翌日、蓮はちょうど典薬寮に出仕する日だった。
二日前に開催された月の宴には典薬寮の頭の位にいる三須磨と大王付きの医師一人が出席した。大王付きの医師は部屋の奥に控えていたので、宴での舞を見たのは三須磨だけだった。それでも昨日の間に典薬寮でも宴の舞の勝敗のこと、蓮の兄のことは知れ渡っていて、蓮が曜を連れて典薬寮の玄関に着いた時、いつものように賀田彦が迎えに出てくれて。
「月の宴は残念な結果でしたね」
とすぐに言われた。
「あら、兄のことご存知なのね」
「ええ、昨日のうちに我々にも話が聞こえてきました。あなた様の筆、お兄様の舞、岩城家の方は大変な才能をお持ちだ」
「それは褒めすぎよ。私も兄も好きなだけなの。あ、でも兄は舞を披露するためにたくさんの努力をしたから、兄は才能があると言えるわね」
賀田彦と会話をしながら蓮はいつものように自分が与えられている部屋に入った。
いたらいいな、と思っていた伊緒理はいなかった。この建物の中か、宮廷の中か、いずれにせよどこかで仕事をしているのだろう。
蓮は気を取り直して、写本をし、差し入れられる札に書かれた症状に合わせて薬草の処方をした。その間に、一人女官が体が熱いと言って苦しんでいるとの連絡があったので寝ている宿舎まで行って、薬湯を飲ませた。仲間の女官が後は自分たちで看るというから、蓮は後ろ髪を引かれる思いだが、典薬寮まで戻ってきた。戻ってきた時には作業の途中だった札の処方は既に終わっていた。蓮を迎えた賀田彦が言った。
「そろそろお帰りのお時間ですが、伊緒理様がお話があるそうです」
「では、待っています」
蓮は伊緒理が現れるまで写本をして過ごした。
陶国の医薬書を去は集めていた。それに倣って母の礼も父に頼んで陶国からの医薬書を集めているが、やはり典薬寮の持っている書物は岩城家とは比べ物にならないくらい大量だ。
この本は初めて見る……
蓮は、さすが典薬寮だと思って、この本を去や母のために写したいと思った。
「……蓮……」
呼ばれて、声の方に顔を向けると伊緒理が立っていた。
「伊緒理……殿」
伊緒理はすぐに蓮の傍まできて座った。
「待たせたね。今日は、これから江盧館に行けるかい」
「はい」
「では……待っていてほしい。仕事を片付けて私もすぐに行く」
「はい」
蓮は先ほどまでこの本を早く写したい、と思っていたがすぐに筆や硯を片付けて、見送ってくれる賀田彦にいつもと変わらない挨拶をして、曜を連れて江盧館に向かった。
伊緒理はすぐに行くと言ったが、仕事があるのか、なかなか来る気配がない。
蓮は上げられた上の蔀戸から見える青い空を眺めた。
一人で待っているとふっと寂しさに襲われた。
どうして?愛する人を待っているというのに、寂しいなんて思うのかしら。
夏の部屋の中は暑く、蓮は額に汗が浮き出てきた。
夏用の薄い背子の胸の中から白布を出して、汗を拭っていると、妻戸が小さな音を立て開き、伊緒理が入ってきた。
「蓮、すまない。遅くなってしまった」
蓮は首を横に振った。
「実津瀬のことを聞いたよ。残念だったね」
蓮の前に座ると伊緒理は言った。
「ええ。伊緒理は宴には……」
「私は行っていない。父や弟は出席したと思うけど」
「そう……実津瀬の舞はとてもよかったわ。結果はあなたが言ったように残念だったけど、素晴らしい舞だった」
「そうか、いつか実津瀬の舞を見てみたいものだ」
「来年も同じような対決をすると、女王が言っていたわ。実津瀬は来年のことなど今は考えられないと言っていたけど」
「そうか、それは大変だな」
そこで、伊緒理が蓮の膝の上の左手に手を置いて握った。
「最近はこうしてここで会うことも、七条に来てもらうこともできなかったね」
「ええ」
伊緒理が言うようにここのところ、曜が付き添いでも伊緒理が忙しくここで会うことも、伊緒理の邸に行くこともできなくて寂しかった。
「……伊緒理のお仕事が忙しいのは仕方ないわ」
「今日もここに来るのが遅くなってしまった。あなたを遅くまでここに引き留めておけない」
そう言って握った手を引き寄せて蓮を抱きしめた。
「ええ、お仕事が落ち着けばまた、会える時間が増えるでしょう。七条のお邸にも行けるわ」
蓮も伊緒理を抱き返した。
忙しい身なのに、時間を惜しんでこうして会おうとしてくれる人がいるのに、なぜ寂しいと思ったのかしら。
ここ最近はゆっくり会うことができなかったから……?
