Infinity 第二部 wildflower43

夕日 小説 wildflower

 翌日、三人は夜明けとともに起きた。礼は必要なもの、薬草や布などを板に書き付けて、若見に渡した。若見は眉根を寄せて困った顔をしたが、昼には礼が必要としたものを全部持ってきた。耳丸は馬の世話をするために出て行った。ゆっくりと準備をして、日が暮れる前に、三人は若見の部屋で夕餉を取った。
 夕暮れ時に礼と耳丸は馬に乗って出発した。
 付き添いの若見だけで、見送りに来る者はいなかった。三人とも馬には慣れたもので、順調に進んだ。途中、話をつけておいた集落の部屋で夜を明かし、夜明けから再び馬で走る。途中、適当に休憩を入れたが、三人は無駄なことは言わなかった。とうとう、陽が暮れ始めると、若見が耳丸に馬を寄せて何か話している。礼は蚊帳の外である。
「瀬矢様。これからは徒歩で行きます」
 耳丸が振り向いてそう言った。礼は頷く。
 日が暮れる前にたどり着いた目の前にそびえる山の前までが馬で行けるところということらしい。
 若田城に馬と共に帰る若見は、馬を繋いで二人の前に立った。
「どうか、実言様をお助けください。そして、お二人もどうかご無事にお戻りください。若田城で、あの馬たちとお待ちしていますよ。さあ、お見送りさせてください。幸運をお祈りします」
 若見は神妙に言って、二人を送り出す。
「ありがとう」
 耳丸が言って、礼もこくりと頷いた。
 二人は意を決して、若見に背中を向けて山の中に入って行った。
 若見は、これまでの夷との戦や、物見たちが夷と鉢合わせして散々な目に遭っていることを聞き知っているから、今からの道中が危険であることを知っている。どうか無事に目的の集落にたどり着いて欲しいと願っているが、それとは別に今茂みの中に行ってしまったあの男二人は、この旅でどうなっていくのだろうと考えた。愛は深まるのかしら、と。
 耳丸は時折、後ろの礼を気にして振り向いた。そのたびに、礼は耳丸を見上げて頷いた。
 耳丸が教えられている、実言とその軍勢が落ちのびた集落の場所というのは次のようなものだった。
 その昔、大王の命により北方の未開の土地に入植した者たちは川を伝って、その入植地に入り、生活ができるまでに開墾し、若田城に税を納めに来るほどになった。しかし、夷たちが南下して、入植者たちは夷を恐れて若田城まで行くことはなくなった。秘かにその土地で暮らしている彼らは忘れられた集落の民になった。
 遠い記憶では、その集落は川の上流にあり、川に沿って上ると途中峻厳な切り立った場所があり、一旦川沿いを離れ、山の中に入らなければならない。山に入るその場所は、夷たちが待ち伏せしている可能性があった。気を付けるべき場所と注意を受けた。実言たちの隠れている場所を知らせるためにその集落から若田城にたどり着いた男も、夷が二、三人で見回っているのを何回か見たと言っている。脇道に逸れて、じっと時間が過ぎるのを待ったという話だった。山の中から再び川を探し、それに沿って遡る。そして、川を一度渡らなければならない。そうすれば、どこかに集落は存在するというのだ。最後はまったく頼りのない話で、耳丸は内心では頭を抱えたい気持ちだった。
 とはいえ、まずは山を越えて、川を探さなければ。
 山の中腹には少し平らになった開けた場所があり、そこに小さな祠があった。この山を無事に越えるために、作られたものなのだろう。
 祠の前で、礼は跪いて短く祈った。耳丸が水筒から喉を潤して、言った。
「もう少し先まで行こうか。今日は月が明るいから」
 礼は言葉の発しない役になりきっているのか、言葉はなく大きく頷くだけだ。
 礼は耳丸を勘のいい男だと思った。ここまで来るのに、寝る場所や食料を得る場所、ここに至る道に間違いがないからだ。今も、「少し待て」と言われて、脇の道のない林の中に入っていくと、しばらくして戻ってきて礼に手招きした。
「こっちだ」
 耳丸の言うまま林の中に入っていくと、足元に岩肌が見えて、その下に小さな洞穴があった。あたりを見回しながら、最近ここに人が立ち寄った気配がないかを丹念に見ている。
「ここは休むのにいいな。今日はここで休もう。明日も朝早くから出発する」
