「蓮……すまない……今は時間が取れなくて、あなたに言ったことを果たせないでいる」
伊緒理と愛し合った後の寝物語をしていたら、すぐに蓮の帰る時間になった。
伊緒理は蓮の体を離しがたくて、蓮の左肩に唇を押し当てた。
「気にしないで。……今は忙しいのでしょう」
蓮は力を緩めた伊緒理の腕から抜け出して、下着を着けて、上着を羽織った。
典薬寮に出仕した時、高位の医師たちは典薬寮にほとんど出払っている。賀田彦に聞くと、皆、王宮や後宮に行っているという。
「伊緒理も王宮や後宮に行っているのでしょう」
蓮の言葉に伊緒理は少し考えてから、口を開いた。
「あなただから言うことだけど」
そう前置きして、一段と声の大きさを落として言った。
「……今、大王のお体について典薬寮は夜も昼もなく出来る限りのことをしなければいけない」
「……」
「だから……心苦しいがあなたを少し待たせてしまう」
「ええ。……私は待っています」
「蓮……」
「伊緒理は私の初恋の人よ。……途切れてしまった縁がまた繋がったことが本当に嬉しいの。少々待たされたって、どうってことないわ。……だって、あなたの気持ちを私はわかっているもの」
そう言って、伊緒理の胸に飛び込み抱きついた。
「蓮……必ずあなたをこの邸に迎え入れる。そして、二人で毎日同じものを食べて、毎夜二人でその日あったことを語って夜更かし、毎朝共に目覚めるのだ。それは、心が躍るような生活だ」
そう言って、蓮を抱き返した。
大王は生まれた時から病弱な方で、子供の頃から寝込むことがあった。成長するにつれて体は強くなると思われたが、その予想は外れて、成長しても体調の良い時とそうでない時を繰り返し、
先代大王が身罷られた時、香奈益王は御年三二歳。それから十年余りの治世である。今、齢四二までになった。しかし、その体は目に見えて痩せ細り、咳き込む姿は痛々しく、近くで仕える者たちは心が締めつけられるほどの不安が襲うのだった。
蓮は勝手に想像していた。
伊緒理も子供の頃は病弱でいつ死んでもおかしくないと言われて過ごしていたという。毎日寝て過ごしていた日々だ。それが成長するにつれて、体は強くなり、長い航海や異国での生活にも耐えられる体になった。その要因の一つに伊緒理の祖母が多くの薬を試して、伊緒理の体を助けてきたことが考えられる。
伊緒理は自分の経験もあり、どうか大王に合う薬が見つかり、大王の体の苦しさを取り除いてくれるのではないかと思って、大王の治療に取り組んでいるのだ。
その合間に、束の間の休息の時を自分と会ってくれることが嬉しい。
その優しい伊緒理に蓮も……自分の心の中に渦巻いている思いをいつか話さなくてはと思っていた。今、こうして伊緒理の胸に飛び込んだ時に言うことではないかもしれないが、蓮は話そうと決めて顔を上げた。
「伊緒理」
「……なんだい?」
伊緒理の胸に置いた手を伸ばして蓮は伊緒理との間に距離を取った。
「あなたに話さないといけないことがあるの」
「……うん。どんなことだい。なんでも話しておくれよ」
伊緒理は顔色を変えることなく、蓮の顔を見つめている。
「……私は、一度……人の妻になったことがあるのは知っているかしら」
言い出しは少し声を震わせながら蓮は言った。
「ああ、もちろん知っているよ。去様から聞いた」
「では……なぜ、別れたのかも知っているの?去様から教えてもらった?」
「うん。聞いたよ」
「その上で伊緒理は言っているの。この邸に迎えたいと」
「そうだよ」
「……いいの?私は……」
すると伊緒理はそっと蓮の唇に指を置いて続きの言葉を止めさせた。
「蓮……私が陶国に行くと決めて、当然あなたは別の相手と一緒になることを望んだ。陶国から帰国して、あなたが一人だと聞いて驚いたが、私は気兼ねなくあなたに気持ちを伝えることができると考えた。私がいない間、あなたはある男に守られて幸せだったと思う。しかし、私が帰ってきて、今度は私があなたの男になる幸運に恵まれたと思った。私はあなたが欲しいのだ」
