてきたのですか。……もしかして、耳丸のお姉様に何か?」
 姉の病気を隠していて、急な病状の変化により危篤状態を知らせに来たのではと礼は先走った。
「はい。私は耳丸殿の姉の家に仕える者です。その、家が……家が大変なものですから。耳丸殿に助けてもらうために訪ねてきたのです」
「家が大変?」
 礼の想像とは違うことでこの者は訪ねてきたようだ。礼は、熱に苦しんでいる我が子も気になるが、この男のことも気になった。
「お姉様の嫁いだ先の家がどうしたというのです。事情を教えてください」
 礼は階を降りていき、男を階の下に寄せた。男の口は軽く、耳丸の姉の窮状を話した。既に家を追い出される期限が迫っており、それを過ぎれば夫は職を失い、家族は路頭に迷うことになる。借金を返さなければ皆が野垂れ死ぬしかないため、金の無心にきたのだと。
「そうなの。それで、耳丸はなんと言っているの?」
「まだ、なんとも。一晩時間が欲しいと。ご主人にどうか、助けて欲しいのです。どうかお願いします」
 男は耳丸の主人だと名乗った礼に訴えかけた。礼は、何度も頷いた。
「わかりました。耳丸と話し合ってみるわ」
 男は何度も頭を下げて、来た道を通って部屋に戻った。
 礼は驚いた。いつから耳丸の姉家族は困っていたのだろうか。実言は知っていたのだろうか。少なくとも礼には知らされていなかった。耳丸が自分に言ってこない以上、こちらから言うのは出すぎたことかもしれないが、窮状を聞いたからには救いたいと思った。しかし、それをただ切り出すことはたやすいことだが、今の礼はそんな優しい人ではなかった。
 礼は男を見送ると、すぐに離れの自分の部屋に戻って、熱を出した男児の寝顔を見る。
「先ほどまでむずがって泣いていたのですよ。今は眠ってしまいましたけど」
 付き添っている乳母に教えられて、礼は子供の側に座ると、体を前に乗り出して、頭の方に投げ出している右の手をそっと握った。前までは苦しそうな息をしていたが、今では落ち着いている。礼は安堵した。しばらくの間、側に座って様子を見ながら、先ほどの耳丸の姉家族の窮状についての話を思い返していた。
 すっと、礼は立ち上がると、「この子を見ていてちょうだい」と乳母に言い置いて部屋を出て行った。
 礼は、耳丸が普段いる場所を順に歩いて回った。薪割りの倉、穀物の倉、そして厩。
 厩で耳丸は馬に餌をやっているところだった。
「耳丸……」
 声をかけると、耳丸はひどく驚いて顔を上げた。
「なんだ?……子供が熱を出したと聞いたぞ。離れていても大丈夫なのか」
 耳丸の声音はひどく不自然に震えた。
「ええ、大丈夫よ。今は落ち着いているの」
「そうか。危ないから、後ろに下がっていろ」
 耳丸は馬に近づき、自分に近づいてくる礼を遠ざけようとした。礼は言われたことを守るように、一歩下がって耳丸の仕事を見ていた。
「なんだ?何が言いたい?」
「……耳丸、昨日の話だけど」
 耳丸は露骨に嫌そうな顔をした。しかし、礼はそんなことは構わない。
「私は、あきらめられない。どうか、お願いできないだろうか。もし、聞き入れてもらえるなら、私はなんでもするつもりだ」
「……なんでも」
 耳丸は呟くように言った。だけど、次には大きな声で礼の言葉を振り払うように言った。
「何度も同じことを言わせるな。昨日、はっきりと断ったはずだ」
「……耳丸の客人と会った」
 礼は囁くような小さな声で言った。しかし、耳丸には澄んだ空に響くようにしっかりと聞こえた。朝から、その男と顔を合わせるのが苦で、部屋に戻ることもできずに、ずっと倉や厩で仕事をしていたのだ。
「なに……」
「耳丸の客人と偶然会ったのよ。そして、話を聞いた。あなたのお姉様の苦しい状況を聞いたわ」
 耳丸は目をむいて礼を見た。
「お前……」
 一瞬にして怒りに満ちた声を発したが押し殺した。耳丸は、怒りや羞恥で礼に何かしてしまいそうで、そっぽを向いて馬の体を撫で続けた。
