New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第八章18

小説 STAY(STAY DOLD)

 花の宴が終わって数日経った時、蓮は七条の伊緒理の邸に行った。伊緒理の部屋に入るとすぐに伊緒理が花の宴の対決について話を向けた。
「実津瀬は残念だったね。どうだろう、気を落としているのかな」
「それは勝てれば良かったでしょうけれど、それは仕方ないこと。宴の翌日までは皆、悔しい気持ちだったけど、思いの外、当の実津瀬が晴れ晴れとしていて、その姿を見ると皆、勝負のことはこれで終わりと思ったの」
 机の前に用意された円座の上に座ると、蓮は答えた。
「そうか……実津瀬は晴れ晴れと」
「ええ。もう、やり切ったと言ってね。大勢の前で舞うことはなって、それは少し残念。自慢の兄よ」
 実津瀬はもう中務省での仕事に邁進し、今まで舞の練習に使っていた時間を仕事、一族との会合、そして家族に使おうとしている。
 五条岩城家は平穏な日々が続いており、そんな日々の中、妹の榧の結婚の話が進められていた。
 蓮は妹の喜ばしい節目を滞りなく進めるために両親と一緒に準備にあたり、これまで通り母の手伝いをし、五日ごとに典薬寮に出仕し、その合間に伊緒理とこうして会っている。
 蓮にとってはこの上ない穏やかな日々である。
 しばらく伊緒理と話をしていたが、伊緒理は急に押し黙り蓮の手を取って奥の部屋へと連れていった。
 殊更に言葉を発しなくてもいい二人の時間が始まる。
 整えられた伊緒理の寝室でお互いの吐息の声を聞いて、睦み合った。
 愛の行為が終わると背後から腕を回して蓮を抱いている伊緒理は、芹の首筋に唇を寄せて吸った。
「……蓮」
 伊緒理が唇を離すと呼んだ。
 蓮は返事の代わりに、裸の自分の左乳房を包む伊緒理の手の上に自分の手を置いて握った。
「あなたが束蕗原から都に帰ってきて、典薬寮に出仕してくれた。それをいいことに私の求めに応じてこうして会ってくれて、一年が経とうとしている」
「……伊緒理だけの思いではないわ。私も伊緒理に会いたいのよ」
「うん、そうだね。私たちはお互いに会いたいと思っている。今よりもっと。……それで、私はこんなふうにこそこそと隠れるように会うのではなく、人の目を憚ることなく蓮と会えるようになりたいと思っている」
「……」
 蓮は伊緒理が何を言いたいのだろうかと考えた。
「だから、実言様や礼様に私たちの仲をお許しいただけるようお話ししたいと思っている」
 伊緒理の言葉に驚き、蓮は一旦体を起こして伊緒理を振り返った。
「伊緒理」
 驚いた顔の蓮の瞳を捉えて見返す伊緒理は言った。
「それはまだ早いかな?嫌かい?」
 蓮は首を横に振って言った。
「嫌だなんて!伊緒理がそんなことを考えてくれていたなんて、思いもしなかったわ。嬉しい!」
「あなたに寂しい思いをさせたくないんだ」
「今も伊緒理は私の気持ちを十分にわかってくれているわ。でも、あなたともっと会えるのならこんな嬉しいことはない」
「……もし、あなたがいいと言うなら……この邸に入ってもらいたいと思っている。二人で薬草のことを語り、この邸にある薬草園を育てて……病気の人を助けて」
「ええ、とてもいい考えね。私が夢見ていたことよ。それを伊緒理も思っていてくれていたなんて」
 蓮は涙が湧き上がってくるのを必死に抑えた。
「近いうちに実言様礼様にお会いできればと思う」
「ええ、お父様は今は忙しそうだから、落ち着けば伊緒理に知らせるわ」
「うん。良かった。あなたも同じ気持ちで。私一人の勝手な思いだったらどうしようかと思っていたんだ」
「何を言うの?そんなことないわ」
 蓮は体を横にして伊緒理の胸に顔を伏せた。
「そうだね。あなたはいつもこんな遠くまで来てくれているのに。私は間違ったことを言った」
「まぁ、伊緒理を責めるつもりはないわ」
「ふふふ。私たちがこれからもこうしてそばにいられるように私は努力するよ」
 そう言って、伊緒理は蓮の額にくちづけた。
 蓮も自然と裸の伊緒理の体に手を回した。
 嬉しい!嬉しい!伊緒理と一緒にいられるなんて。
 蓮は笑みが溢れたが、それも長くは続かず目を瞑った。
 目の前の幸せにつながるものを一旦見るのはやめようと思ったのだ。
 伊緒理との夫婦のような生活は夢のような出来事だ。しかし、それも長くは続かないのではないかと思う。
 最初の結婚と同じように。
 子供……はできるだろうか……。最初の結婚が終わった理由を伊緒理は知っているかしら。もし知っているなら、それを受け入れてくれるかしら。最初はそれでいいと思っても、ある時、やはり我が子が欲しいという境地に辿り着くかもしれない。
 その時、伊緒理はどう判断するのだろうか。
 蓮は伊緒理の心の変化があることをわかっていても、今のこの信頼と快楽に身を任せたいと思った。
 いつか終わりが来ることを心しておかないといけない。その上でこの初恋の人との、大人になってからの恋を楽しむのだ。

