New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章2

小説 STAY(STAY DOLD)

 そこには大きな影が手招きしている姿があった。
 その影の元まで行くには天井から吹き出している炎の下を通り抜けなければならなかった。蓮の隣に立つ二人は抱き合って、顔を引きつらせている。その顔を見ている蓮も内心は恐怖を感じている。
 その躊躇の心が、事態を悪くさせる。
「きゃぁぁ」
 女児が悲鳴を上げた。
 天井が抜け落ちて三人の近くに木片が落ちて、さらに恐怖で身動きできなくなった。その中で息をすると熱い空気が体の中に入って苦しい。
 蓮は女児の肩を抱いて、心を決めた。足のすくむ二人を引きずってでもここから出なくてはいけない。そうしなければ炎に囲まれて焼け死んでしまう。
 女児の袖を掴んだ時、突然声が頭の上から聞こえた。
「こっちへ行こう」
 三人に覆い被さるように手を広げて、進むべき方向に押し出された。
 こっちだと呼んでいた影の方が三人の元に来たのだ。
「帷子を被って!火の粉を被らないように!進んで!大丈夫だ!ここから逃げられるから、進むんだ!」
 その声に励まされながら、蓮は自分よりも少し若い女人と女児を間に挟んで守りながら火の中を走った。
 蓮は自分の浅はかさに恥じ入った。
 まだ火が回っていないからと、人を助けようと思って安易に屋敷の中に入ったが、すぐに来た方にも火が回ってしまって、引き返すことができなくなってしまった。運よくこうして助けに来てくれた人がいたからよかったものの、そうでなかったら今頃どうなっていたか。
 蓮は頭から被っている領布と熱風で下を向いているため助けに来てくれた男の顔を見ることができていないが、確信していた。
 この人は……
「よし、ここを抜けよう」
 穴が空いたようにぽっかりと炎の勢いが弱まっているところがあった。そこを見つけて、男が言った直後、大きな音と共に上から木片が落ちてきて天井が抜けた。
「きゃあ」
 女人が驚いて声を上げた。
 落ちた木片が真っ赤に燃えている。その木片が横たわる床からも煙が出ており、火は上にも下にも回っていることがわかった。
 足の裏も熱くて、蓮は靴のまま上がってきたが部屋の中にいた二人は足袋のままで、足に痛みを感じているだろう。
「おいで!一緒に行こう!」
 後ろに立つ男はそう言って、蓮と女人の間にいる女児を抱き抱えた。
 蓮は女人と抱き合うようにお互いが体に手を回して、女児を抱えた男の背中にぴったりとついて行った。
 長い廊下の先に外が見えた。建物の内部に入り込んでしまったが、ようやく外が見えた。
 との時、ドンっという音と共にまたもや天井から焼けた木片が落ちて来た、それもの蓮と女人の上に。
「きゃぁ!」
 蓮と女人はそれぞれ領布と帷子を頭から被っていたが、木片は二人の肩に載った。前を行く男は振り返って、木片を手で払いのけた。
「怪我は?」
 短い言葉で問いかけ、蓮と女人は首を横に振った。
「前へ進んで!急ごう」
 男は蓮と女人の後ろにまわって二人に促した。
 立ち止まっていたらいつまた上から木片が落ちてくるかわからない。絶えず火の粉が舞う中では体は熱く、息は煙で苦しい。
 男に追いかけられる形になって、蓮たちはそれまでよりも早く走れた。炎が噴き出てきても構わず突き進み、廊下を突き抜けた先の、屋敷の周りをめぐる簀子縁に出た。
 冬の夜気の冷たさに息苦しさが消えたと同時に背中は炎の熱気で体が前屈みになった。この状況で、近くの階を探してそこから降りるなんて余裕はない。
 男は高欄から身を乗り出して、下が安全であることを確かめると、すぐそばに立つ蓮の腕を掴んだ。
「いいえ、二人から降ろしてください」