 洞穴の側面のあっちとこっちで岩肌に背中をもたせて、休んだ。すっとお互い眠りに入り、耳丸の身じろぎで礼は目を覚ました。あたりは白々と夜が明けている。若見が持たせてくれた握り飯を黙って食べた。
「明日には集落を見つけられたらいいな」
 耳丸はあくまでも希望を言った。どこに集落があるのかわからないのだから、耳丸がたやすく見つけられるはずもないのだ。
 礼は緊張や疲れからか、握り飯を食べる気がしないが、これからの行程を考えて無理してでも口の中に押し込んだ。
 準備が整ったら、礼と耳丸はまた山道を歩き始めた。往来の少ない山道だがかすかに人が歩いた痕跡を残している。それを慎重に辿って歩くのだった。
 右側に川を見つけた。
 それまで黙ったままの礼が声を出した。
「耳丸、川ね!」
 耳丸は後ろを向いて、頷いた。
 この川を遡っていけば、どこかにその幻のような集落があるのだと思うと、礼は心が逸った。
 陽が高くなったところで耳丸が振り向いて言った。
「礼、少し休もうか」
 耳丸の言葉で我に帰る。
 二人は山道から川辺に下りて、その清流に手を入れた。きれいな冷たい水で顔や手を洗い、持っていた水筒に水を入れて、上流から流れてきた大小の石の中から腰掛けやすい石に座ってしばし休憩した。川の上から風が通り、涼しかった
 耳丸はまた握り飯を出して食べている。塩の効いた飯を礼も少しばかりもらって口に入れた。
「これから、この川を外れていくのだろうな。もっと気をつけないと」
 耳丸は言った。
 それは、川上に目を向けると、遠くに蛇行した川の両側に切り立った岩肌を露わにした崖がそそり立っており、これから迂回していかないといけないことを見てとったからだった。
「行こうか」
 耳丸の掛け声に礼も石の上から腰を上げた。礼はもう一度川の中に手ぬぐいを浸して絞り、首筋をぬぐった。
 元の道に戻り歩き出したが、坂道の勾配はきつくなり、右に見えていた川からは離れて山の中へ中へと入っていく。山肌に尖った岩が突き出ており、まっすぐいけないため山の中へ進まざるを得ないことがわかった。
 この道をまともに行ったら、夷の見回りに出くわす可能性が高いのだ。耳丸は、いつこの道を外れて、道のない山肌を登って越えていくときを測りかねていた。自分はもちろん、礼も大変な体力を使うことになる苦しい道のりである。しかし、夷に出くわしてからでは遅いしと、ずっとそのことばかりを考えていた。
 すると、礼が耳丸の帯を捕まえて引っ張った。耳丸は急に体が前に行かなくなり、驚いた。そして、礼に振り向き。
「なっ」
 耳丸が怒りに声を上げようとしたところに、礼は唇の前で人差し指を立てた。黙れ、というのだ。そして、もう一方の手を耳に当てた、
 耳丸ははっとして耳を澄ました。
 遠くで、獣とは違う複数の声が聞こえた。人の声だ。
 そうとわかると耳丸は礼の手を引いて、道を外れて山の中に入った。やわらかな山肌の土が二人の足をとり、足元が崩れていく。声は急に近づいて来ているように思えて、耳丸は焦った。最後は礼を抱くようにして、シダやクマ笹の生い茂る勾配の中に入り、しゃがんだ。いつ鉢合わせになるか分からない相手を前に、動くのは得策ではないと判断したのだ。しゃがむと耳丸の体も隠してしまうほどの密集したクマ笹の中で二人は踏ん張ってじっとしている。
 だんだんと、声が大きくなってきた。しかし、まだ礼達がしゃがんでいる道の前までは来ない。じっと我慢だった。密集したクマ笹の下は蒸し暑く、二人は汗みずくだ。首や体を汗が流れ落ち、鼻先から汗の雫が落ちた。
 先ほどよりもより声が近くに聞こえてきた。
 耳丸は耳を澄ました。声音は三通りあるように思う。とすれば、人数は三人ということになる。こちらの人数よりも多い。
 そこで、耳丸はふっと笑いたくなった。礼は全く戦力にならないから、人数を比べること自体どうかしている。
 話している内容は分からない。時折、わかる単語も聞こえてくるが、ほとんどが知らない言葉で、相手が夷であることがわかる。
 耳丸は右側にいる礼の手を探して、触れ合った手を甲の上から握った。何かあれば、手で指示するためだった。すると、礼も痛いほどきつく耳丸の指先を握り返してきた。怖いのだと、わかった。
 礼は、夷達が通過していくだろう道のほうにじっと目を凝らした。しかし、薄暗く深く密集したクマ笹の中では夷たちの姿は見えなかった。声はよりはっきりと聞こえた。しゃがんだ右膝に置いた手の上を虫が這った。肩のあたりにもゾワゾワと這うものがいる。でも、礼は身動きせずに息も止める思いで、堪えた。
