Infinity 第二部 wildflower66

椿 小説 wildflower

 季節は梅から桜へと移る時であった。ぽっかりと北方の戦の功績を彩る花が空いてしまったと思ったが、その戦を戦った武将たちの帰還が、都の大路を華やかな出で立ちでの行進がその空白を埋めてしまった。
 北方の戦を戦った兵士たちは、皆、都に入る手前の宿営地で威武を放つ衣装に着替えて、都の大門を潜り、大路を行進して王宮へと入って行く。そろった足並みが足音を響かせる堂々としたものだ。大王への勝利の報告のために美々しく装って王宮へと向かう姿に大路には人垣ができて、その様子を見守った。
 馬に乗った大将とその部下たち。もちろん、副官である実言も列に連なって行進している。
 礼は見物に行った邸の者から、その実言の雄姿を伝え聞いた。
 死の淵にいた実言がどのような姿になり、都に帰ってきたのだろうか。礼は、この目で見て確認するまで、考えないようにした。
 王宮では大王への報告が済むと大王から労をねぎらわれて、祝宴が催されることになっている。実言がこの離れに帰ってくるのは午後も遅くになってからだ。
 朝から礼は何も手につかない。子供たちに食事を摂らせるのにも、箸を持つ手が震えてうまく口に入れてやれない。
「礼様。私がお手伝いしますわ」
 見かねた澪が近寄ってきて、代わってくれた。
「おかあさま」
「おかあさま」
 食事が終わった双子は、明らかに様子のおかしい母を心配して近寄ってくる。礼は胸がいっぱいで何も喉を通らない。正午を過ぎると、支度を始めた。この日のために新調した衣装をまずは子供たちに着付けた。男児に碧の上着に紺の帯を結び、女児に臙脂の袍に黄の背子、赤い裳を着せ始めると、下着姿でおどけて遊んでいた二人は静かになった。礼も手早く衣装を着付けた。青の袍の上に緋の背子を着て、裳と帯は紺にした。どの衣装の縁にも金糸で刺繍が入っている。そして、実言が婚約の証に首に掛けてくれた首飾りをつけて、時間をかけて化粧をした。
 対面の部屋には御簾を巡らせたが、几帳は立てなかった。部屋に入って来てすぐに自分たちを実言に見てもらいたいと思ったからだ。
 陽が西に沈み始めた頃、実言が正殿に入ったと連絡があった。礼は子供たちと部屋の真ん中で向かい合って一人ずつ手を握った。子供たちも空いた手を握りあって繋がった。
 澪から、今、実言が正殿からこちらに向かったと耳打ちされた。澪は静かに部屋を出て行った。
 対面は礼と子供たちだけでと、決めていた。
 実言と礼とが、守ろうとしたものを二人だけで確認したい。
 前ならそんな音は聞いてもいなかったはずだが、今は、正殿からこの離れに渡る廊下を越える足音に耳を凝らす。ゆっくりと確かな足取りを感じる。
 礼は、心の臓の高鳴りを抑えるのに胸に手を置いた。子供達はいつもと違う母の様子に慄いて、互いに身を寄せ合って母親の背に縋りついた。
 簀子縁を歩く一人の男の姿が御簾に影となって映った。部屋を巡る東の簀子縁から南へ回って来て、陽の傾きかけた中にくっきりと御簾に映る影が立ち止まった。礼は凝視できない。その姿は実言だとわかったから、俯いて待った。立ち止まった影がゆっくりと御簾を揺らして部屋の中へと入った。そうと分かっても、礼は顔を上げることができない。息も止まりそうだ。
 庇の間に入った影は、しばらくじっと立ち止まっている。礼はもう息もできなくて死んでしまうと思ったその時に、その声は優しく発せられた。
「礼」
 三年の月日が過ぎて聞く懐かしい自分の名を呼ぶ声だった。いつも心の中には響いていたが、やはりその人から発せられるものは格別に違っていた。
 礼は、やっと顔を上げる。夕暮れの陽が差し込んで、実言の姿は影でしか見えない。
「……実言」
 真っ黒な影が静かに礼に近づき、礼の前に片膝をついた。
「礼。待たせたね」
 礼が膝の上に置いていた手をとると、実言はそう言った。
「……よく無事におかえりくださいました。こんな嬉しいことはないわ」
 礼もその姿を離さないように実言の手を握り返す。
 そこで、実言の姿がはっきりと見えた。北方の戦場で見た姿を考えると想像を超える回復ぶりだった。
「もっとこっちへ来ておくれ」
 と、実言は自身も礼ににじり寄ったが、礼も引き寄せた。すると、実言には礼の後ろに隠れている艶やかな黒い頭が見えた。
「ああ。この子が」
 気づいた実言は我が子の姿を初めて見て、相好を崩した。礼も自分の背を振り向き、我が子を見た。
「こちらへおいで。よく顔を見せておくれ」
 実言は礼の手を離し、座り直して我が子をその手に迎え入れようとした。
 礼は少し我が身を引いて、子供を前と押しやった。
「さあ」
 実言は礼の背中を掴んで顔を隠す子供に腕を開いた。
「さあ、いらっしゃい」
 礼に促されても、子供は微動もせず実言を見上げている。
「おいで」
 実言はさらに声を掛けた。黒い頭は恥ずかしいのか、礼の体を立てにして隠れてしまう。
「ほら。捕まえた」
 実言は手を伸ばしてその子の礼の背中を掴む小さな手を握った。びっくりした子供が顔を上げると、その後ろからもう一人そっくりな子が顔をのぞかせた。
「……え。ふたり。……ふたりの子」
 それはそれは、後々にまでの語り草になるほどの実言の驚いた顔だった。いつも、全てを見通しているような落ち着き払った顔の実言が、この時ばかりは、目を見開いて、口を開けたまま、次の言葉も言うことができず、呆気にとられているのだ。
「礼。これは……」
 そういうのがやっとだった。
「私たちの子よ。私たちは双子を授かったの」
 礼は晴れやかな笑みをたたえて言った。やっとこの喜びを伝えることができたのだ。
「二人とも、こちらへ。おとうさまよ」
 知らない大人の男に戸惑う二人を実言の前に座らせて、言った。
「この子が実津瀬で、こっちは蓮よ」
 礼のすぐ隣に座る小さく美豆良に結った男児が実津瀬で、その隣の母親譲りの黒髪を垂らした女児が蓮である。
「あなたがくれたものは何も無駄にならないの。子供の名前さえも、無駄にはならなかった。二人ともを用意してくれたわ」
 礼は、そういうと涙がこぼれ落ちた。
「そうか。実津瀬、蓮。おいで」
 前に押しやられて、子供達は不安げに母を見返るが、おずおずと実言の膝へと乗った。
「礼。お前は人が悪いね。このことを今まで隠していたなんて。でも、こんな喜びはないよ。こんな喜びが待っていたなんて思ってもみなかった。一人でも嬉しいのに。そうか、二人だったのか」
 実言は不安そうな二人を膝に乗せて、小さな顔をかわるがわる見ている。
 礼は、三人の姿を見ていると、我慢できなかった。こんな日を夢見てきた。これが現実のものとなるのはいつかと、あてもなく過ぎて行く日々に、絶望しそうになることもあった。しかし、やっと今、この手に収めたのだ。
「礼」
 実言の優しい声が合図のように、礼は実言に抱きついた。実言の腕の中にいる二人の子もろとも抱きしめた。
「礼」
 落ち着いた、優しい声がもう一度礼の名を呼んだ。実言も礼を抱き返し、頬を合わせて、耳朶に囁いた。
「ありがとう」