 蓮が言うと男はすぐに女人の腕を掴んだ。
「この子を先に」
「いいや、下でこの子を受けてくれ」
 そう言うと、女人の腕を持って高欄をまたがせた。向こう側に両足で立つと、男は女人の腕を掴み徐々に身を乗り出し、持つ手を手首に持ち替えて下におろした。
「足がつきました」
「よし!この子を下ろす。受け止めてくれ」
 十を超えたかどうかの小さな子は、恐怖でうずくまり小刻みに震えている。
「もう大丈夫だ。降りたら助かる」
 男はそう言って女児を抱き上げて、高欄の向こうへと下ろし、下にいる女人にしっかりと受け止めさせた。蓮も高欄から身を乗り出して、その様子を見守った。
 女児が下におり、女人と抱き合うのを見届けると、男はすぐに蓮を振り返った。
「次はあなただ」
 蓮はその時、顔を上げて男の顔をはっきりと見た。
「か……」
「早く、ここから逃げなくては」
 男に制されて、蓮は差し出された男の手に自分の手を置いた。高欄をまたぐと、蓮の両手を持ってもらって、下へと足を下ろした。男の手の力に支えられて、無事に地に足が着くと叫んだ。
「足が着きました」
「よし」
 男は蓮の手を離して、高欄をまたごうと足をかけた時に後ろで炎が吹き出し、男の背中を襲った。
 蓮は思わず叫んだ。
「景之亮様、早く!」
 炎の勢いが一段と強くなり、屋根から燃えた木片が落ちて来た。
 男は一瞬、背後に目をやったが、すぐに高欄をまたいで大きな体は難なく下に降りた。そこで、四人は寄り添い、燃える建物から離れて行った。
「水を」
 男が言うと、女人が言った。
「こちらに井戸があります」
 内膳司に勤める女人はどこになるがあるかわかっており、案内されてある建物裏にある井戸へ来た。火事の現場から離れた建物の裏にあるため、ここにはまだ消火隊が来ておらずしんとしていた。
 男はすぐにつるべを落として水を汲み上げ、桶に注ぐと女人はその間に手を入れて水を受けて、女児に飲ませた。体の中まで焼かれるような熱風を吸っていたので、喉はからからである。
 男の汲み上げる水を三人は無言で飲み、桶の水を手ですくいまたは袖を水に浸して体にかけて、炙られた体を冷やした。遅れて男も柄杓でつるべから水をすくって喉を鳴らして飲んだ。
「皆、大丈夫かい?」
 男の言葉に皆頷いた。
「助けていただき、ありがとうございます」
 女人は女児と共に頭を下げて礼を言った。
「あなたたちは逃げ遅れたの?」
 蓮が尋ねた。
「はい。私たちは夕餉の食器が返って来たので部屋の中で食器の片付けをしていたのです。片付けが終わって、部屋を出たら火に囲まれていて」
 女人はその時の驚きと恐怖を思い出したようで、言葉を詰まらせ目頭から涙を落とした。女人の手を握っている女児はその前から静かに涙を落としていた。
「この子は?」
「私達は姉妹です」
 女人は姉を頼って宮廷で下働きを始めたばかりの妹の肩を抱いて言った。
 蓮はたまらず嗚咽を漏らしはじめた女児の頬を撫でて涙を拭ってやった。
「もう大丈夫だ。君たちはどこに帰るかわかるか?付き添おうか?」
 男が言った。
「いいえ、私たちで宿舎に帰れます」
「そうか、わかった」
 男は井戸からもう一度水を汲み上げて女人と女児が差し出した手に水を落とした。二人はもう一度水を飲み、首筋に水を当てて体を冷やした。
「本当に自分たちで帰れるか?」
 男の問いかけに女人は頷いて、妹の肩を抱いて歩き出した。
 蓮は男と並んで二人の背中を見送ったが、内心はそれどころではなかった。この後、隣に立つ男とどう話すべきかを悩む。できることなら、このまま二人の背中を見つめていたいと思ったが、そうはいかないと、隣の男を振り向いた。男も同時に蓮を見て言った。
「あなたは大丈夫かい?」
 蓮は一瞬息が止まってから返事をした。