 ここで夷に捕まるわけにはいかない。
 夷達の声は、目の前の道からはっきりと聞こえた。時折、笑い声が混じる。夷の男達はなかなか先へと進まない。周りの草木を引っこ抜いたりして、遊び半分に、立ち止まって何か話している。声はずっと礼達が見据える道の途中に滞留している。
 その中で、若田城、和毛という言葉が聞こえる。和毛は夷が大王達の軍勢を蔑称して言っている言葉と礼は教えてもらっていた。
 なにがおかしいのか一人がおどけたような語調で話し、あとの二人がせせら笑った。
 クマ笹の下は蒸し暑さが増し、喉も渇いて、気が遠くなりそうだった。耳丸は自分も礼の手をきつく握り返していることに気づいた。この肉体的な辛さに堪えることを一人では乗り越えられない不安がそうさせているのだった。
 夷達の声は次第に礼達が歩いてきた道を下りていき、遠ざかった。しかし、その声は小さくなったがまだ聞こえる。やっと声が聞こえなくなって、耳丸は腰にぶら下げている水筒をとると、噛んで栓を引き抜きゆっくりと飲んだ。それを礼の前に差し出した。握りあっていた手を解いて礼は水筒を受け取り、少しずつ口に含んだ。声が聞こえなくなってからもしばらく、耳丸はしゃがみこんだままでいた。苦しい時間だった。そして。
「行こう」
 耳丸は囁いて、立ち上がると腰を折って身を低くして進んだ。礼もそれに習ってついていく。しかし、元の道に戻るのでなく、クマ笹の繁る中を上へ上へと進んだ。ここは夷達が警戒している場所なのだ。道に戻ってもまた夷に出くわす可能性が高い。この峠をうまくかわして進めば、より実言達が匿われている集落に近づくに違いない。遠回りには違いないが、夷との接近は避けなくてはいけない。
 この気温の高い中、山の中を彷徨い歩く二人は疲労困憊して無言で歩いた。
 夕暮れ。道は下降している。耳丸は一旦川岸から離れて越えなければならない場所は越えたはずだと思った。あとは、夷を避けながら、川沿いに戻って集落を探すだけだ。
 耳丸は、迷っていた。もっと先に向かってこのシダやクマ笹の繁る林を突き進むべきか、それとも人が通る道を探してその道を辿るべきかと。実言達はそうとう深く夷側の陣地へ切り込んだという話を聞いたから、もっと先に行った方がいいのかもしれない。しかし、もし通りすぎていた場合、この地に不案内な耳丸は立て直しもきかない。あてもなく彷徨い歩いて、消耗するだけだ。
 それに、礼は疲弊しきっている。だけど、実言にたどり着くために、気力で歩いているのだ。このまま倒れてもおかしくないほど、顔を真っ赤にして足元もあやふやな状態だった。
 シダやクマ笹の林を外れて、岩肌が露われている場所に着くと、耳丸は立ち止まった。
「礼。無理をさせたな。今日はここで休もう」
 礼は黙って、その場に膝をついて座り込んだ。腰に下げていた自分用の水筒から一口水を飲んで、手の甲で口を拭った。
 二人は若見から渡された塩漬けの青菜と硬い飯を一枚の葉で一緒に包んだものを広げて食べた。水は川のそばを離れる前に注いだ水筒の残りわずかの水しか残っていなかった。
「礼……この先をどうしたらいいか、迷っているんだ。実言のいる集落は、どこまで行けばあるのか。もっと先なのか、もう直ぐそばまできているのか、わからない。どうしたらいいだろうか、と」
 耳丸は素直に自分の迷いを言った。礼は話ができない役になりきっているのか、返事はなかった。
 食事を終えると、二人は岩肌の上に横になって目をつむった。
「耳丸」
 礼が不意に呼んだ。
「ここまで来られたのは、すべて耳丸のおかげだ。耳丸の判断がここまでたどり着かせてくれた。耳丸が選んだ道には間違いはない。明日も私は耳丸の選んだ道を行くだけだ」
 そういうとその後は一切なにも言わない。そして、しばらくして寝息が聞こえてきた。
 昨夜と同じで月の明るい夜ではあるが、陰になって礼の様子ははっきりとはわからなかった。耳丸は黙って、礼がどのような顔をして言ったのだろうかと、想像したが、疲れのせいか無意識のうちに眠ってしまった。

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