蓮が典薬寮で伊緒理と会うことはなくなった。
夏の終わりに七条の邸で伊緒理が話してくれたように、大王の体調回復のためにあらゆる手段を使って良い薬を探しているため、手伝いに訪れる蓮の相手をしている場合ではなかった。
それでも、蓮の心に伊緒理と会えない不安はない。寂しいな、と思うことはあるが、それはきっと伊緒理も同じはずだ。次に会った時に素直な気持ちを話して、もっと深い仲になろう。体はもちろんのこと、心も包み隠さずにわかり合いたい。伊緒理と一緒になるのだから。
蓮は自分が一度は人の妻となり、そして別れた事実を自分の口から伊緒理に言えたことに安堵し。そのことを伊緒理は全てわかっていて一緒になりたいと言ってくれたことに喜びが滲み出た。
そして、もう一つ、
自分の心の中で渦巻いている気持ちの克服が必要だとはっきりと自覚した。
夫となった景之亮。
別に自分から会いに行くことはない。しかし、会わないようにと逃げないこと。会いたくないと心で唱えないこと。会っても平気でいられるようになるのだ。
しかし、いつでも景之亮と会っていいと思ったら、そんな機会はないもので蓮は典薬寮に行く途中、帰る途中景之亮の影すら見ることはなかった。
典薬寮では、伊緒理やそれ以上の高位医師たちの姿は見ないものの、仕事はこれまでと変わることなく、蓮はいつものように提出された札の症状に合わせて薬草を処方し、女官たちの控えの間を訪れて健康の相談に乗った。
その間に一度藍に会うことができた。
藍は出てきたお腹を愛おしそうにさすって、蓮に。
「蓮にはわからないかも知れないけど、起き上がるのも辛い日があるの。気分が悪くてね」
などと言う。
蓮は気を悪くすることなく笑顔で、それは大変ですね。今日はご気分が良いのですね。お会いできてよかったと、言った。それから、藍の悩みを丁寧に聞いてやるのだった。
ここ最近の典薬寮への付き添いは三度に二度は鋳流巳を連れて通っている。その日の付き添いも鋳流巳だった。
蓮は典薬寮で仕事を終えての帰る途中、美福門の前まで来るとこちらを向いて官吏と話をしている一際大きな体の男が見えた。
蓮はそれが誰かすぐに分かった。
仕事中なのだろう、武官の衣服を纏い、槍を持っている。
過度に意識しないようにと思って、鋳流巳の後ろをついて行った。門の前の階段を登っている時に、景之亮は話が終わったらしく、相手の男は景之亮の前から立ち去った。その姿を見送って顔を上げた景之亮と蓮は目が合った。階段五段の距離で。
蓮は景之亮と会っても気にしないようになろうと誓ったのだからと、不自然に視線を逸らさず階段を上がって景之亮の前まで来た。
「………」
「………」
無言のまま二人はしばらく見つめ合った。それに耐えられなくなったのは蓮だ。
「か、景之亮様……前に私が転びそうになったところを助けてくださいましたね。あの時は、転びそうになったことに驚いて、咄嗟に言葉が出ず、お礼をお伝えすることができませんでした。あの時は、おかげで怪我をせずに済みました」
と言って、頭を下げた。
「何を言うのだ。あなたは私が慕う実言様の大事な娘殿だ、助けるに決まっている。……それに、今ここを行き来している宮廷を出入りする者は皆、私でなくても手を差し出して助けていたはずだ。気にすることはない」
景之亮が言った。
「……今日は……典薬寮へ?」
続けて尋ねると、蓮は答えた。
「ええ、そうです……だいぶ慣れました。五条だけでは得られない知識や経験がありますから、毎回楽しみで休まず通っています」
「あなたらしいね。いつも新しい知識を得る努力をしていたし、それを人のために使おうとしていた」
と言った後、昔を知っているからこその馴れ馴れしい言葉を発してしまったと思って、景之亮は押し黙った。しかし、蓮は素直に笑顔を向けて言った。
「嬉しいわ、褒めてもらって」
蓮の笑顔につられるように景之亮も笑った。
景之亮の笑顔を見て、蓮は懐かしい気持ちになった。
何も、景之亮を嫌いになって憎んで別れた訳ではない。本当を言えば愛して愛してやまない男だった。憎んだのは自分の体だ。どうして、あれほど愛してもらったのに子が成せないのか。子を成せていたなら、今もこの男の元で子供と一緒に笑って暮らしていたはずだ。
とても優しい人。私を励ましてくれた。慰めてくれた。
会いたくないのは昔の楽しい思い出を思い出してしまうから。心に封印していた景之亮との日々を思い出して、悲しくなってしまうから。
でも、それを克服するのだ。だって、今は、伊緒理と言う初恋の人と恋の続きができるのだから。
「あなたは今から帰るところかな」
景之亮の言葉に蓮は頷いた。
「ではこれで」
景之亮はあっさりとした言葉を言うと、宮廷の中へと入って行った。門を行き来する大勢の人の中に入っても、背が高く大きな体は抜きん出ていて見失うことはなかった。