「はい。大丈夫です。それより景之亮様の方が……」
「私は大丈夫だ」
「いいえ、お髪が火に炙られて」
 男の髪は火の粉を被り、炎に炙られて焼けて縮んでいた。
「ははは!私は毛深いから少々火に炙られたくらいがちょうど良い」 
 そう言って男は大きな口を開けて笑った。
「……景之亮様がどうしてここに……」
 蓮は下を向いて小さな声で言った。
蓮たちを助けに現れたのは元夫の景之亮だった。
「火が出たと聞いて仲間たちとは少々遅れて駆けつけたら建物に近づく人影が見えたので逃げ遅れた人かと思って後を追った。建物の中を見ている横顔が見えて、それがあなただった。迷わず火の中へと入っていったので、驚いて思わず後を追ったのだ」
 蓮は景之亮の言葉に返事ができず、黙って下を向いた。
「皆助けられてよかった」
 蓮の頭の上に景之亮の言葉が降ってきた。
「建物の中から人の声が聞こえて、助けを呼ぼうかとも思ったのですが……火がまだ回っていないと思って飛び込んでしまいました。助けに行ったものの火の回りが早くて逃げられずにいました。景之亮様が来てくださらなかったら私達は火にのまれていました」
「あなたを助けられてよかった」
 蓮は顔を上げて景之亮を見た。
「あなたは昔と変わらないな。助けのいる人の元に走っていくのは」
 そう言って景之亮は微笑んだ。
「か、景之亮様!腕が真っ赤!冷やさなくては!」
 蓮が急に声を上げた。焼けた袖の下に見える景之亮の腕を見て叫び、その手を掴むと、桶の前に座らせて腕を水の中に浸けた。
「痛みはないですか?」
 蓮はまくった袖が落ちないように景之亮の腕を持って尋ねた。
「大丈夫だ」
 景之亮はそう答えたが、腕は赤くなっている。すぐに皮が膨れ上がるだろうと蓮は思った。
 蓮たちの上に木片が落ちた時、それを払いのけて腕に火傷を負ったのだ。袖がこれほど焼けてしまうとは、景之亮がすぐ払ってくれなければ、蓮たちが火傷を負っていたことになる。景之亮が身代わりになってくれたかと思うと、蓮は涙がこぼれた。
「……怖かっただろう。こんなことになってしまって」
 蓮が声なくぽろぽろと頬に涙を伝わせている姿を見て、景之亮が言った。
 火事の恐怖で泣いていると思ったのだろうが、それは違う。自分を助けるために後を追って、その結果火傷を負わせたことが申し訳なくて泣いているのだ。
「……違います。怖くて泣いているのではありません……景之亮様に申し訳ないと思って」
 蓮の言葉に景之亮が蓮の方に体の向きを変えて言った。
「そんなふうに思うことはない。あの二人を助けたのはあなただ。私も助けられてよかったと思っている」
「こんな火傷をさせてしまいました」
「たいしたことはない。あなたがこうして手当てしてくれるから、大事にはならないはずだ」
 蓮は景之亮を見上げた。
 炎に囲まれてどうすればよいかわからない状況の中、景之亮が現れたことは驚いたが、助けに来てくれた人が景之亮であったことは、やはり浅からぬ縁のある人だと思うのだった。
 景之亮は反対の手で自分の腕の上にある蓮の手を握った。
「蓮……」
 それまでの声音とは違い、低く小さい声だった。
「私は……」
 そう続けた景之亮の言葉を遮るように、蓮は自分の手を覆う景之亮の手から自分の手を引き抜いて、体を後ろに引いて言った。
「わ、私は戻らなくてはいけません。典薬寮で付き添いの者を待たせているので」
 蓮は言うと立ち上がった。
「できるだけ冷やしてください。そして、明日、典薬寮で薬をもらってください。絶対に薬を持ってくださいね。では」
 蓮はそう言うと、翻って走ってその場から離れた。

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