それとも……景之亮様のことを聞いたからかしら……。
あの方にはあの方を支える人がいる。そして、私にも。
蓮は改めてその体を捉えている男と再会できたことを嬉しく思うのだった。
すぐに会いに来て、と言った。待っているから、と。
だけど、宴の翌日には行けなかった。
朱鷺世の宴の翌日は、翔丘殿から戻ってきてからの道具の片付けがあり、驚いたが王宮からの呼び出しがあって、気がつけば夜だった。一日遅れてしまったことで、露は怒っているだろうか。
いつもなら露の感情など気にしない朱鷺世だが、この時は気にした。
夕暮れ時にいつものように露の宿舎前で指笛を吹いた。すぐに妻戸が開き、露が飛び出してきた。目の前で止まるものと思っていたが、そのまま朱鷺世の胸に飛び込んできたので、朱鷺世は慌てて手を広げてその体を受け止めた。
「よかった!よかったわね!朱鷺世!」
露は朱鷺世の首に齧りつくように腕を回して、言った。声は抑えていたが、心からの声に感じた。
「……ん」
朱鷺世は鼻息なのかため息なのかわからない返事を返した。
「……行こう」
朱鷺世は露を抱いたまま歩き出した。
「うん」
露は頷いた時、朱鷺世の肩に額をぶつけた。
いつものように宮廷の森の中に入って行き、定位置に腰を下ろした。
「朱鷺世!やったわね!」
朱鷺世の肩から顔を上げて満面の笑みを浮かべている露は再び言って、迷わず朱鷺世の唇に自分の唇を重ねて吸った。
「んん」
その勢いに朱鷺世の方が面食らった。いつもなら、朱鷺世が露の唇を強く吸って露が呻き声を上げるのだが。
「宴の翌日、起きてすぐ翔丘殿に手伝いに行った人にすぐに聞いたのよ。雅楽寮の舞人が勝ったと聞いて嬉しかった」
露の言葉に朱鷺世も口元を綻ばせた。
「手伝いに行った人は見ることはできなかったけど、音楽や歓声や拍手は聞こえたと言っていたわ。見られなくても、私も翔丘殿に行きたかった。朱鷺世が大王や位の高い人たちから褒められている場を感じたかったわ」
露は目を輝かせて言う。
「ん………昨日、来られなかった」
「ううん。いいのよ、勝ったから忙しかったのではないの?」
「ん」
そう言って、朱鷺世は腰に下げた袋の中に手を入れた。朱鷺世の体に抱きついていた露は体を離して、朱鷺世の手を見守った。
「……これを」
袋から出した朱鷺世の手には美しい螺鈿細工の施された櫛が握られていた。
「まぁ、美しい模様」
「ん」
朱鷺世は手を露に突きつけた。
「何?……私に」
「ん」
「くれるの」
朱鷺世は頷いた。
「どうしたの?こんな美しいもの」
「もらった。……大王からの褒美だ」
宮廷からの呼び出しは、大王が言った褒美を受け取るためだった。
「勝ったご褒美?大王から」
「そうだ」
「朱鷺世がもらったものよ」
露は手を前に押し出して朱鷺世の手を押し返した。
「他にももらった。そのうちの一つだ。露にいいと思って選んだ」
「私に?」
「ん」
露は水をすくうような形を作って両手を差し出し、その上に朱鷺世は櫛を置いた。露は顔を近づけて櫛を眺めた。
「こんな美しいものを私が持っていていいのかしら?」
「悪いことないさ。俺が持っていても仕方ない」
「そんなことないわ。朱鷺世も髪を梳かせばいいのよ」
露は手の平の櫛を持って朱鷺世の一つに結んで胸の前に垂らしている髪の中程から毛先にかけて櫛を通した。
「よく通る。髪も艶が出た気がするわ」
露はそう言って笑った。
「俺が梳いてやる」
朱鷺世は露の手から櫛を奪って、背中に垂らしている髪を梳かした。
「……大王からのご褒美は櫛以外にはどんなものがあったの?」
朱鷺世の胸に頬を埋めて露は訊ねた。
「上着や袴、帯だ。上等な物をもらった」
「今度その上等な上着をきた姿を見せてよ、ね」
「ん」
露は大王の前で朱鷺世が勝ちだと聞いた時の気持ちはどうだったかと尋ねた。朱鷺世はすっきりとは答えない。どちらが勝つかわからないものだった、などと言っている。本当は嬉しかっただろうに、言葉を濁している。それでも、朱鷺世の声は弾んでいるように聞こえた。
「昨年と今年とそれぞれが勝ったから、来年も同じように対決をやって、どちらが舞がうまいか決めるのでしょう?」
「ん」
「来年も朱鷺世が勝つわよ、絶対!」
露は言い放って、朱鷺世の背中に腕を回した。朱鷺世も露の背中に手を回して、背中に垂らした髪を梳かし続けた。露は朱鷺世が自分の髪を丁寧に梳かしてくれるのが嬉しくて、密かに涙ぐんだ。
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