 伊緒理と蓮はすぐに自分たちの仲を進めることはできなかった。
 それは伊緒理の仕事が忙しくなったからだ。蓮が典薬寮に出仕しても、伊緒理の影すら見ないことが多い。伊緒理の代わりに賀田彦が蓮について手伝ってくれる。その時に、伊緒理は別の仕事をしているので、この館にはいないことが多いと言っていた。
 最初の頃は何気ない顔で受け流していたが、江盧館での短い逢瀬もないのでだんだんと落胆の表情が深く濃く出てしまうようになった。
 しかし、賀田彦にありありとその顔を見せてしまうことはいけないと思って、気持ちを取り直そうと、両手を頬に当てて少し時間を置いて、賀田彦ににっこりと笑い顔を見せた。
「そんな無理をしなくてもいいのですよ」
 賀田彦は蓮の引きつった笑みを見て言った。
 伊緒理が自分たちのことを賀田彦にどう説明しているのかわからないが、伊緒理が詳しく言わなくても賀田彦は察する力があるから、わかっているようだ。
「私には気持ちを隠すことはありません。二人の仲は存じておりますから」
 賀田彦の言葉に蓮は少し恥ずかしくなった。
「私は一日に一度は伊緒理様と会います。蓮様がいらっしゃる日は必ず伊緒理様は、蓮様のことを頼むよと私に話されます。伊緒理様も蓮様の顔を一目でも見たい、言葉を交わしたいと思っておいでですよ」
 賀田彦は少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
 会いたい!会いたい!
 そんな思いが体の中から顔に表情に出て、態度にまで出てしまうなんで、幼い恋のよう。私は一度は人の妻になった大人の女人なのに。蓮は恥ずかしくなった。
「そう?でも、こんなことで一喜一憂していてはいけないわ」
 そんな言葉を返したが、心の中では伊緒理に会えないと思うと寂しさが募った。
 今は時折、伊緒理と典薬寮でぱっと顔を合わせるだけで、江盧館でも七条の伊緒理の邸でも会うことは無くなって、二月が経とうとしていた。
 今日、蓮はいつも通り、宮廷の女官たちの体調に合わせて薬草を処方する作業を行なった。賀田彦も途中から現れて、助手の女人一人を含めた三人で、どの薬草を入れたら良いかを話し合いながら作業を進めた。
 母、そして去から教えを受けてきたが、宮廷で働く医官たちと話すのはまた違う知識を得られて刺激になり本当に宮廷に出仕できて良かったと思う。このような機会を得ることができて、この場を与えてくれた伊緒理に本当に感謝するのだった。
 その日出された症状を書いた木簡の薬草の処方が終わったので蓮は退出することにした。
 今日は、伊緒理の顔をちらりとも見る機会はなかった。
 賀田彦に見送られて、供の鋳流巳と一緒に典薬寮の館を出た。
 蓮はある時から宮廷の中を歩く時の緊張が強くなった。
 それは言うまでもなく、鷹取景之亮に会うのではないかという予感である。あの厩近くでの出来事のように偶然また会ってしまうのではないか、と。
 これまで会わなかったことは、この宮廷を歩いている人々のすれ違う中を絶妙に潜り抜けていたのではないかと思った。その絶妙が崩れてしまったら、会う確率が高くなってしまうのではないか。
 その姿を何度も目にしたら、すれ違い時に会釈をしたら、言葉を交わすほどに近づいてしまったら。
 体が硬くなって、胸が苦しくなってしまいそうだ。
 蓮は辺りを見回して景之亮の姿が見えてはいけないと思い足元を見て、供の鋳流巳の後ろをついて朱雀門まで来た。
 その門は宮廷に入る中央の門なだけあり、そこを通って出入りする人の数は多く、蓮は人にぶつかりそうになった。それを避けたら、背後から来ていた通り人にぶつかってしまいよろけた。
 あっと、前に手を出した時、蓮の体を支える手が伸びて来た。前を歩いていた鋳流巳が気づいて手を出してくれたのだと思った。
「あ!鋳流巳……」
 蓮は出て来た腕を掴んで、自分の体を支えた。
「助かったわ」
 蓮は体の態勢を立て直して顔を上げた。
 鋳流巳が微笑んでいると思ったら、そこには別の人物の顔があった。
「あっ!」
 蓮は言葉を失った。蓮の腕を掴んでくれたのは景之亮だったのだ。
「怪我はないかい?」
 蓮は無言で頷いた。
「それは良かった。気をつけて」
 そう短い返事をして、景之亮は宮廷の中に入って行った。
 これから宿直の準備かしら?
 蓮は驚きと共にそんなことを考えながら、あっさりとした態度の景之亮の背中を見送った。
 ああ、こんなことが起こるのではないか、と心配していたのだ。
 それも、あんなにあっさりと去っていかれると、なんだか物足りないような気持ちになる。
 こんな気持ちになるのは嫌だわ……。
「蓮様、大丈夫ですか?」
 鋳流巳が蓮の体に自分の体を寄せて守り言った。
「ええ、転ばなかったわ」
 鋳流巳も景之亮が蓮の手を取って助けてくれたことはわかっているはずだが、そんなことを取り上げることはせずに蓮の隣で蓮の体を守って門を潜った。
 景之亮様……私の記憶より随分痩せられたわ。奥様を亡くされて、悲しみの中、幼子を抱えて苦労をされているのかしら。でも、鷹取家にいる侍女の丸たちが助けてくれるわよね。鷹取家は大丈夫なはずよ。
 蓮はそう思い、景之亮のことを頭の中から追い払った。

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