それからというもの、何かもつれていた糸が解けたように宮廷で景之亮の姿を見ることが増えた。遠くからその姿見ることもあれば、宮廷内の移動中にばったり会って、軽い会釈を交わすこともあった。しかし、前のように立ち話をすることはない。
こうして景之亮のことを自然と受け流せるようになっていければいい。
蓮は胸の内側から刺してきて苦しい思いになる景之亮との美しい思い出が色褪せていくのを待った。そのためにはこうしてすれ違うことに慣れていかなくてはいけないのだと思った。
新嘗祭の儀式は有馬王子が執り行うことが決まった。その頃、大王は褥から体を起こすこともかなわず、寝たきりになってしまっていた。
この事実は、ごく一部の王族と重臣のみが知っている。
皇太后と大后が必死に大王の実情を隠そうとして、有馬王子に身代わりをさせているので、儀式を執り行っているのは大王だと思っているものは大勢いた。儀式後の宴に、大王が出席しないのは、病身を押して儀式を行ったためで、宴までは出席できないと考えるのだった。
皇太后と大后は宮廷の臣下、役人を騙し、なんとか再び起き上がれるだけの大王の力の回復を待っているのだった。
大王が表に出ることがなくなり、代わりを有馬王子が行うとなると、有馬王子の立場が空く。その立場に誰を当てるかとなると、王族たちからはすぐに実由羅王子の名が上がった。
五条岩城が後ろ盾になっていることに、いい顔をしない臣下もいたが、大王が領地から戻り、政に関わる時間を増やした実由羅王子を頼りにされ、部屋に呼んでいることを知ると、表立って異論を唱えるものはいなかった。
実由羅王子の日焼けした肌は王族の中では異色だ。皆、日に当たることを好まず、白い顔をしている方たちばかりの中に、顔はもちろんのこと手の先、足の先も日に焼けて浅黒い実由羅王子。上着の袖を捲り上げて見える腕は太く逞しい。そして、明るく暗い影のない性格の青年を皆、目を細めて見上げ、王族の中心へと導いていくのだった。
この頃、都にいる実由羅王子は時間があれば、とは言っても、宮廷での役割をこなすのは大変で、先輩王族の邸に教えを乞いに通っているので、度々という訳でもないが五条岩城の邸を訪れた。
五条岩城邸に来たら、主人である実言や礼の出迎え、挨拶もそこそこに榧の部屋へと行ってしまう。実由羅王子が五条に来るのは榧に会うためだから当たり前で、皆、ほほえましいと笑顔で王子が榧の部屋に行くのを見送る。そこに弟の宗清も加わって榧の部屋からはわいわいと楽しそうな話し声が聞こえてくる。
もっと早くに実由羅王子と榧は結婚していてもよいのだが、実由羅王子はその時を心に決めているようだった。ようやくその時が来たようで、実由羅王子は結婚の準備を進め始めた。
蓮とは正反対のおっとりした榧は、邸で静かに暮らし、幼い頃から一緒に遊んでいる一つ年下の実由羅王子を親が決めた結婚相手として受け入れ、今、その準備が進んでいる。
しかし、幼い頃から決められた二人の仲に一つの火種が生まれた。
大王の娘の結婚相手に実由羅王子の名が上がったのだ。
しかし、その話もすぐに沈静化し、実由羅王子と榧の結婚はすぐ目の前まで進んで行った。
蓮は妹の幸せを喜びつつ、典薬寮での仕事と五条での母の手伝いをしながら、伊緒理との逢瀬を楽しみにしていた。
秋晴れの青空の元、蓮が典薬寮に出仕した日、典薬寮の館に行く手前で景之亮とばったり会った。その日の付き添いは曜で、曜は景之亮の姿を見て、思わず。
「景之亮様」
とその名を呼んだ。
景之亮は蓮と曜が見えておらず、そのまま通り過ぎるところ、曜の声で振り向いて二人の姿を確認した。
笑顔で近づいてきた景之亮に曜も嬉しそうな顔をしたが、隣の主人の顔を見ると自分が咄嗟に昔の男の名を呼んだことはよくないことだと分かった。
「やあ」
武官の服装の景之亮はにっこりと笑って蓮の前に立った。
「これから典薬寮へ行くのかな」
「はい」
自分が景之亮の名前を呼んでしまった手前、曜が蓮に代わって返事をした。
「そうか。これから寒くなるし、風邪を引く者が増える。あなたは忙しくなるな」
連は景之亮の言葉に頷いた。
「あなたも体には気をつけて。では、また」
そう言って景之亮は蓮がこれから行く典薬寮とは反対側方向に立ち去った。
景之亮の背中を見送る連は、その体がやはり少し小さくなったように思った。
妻を亡くして、幼子を抱えた景之亮だ。邸には古参の侍女の丸や他に信頼している人がいるから、子供を育てることに心配はいらないはずであるが……それでも苦労はあるのだろう。
それに……景之亮は優しい人だから、亡くなった妻のことを今も偲んでいるのだろう。
連はその景之亮と再々こうして言葉を交わすのはよくないことのように思った。景之亮にも、そして自分にも。
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