 母がとても親しげに接している男に、実津瀬と蓮も初めは半分ベソをかいていたが、次第に警戒心が解けて、笑みを浮かべて、実言の膝の上で遊んだ。
 しばらくして澪が部屋の中の様子を伺いながら、声をかけてきた。
「実言様、礼様。皆が待っております」
 この離れの使用人たち、皆が実言を待っていたのだった。
 まずは礼と子供達との対面を優先させたが、皆も早く実言と対面したがっていて、待ちきれず、澪が遣わされた。
「この子達とは、明日も明後日もありますからずっと相手をしてやってくださいな。あなたが戦に行っている間、家の者達は本当によく尽くしてくれました。どうか、労ってやってください」
 礼はすぐに雅之たちを部屋の中に呼び込んだ。雪崩のように老若男女が部屋の中に入ってきて、実言を取り囲んだ。それから、戦に行く前と同じように、饗応の宴を開いた。豪勢な食事に皆目を見張って、大いに飲んだり食べたりした。皆が順に実言の前に進み出て、無事の帰還を喜ぶ言葉を言った。
 しかし。
「実言様。北方の戦では、どのようなご苦労をなされたのですか」
「あなたのような方が、このようなお姿になるとは」
 と、宴の最後に随分と酒が回ってしまった家人が口走っている。
 痩せてしまった実言はそれまでの端正な顔に少し影を落としたように見える。その面差しは、北方の戦の苦労が滲み出てくるようで、皆がその苦しみを思い、袖で涙を隠すのだった。
「そうかい?私は少し軽い男に見られていたから、この戦で少しは見所のある者として扱われるようになるだろう。そう悲しまないでくれ。こうして都に帰ってきて、元の私に戻るのがためらわれるじゃないか」
 と冗談を言う。
 礼は、実言が死の淵を越えてその中に転がり落ちる寸前の姿を見ているから、今の姿を思うとよくもここまで回復してくれたと思うのだった。そして、もとの実言に戻してやろうと心に誓うのである。
 部屋を明け渡す時間になり、侍女たちが部屋に入ってきて、膳や皿、銚子を回収し始めた。飲み足りない者は好きなだけ飲んでも良いとお達しがでて銚子を握って立ち上がる者、すでに出来上がって支えてもらわないと立てない者いろいろである。その姿が愉快で、皆声をあげて笑っている。
 更けた夜に離れの庭からその明るい声は遠く外に放たれた。

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