「差し出がましいことだけど、私は、あなたのお姉様を助けられるわ」
 礼は静かにしゃべる。耳丸は礼に斜に体を向けて睨むように見た。礼に正対したら、飛びかかりそうな気がした。
「……私もお姉様を助けたい」
 礼は苦しそうに息をついた。
「耳丸だって、お姉様をこのまま見捨てることはできないだろう。あなたは家族思いの人だから。だからこそ、私も助けたい」
 耳丸は握る拳に力を入った。
「礼。……姉たちの負債は易しいものじゃない」
「ええ、聞いたわ。軽々しい額ではないことは、わかっている。でも、私は父から既に譲り受けている財産があるから融通できる」
 礼は帯の間から書きつけたものを取り出した。
「ここに、私のその財産を譲ると書いてある。それを、岩城の家にいる忠道のところに持って行けば、忠道がきちんと対応するよう手配しよう」
 礼は、折りたたんだ薄い紙を耳丸の目の前に差し出した。耳丸は斜めにその紙をみとめた。
「……礼、……いいのか?」
 礼は何も言わずに、その書き付けを差し出したままである。耳丸は、握った拳を開いた。その手が書き付けに伸びるその時を見て取ったかのように、礼は言った。
「しかし、何の見返りもなく譲るなんてことはできない。耳丸、あなたが私の望みを叶えてくれるのが、条件だ」
 礼の言葉に、耳丸の上がった手は宙で止まった。
「……さあ、耳丸、受け取ってくれ」
 耳丸は礼の正面に立つと、一歩近づいた。礼は、その勢いに押されて退いた。しかし、背後には厩の板壁があり、それに背中を押し付けざるをえなかった。耳丸は書付に伸ばした手をそのまま上げて壁を叩いた。もう一方の手も同じように手のひらを叩きつけた。押した板壁を突き破りそうな勢いである。
「……お前!」
 耳丸は上からぐっと礼を睨み、恐怖させるような低い恐い声を出した。礼は、それに負けないように、下からその視線を右目に受けて、小さな声だが、はっきりと言った。
「時間がないのだ。毎夜、実言は頼りない影となって行く。私は、どうしても実言のところに行きたい。そのためなら、なんだってする」
 耳丸は板壁についた手をぎりぎりと押し付けて、礼に襲いかかろうとする自分を自制した。
「人の弱みに付け込むなんて、許せないことだろう。そう言いたいのはわかる。いくらでも憎んでおくれ。最初から私はあなたには好かれてはいなかった。これ以上はないほどに嫌われて、憎まれて、それでも私はあなたに頼るしかないのだ」
 耳丸は自分の猛る感情を抑えるために、突いた両手を再度二度ほど激しく打ちつけた。礼の顔のそばで板は激しくたわみ、礼はいつその怒りが自分の体に向けられるかと恐怖して、身を縮めた。
「ひとつだけ申し訳ないと思うのは、この旅であなたの命を危険に晒してしまうかもしれない。それだけは、すまないと思う。でも、お姉様の心配はなくなる。どうか、受けておくれ」
 礼は、左を向いて、右顔を見せた。耳丸の苦しそうな顔を見てはいられなかった。耳丸の礼の体を囲むようについた両手は、拳になり、拳の中で爪が手のひらに喰いこんで自らを傷つけていた。その間の耳丸の逡巡は、やがて礼がその勢いに気圧されて下におろしてしまった手に握られている書き付けの端を掴むことに決めた。
「耳丸……」
「俺はお前のやり方を憎む。だが、姉を見捨てられない。俺が死ぬか、姉が死ぬか選ばなければならないなら、俺が死ぬことを選ぶ」
 礼は、何度も頷いた。
「受けてくれて、ありがとう。すぐに忠道に遣いを出すわ。……それと、北方の道中であなたを死なせたりしない。それは誓うわ」
 礼の手が書き付けを放して、耳丸の手はだらりと下がった。力なく受け取った形になった。耳丸は礼から体を離し、気の抜けた体が厩から出て行った。

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