刻は未(午後二時)の頃。陽はどんどんと強くなり、あたりの木々に降り注いだ光が雨粒を照らして美しい。岩畳は陽に水分を吸い取られ、干上がっていく。そこへ、馬の嘶きが聞こえた。その後に、それを囃し立てる人の声が聞こえた。
……人の声が聞こえた!
礼は立ち上がり、入り口から出た。近くの木に繋いでおいた馬のまわりに三人の男が立っている。
「もし」
礼は恐る恐る声をかけた。か弱いその声に気づいた一人の男が礼を見咎めてぎょっとして二歩後ずさった。その様子に、他の二人の男も気づいて一斉に礼の方を見る。
男たちの方から見た光景は、岩穴の入り口に立つ一人の女の姿が見えたが、左目に布を巻いていて、顔の左半分は赤黒く膨れている酷い形相だ。髪は鳥が巣でも作っているのではないかと思うほどに逆立って絡み合っている。着ているものは汚れていてみすぼらしく、岩穴から這い出て来た鬼女のように見えたのだった。
男たちは逃げ出そうとする動きに、礼は声を張り上げた。
「待って!行かないで!お助けください」
行かないで、と礼はもう一度言って、岩穴から出て男たちの方へと走った。目の前の岩畳はだいぶ水がはけたが、礼は水たまりに足を入れて、岩肌に滑ってしまって尻餅をついた。それでも、この男たちを逃すと、耳丸を助けることはできないと思って膝立ちに起き上がり、男たちに手を伸ばした。
「助けてください」
恐ろしい形相の女の必死な声音に、男は立ち止まった。先に走った男も振り返り、様子を伺った。
「どうした?」
男たちは岩穴とは反対側の背後から掛かった声に一斉に振り返った。
後ろから現れたのも男で、岩穴の前に倒れても、こちらに必死に手を伸ばして訴えかける女の姿を見た。
「なんだ?……何者だ」
礼は問いかけて来た男に向かって、答えた。
「旅の者です。怪我人がいて、苦しんでいるのです。どうかお助けください」
男たちは顔を見合わせている。
「男が一人死んでいた。それか」
礼は頷いた。
「関を越える旅人を襲う野盗だ。屍に鳥が群がっていた」
後から現れた男は、一人ゆっくりと岩穴へと入ってきた。礼は自分の体を半身にして自分の後ろにいる耳丸の姿を見せた。男は耳丸を見下ろした。耳丸はうっすらと目を開けている。
「だいぶ酷いな」
「どうか、お助けください」
礼はその男に懇願した。
男は、岩穴の入り口に戻り、馬の周りで休んでいる仲間を見た。
「伊良鷲、まだ?」
仲間の一人が言った。
「馬はいいな」
幼さの残った顔の別の男が、馬を触りながら言う。
礼の側に立つ伊良鷲と呼ばれた男は、仲間たちへ一歩進みだしたのに、礼は畳みかけるように言った。
「あの馬を差し上げてもいい。どうか、ここから、あなたたちの村に連れ帰ってもらえないだろうか」
男は礼を振り返り視線を留め、馬の周りに留まる男たちに言った。
「六郎、その馬が欲しいか?」
馬の側にいる若い男は、大きく頷いた。
「ここにいる男を村に運ぶのを手伝うか?」
「何?」
男たちは、その場から岩穴に向かって集まってきた。
「どうしたの?次の場所に行こうよ」
若い男は不満を漏らしながら言った。
岩穴の前に男は集まり、後ろに寝ている男を見た。
「なんだ?」
「野盗と斬り合ったようだ。関を越える旅人を狙ってよく現れていただろう」
「あ〜」
「で、なんだというのだ」
「あの男を村まで連れて帰るか?そうすれば、馬をくれるそうだ」
「馬は欲しいぞ」
「どうする」
「別にいいよ。次に行こう」
男四人が口々に自分の意見を言い合っている。礼は、その会話から、このまま自分たちを置いて、男たちは次の目的地に行きたがっていることがわかった。
「待って、待って。どうか、お願いです。この通りです。私は医者なのです。この場ではどうしようもできないのだ。どうか、あなた方の村で治療させてもらえないだろうか。あなた方の村でもできる限りの事をするつもりだ」
「医者?」
男たちは怪しむ目で礼を見た。
「馬は欲しいけどな」
若い男は、馬を諦めきれないようだ。そこで、伊良鷲と呼ばれる男が言った。
「六郎。戸板を持ってこい」
「伊良鷲!」
「手伝ってやろう。野盗には、こっちも迷惑しているところだった。これからその憂いはなくなったんだ。人助けしたっていいだろう」
「面倒はいやだよ」
「六郎はいいだろう。馬を貰えるのだから」
「そうだな」
「お前たちも頼むよ。六郎、板を持ってこい」
「大きな男だ。丈夫なものにしろよ」
伊良鷲と呼ばれる、この集団のまとめ役の壮年の男は礼の願いを聞き入れてくれることを決めたようである。若い男、六郎は林に向かって走り出した。
「感謝します」
礼はまとめ役に向かって頭を下げると、耳丸の側に寄った。
「耳丸」
呼ぶと、耳丸は反射的に手を上げて礼を探した。怪我をしている側の左の手をあげようとしたため、礼はすぐに耳丸の手を取った。耳丸は、状況はわかっているというように小さく頷いた。礼は耳丸に水を飲ませて、体を固定するように傷口の上から布をきつく巻きなおした。身支度をしていると、六郎が仲間を連れて板を持って現れた。
男が五人でいっせいのせっで、耳丸を板に乗せると、男たちは文句を言いながらも自分たちの村に向かって出発した。
男たちは山の中にしかけた獣の罠を見回っている最中で、次の仕掛けに移動していた時に礼たちを見つけたのだ。