そう言って伊緒理は蓮を抱きしめた。
「伊緒理……」
「その日が来たら、あなたはただこの邸へ、私の元へ来てくれさえすればいいのだ」
蓮は自然と涙が流れた。
こんな嬉しい言葉はない。
蓮は伊緒理の背中に両手を回してきつく抱きついた。
初めの結婚が終わりを迎えても、それは蓮にとっても幸運なのだ。あれほど焦がれた初恋の人と、こうして夫婦になれる機会がめぐってきたのだから。
寝室で横になっている大王は天井を見つめていると、簀子縁から足音が聞こえてきた。
とても小さな音だから、大后だろうと思った。でも、もう一つ別の足音も聞こえてきた。
しばらくして。
「……大王?」
と大后の声が聞こえたので、大王は身じろぎした。
「いかがですか、ご気分は?」
顔を横に向けると、大后の雛の顔を見えた。
「うん」
大王は喉を鳴らすような返事をした。
「お父様……」
大后の後ろからひょっこり顔を覗かせたのは、大王の一人娘の仙だった。その顔を見て、大王は体を起こそうとした。
それを察知してすぐに大后が膝でにじりより、大王の体を支えた。仙は立ち上がって反対側に回り、父の体を支え起こした。
起き上がると咳が連続して出た。咳き込む大王の背中に娘は手を添えて、何度も撫でた。
「仙……すまないね」
大王は咳の間に言葉を絞り出した。
「いいえ、お父様、気になさらないで……お薬をお飲みになりますか?」
咳がおさまると、大王は頷いた。仙は枕元に置いてある薬草の入った徳利を取って、椀の中に茶色の液体を注いだ。
娘が差し出した椀に手を添えて、口元に運ぶ。その添えた手が心許ないので、隣の大后も手を出して、三人で持った椀から大王は薬湯を飲んだ。
苦い味が喉を通って、大王は咳き込んだ。すぐに仙は水の入った椀を取って、父の口に運んだ。
ひどい味だが、これを飲めばこの胸の苦しさが治ると思って大王は我慢して飲んでいる。それでも、体は一向に良くならない。
大王の胸の内は、覚悟はできている。それは大后にも話をしている。しかし、心残りとなるのは自分の背中を優しくさすってくれる娘の仙である。後ろ盾となる強い夫を探さなければならない。自分亡き後、何不自由なく暮らせるように。
誰がいいだろうか。
大王はこれまでも寝室でただ天井を見ていただけではない。
我が娘、我が妻、我が母が今と同じように不自由のない暮らしを送るのにはどうしたらいいかを考えていた。
有力な臣下の同じ年頃の男を探すか……。有力臣下といえば、岩城であるが、順番通りに行くと次期大王につくのが有力である有馬王子の母が岩城出身であり、強力な後ろ盾である。岩城が先代大王の娘を十分に庇護するとは思えない。
そんな時に体調の良い日に出席した会議に、日焼けした顔でニコニコと笑っている男がいた。どこの臣下の子息かと思ったら、王族の一員だという。
傍流の王族の息子だが、王族にはない生命力に溢れた男に大王は心惹かれたのだった。
その男は実由羅王子という。
実由羅王子のことを調べさせると、その後ろ盾に五条に居を構える岩城実言がいることが分かったが、実由羅王子は独立心のある男で、依存している様子はなかった。佐目浜という領地を治め、財力も安定しており、またその人柄が傍流の王族たちから信頼を集めて、頼りにされているという。
そんな男が、大王の娘と結婚すれば、大王の座を得ることも夢ではない。
そんな野心は今はないだろうが、そうなってもおかしくない出自と人気を備えた人物と見た。
「……雛」
娘の仙を自分の部屋に下がらせた後、大王は大后の名を呼んだ。
「はい」
「実由羅王子のことはどうなっている?」
「ええ、身辺を探らせております。そろそろ実由羅王子に大王のお気持ちを話す予定です」
「できれば、私が直接話をしたいと思う。実由羅王子に私が話したがっていると伝えて、ここに呼んでおくれ」
大王は実由羅王子に必ずうんと言わせる必要があった。
我が命が尽きた後、我が娘をはじめとした女人たちを託せるのはあの男しかいないと思うのだった。
コメント