男たちは泡地関に向かう道に出て、しばらく行くと道を外れて林の中に入っていった。高い杉の木に囲まれた細い道の中を進むと、やがて村の端にある家が見えてきた。
「俺の家まで行ってくれ」
伊良鷲は言って、男たちは適当な返事をして村の奥へと向かった。
礼は、あたりを見回すと大小の家や小屋が立って、家の周りで作物を作っている。家の数は十ほどくらいだ。
伊良鷲の家は村の奥で、だいぶ歩いた。
「小屋の方に向かってくれ」
板で四方を囲んだ小屋の中は広かった。中には小屋の半分に藁や萱が積んである。
板に乗せたまま耳丸は残りの半分の空いた地面に置かれた。六郎は小屋の外に飛び出すと、伊良鷲から手綱を取った。
「約束通り、馬はもらうからな」
六郎は小躍りしながら馬をつれて自分の家に帰って行った。
礼は最後に小屋を出る伊良鷲に頭を下げると、耳丸のそばについた。男たちは揺れないように気を付けて運んで来てくれたために、耳丸の傷口が開くことはなかった。礼は耳丸に水を飲ませて、眠るように促した。
耳丸は礼を心配して、右手を上げて礼を探す。礼がその手を握ると、握り返した。男ばかりの中で、礼の身に危険が及ばないかと、そばを離れるなと途切れ途切れに言葉を繋いで言った。
「わかったわ。あなたの言う通りにするわ」
礼は想いを汲み取るように手を握って、耳丸が寝付くのを見守った。耳丸が寝たのを見計らったかのように小屋の入り口に影が差して、礼が視線を移すと伊良鷲が立っていた。
「こっちに来てくれないか。あんたが医者だというなら、診て欲しい人がいる」
礼は頷き、薬を入れた包みを持って立ち上がった。
伊良鷲について行くとすぐ隣に建つ大きな家に連れて行かれた。それでこの男はこの村をまとめる中心的な人物なのだと改めて思った。
中に入ると、すぐに台所があった。火を使う場所があって、山や畑から採ってきた食物が筵の上に並べられている。伊良鷲について、部屋の中を通り過ぎて奥へと向かう。その間、部屋の中には誰もいない。梁から垂らした竹を編んだものが部屋の仕切りと目隠しになっている。その垂れた竹を手で払って、もっと奥に行くと、そこには板をはめ込んで仕切った部屋があった。
「入れ」
男より先に通されて、狭い部屋の中に入ると、痩せた女性が寝ていた。
「妹だ」
伊良鷲は言った。女性の傍には、少女がついている。
「寝付いてしまって起き上がれないのだ」
礼は女に近づくと、少女は一歩横によって、礼に場所を譲った。女の傍に膝をつくと額に手をやり、顔を触って様子を見た。女性は熱があり、呼吸も苦しそうだ。体の内側に不調をきたしているのがわかった。
「いつからなの」
隣の少女に訊いた。
「……半月になります」
もっと前から兆しはあったのを女性は我慢していて、半月前に今の症状が吹き出してしまったのかもしれない。
礼は薬を入れた包みを広げて折った紙の包みを取り出した。束蕗原で村人が往診に来てくれと飛び込んできて去とともに訪ねた家で診た女性と同じ症状のように思えた。その時に去が与えて回復した薬草を煎じて飲ませることにする。
少女に薬を煎じたいと言うと、少女は入り口の台所に一緒に行って、火を起こしはじめた。
そうしていると、入り口に大小の人影が立った。老人や子供であった。この家の他の住人だろう。
礼は煎じた薬湯を飲ませて、女を横にする。手や足をさすっていると、女は眠りに落ちた。また明日様子を見に来ると言い置いて、礼は家を出て、耳丸の元に戻った。耳丸は小屋を出て行く時と同じ姿で眠っていた。
陽が暮れる前に少女が粥を持ってきてくれた。少しのおかずも添えてある。礼は少女から盥を借りると、水を汲んできて、耳丸の額に布を乗せた。他にも体の熱いところに冷水に浸した手ぬぐいを置いてやる。少女はその様子をじっと見つめていた。
陽が沈む前の仄暗い中で、耳丸は身じろぎした。ゆっくりと目を開ける様子を礼は見守った。
「……礼」
「ここにいるわ」
礼がそっと耳丸の右手を握ると、耳丸は安堵したように握り返した。水を飲ませるために、少し体を起こしてやろうと、耳丸の右肩から手を差し入れていると、斬られた左肩に力が加わって耳丸は低く唸った。
小屋の入り口で見ていた少女は近寄ってきて、耳丸の左側に座った。礼は少女に後ろの衣類の入った包みを取って耳丸の背中に置いてくれと頼み、礼は耳丸をその上に寝かせた。
「ありがとう。明日、また、あの方の様子を診に行くわ。家にお帰りなさい」
礼の言葉に少女は頷いて出て行った。寝付いてしまった女の娘であろう。歳は十二、三のころである。
耳丸が少し落ち着いたら、礼は粥をすくって食べさせた。すっかり陽は落ちてしまったが、礼は匙を外すことなく耳丸の口に入れて、食べさせる。
「礼……村の男たちには気をつけろ。ここから離れないで」
「ええ、わかっているわ。……でも、この小屋の持ち主の家には病人がいるの。私は医者だから、診てあげたいのよ。助けてくれたのだもの、できることはなんでもしたいわ」
耳丸は不服そうにため息をついた。自分への苛立ちだったかもしれないが、礼は気にせず藁の積まれた方へ行って、そこに横になった。二人とも無言でいたら、眠りに落ちてしまった。
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