芹と一緒に朝餉を食べた実津瀬は母屋に向かった。ちょうど両親と妹弟の蓮、宗清が朝餉を食べ終えるところだった。綺麗に服を着付けている蓮を見て実津瀬は言った。
「蓮!今日は出仕の日かい?」
「ええ、そうよ」
蓮は椀に水を入れてゆっくりと飲み込んで答えた。
「一緒に行こうか?」
「今日は宗清が付き添ってくれるのよ」
「私が一緒に行きます」
蓮の向かいに座って三杯目の粥をかき込んでいる宗清がもごもごと咀嚼の間に言った。
「今日は曜が付き添ってくれるので、行きは宗清が付き添いを買って出てくれたのよ」
十五歳の宗清は、見習いとして左衛門府の仕事に励んでいる。
「そう。では、気をつけて。私は一足先に行くよ」
実津瀬は両親に挨拶して部屋を出て行った。実津瀬を見送った後、宗清が食べ終わると蓮は曜を伴って宮廷へと向かった。
左衛門府を守る仕事の見習いをしている宗清と一緒に美福門まで行って、門の内に入ったところで別れた。
飄々とした態度の宗清であるが仕事の先輩の顔を見つけて、頭を下げている。
その姿を見送って、蓮は典薬寮の建物に向かった。
扉の前にはいつものように賀田彦が待っていた。
「迎えはもういいのですよ。賀田彦殿も仕事があるでしょう。私を待つ時間がもったいないです」
「いいえ。私がお迎えしたいのです。お気になさらないでください」
賀田彦は笑顔で言って、蓮と並んでいつもの部屋へと案内した。部屋に入るとそこには伊緒理の姿があった。
「やぁ」
部屋の隅の箪笥の前に座って引き出しを出す作業をしていた。
賀田彦が部屋の真ん中に円座を置いてくれて、伊緒理と蓮は向かい合って座った。賀田彦は伊緒理の後ろ、箪笥の前に座った。
「今日は女官たちの部屋に行く日なのだが、蓮殿も一緒に来てくれないか。我々は女官たちの体の不調に合わせて薬草を処方して渡しているのだ。飲んだ後の様子を聞いて、症状と効果を調べている。その手伝いをして欲しい」
「はい。承知しました。後ろの引き出しは準備ですか?」
「ああ、そうなんだ。詳しくは賀田彦が説明してくれる。では後ほど、会おう」
賀田彦の前だから、伊緒理はかしこまって蓮に殿を付けて呼んだ。改めてこの場では、立場をわきまえていなくてはいけない。蓮はもう一度ここでの伊緒理との関係を思い直した。
伊緒理が部屋を出て行った後、賀田彦と向き合った蓮は、これから女官たちの詰めている部屋に持っていく薬草を紙に包み、引き出しをそのまま箱代わりにして薬草を足す作業をしていると、
伊緒理が助手の女人を伴って戻ってきた。
「それでは女官たちの部屋に行こうか?」
皆で薬草を入れた箱を持って王宮に勤める女官の待機している部屋に向かった。
「伊緒理様!」
「今日は伊緒理様なのね!」
部屋の沿った簀子縁を歩く伊緒理の姿を見た女人たちは口々に伊緒理の名を呼んだ。
女官たちと薬湯の効果を確認する作業は十日から二十日くらいの周期で典薬寮の医師が訪れて行なっている。来る医師はその時によって違うが、女たちの喜色満面な様子を見ると伊緒理は人気があるのだ。
伊緒理に見てもらいたい、話を聞いて欲しいという女人たちが列をなして、順番を待っている。伊緒理でなくてもいい女人たちが、賀田彦の前に来て体の不調について話をする。蓮は賀田彦について一緒に聴き、持って来た薬草を広げて症状に合うものを取り出しては女が持ってきた白布の上に載せた。蓮は木片に訴えた症状を、その裏面に薬草の種類を書き付けた。その札は、次回持ってきて、その後の体の様子を話すのが、薬草を分けてやる条件だった。前回の札を持っている者たちには訴えた症状は改善したのかをあわせて訊ねるのだった。
宮廷で働く男たちの記録も取っているが、女人たちの方が協力的で効率よく、詳細に薬草と体の不調の効果の情報をくれるので、自然と女人たちの元に通うことが多くなった。
伊緒理の良い容姿と、柔らかい物腰が女人たちを惹きつけて、伊緒理がきた時は皆、色めき立つのだと後で賀田彦が教えてくれた。我々のところには少しお年を召した方が多かったでしょう、と言って。
この活動は宮廷の医師が持ち回りで訪れており、伊緒理は久しぶりだったので長い列ができ、それを捌くのには時間がかかった。賀田彦と蓮も後ろに座って、症状の書き取りや薬草の選別を手伝った。
やっと伊緒理の列の最後の女人が終わると、四人は部屋を出た。
宮廷の建物が軒を並べて立ち並ぶ間を歩いて典薬寮に辿り着く手前で、後ろから声が掛かった。
「もし。医師の方」
「はい」
伊緒理と賀田彦が振り返った。
「怪我をした者がおりまして、厩まで来ていただけないでしょうか?」
伊緒理も賀田彦も治療の依頼の形式にこだわることはなく、怪我人病人がいればすぐに助ける人なので、すぐにその男に案内をさせて厩に向かった。蓮と助手の女人も顔を見合わせた後、すぐに二人の後を追った。
遅れて厩の前に着くと、男が三人倒れていた。一人は意識がない状態、一人は頭を抑えて呻いており、一人は腕を押さえてうずくまっている。このような惨状になったのは、急に馬が暴れて、馬に蹴られないように避けたら柱に頭をぶつけたり、転んで腕をついたりして怪我をしたと言う。
伊緒理が意識のない男のそばに駆け寄って、上着を脱いで倒れた男の頭の下に入れた。賀田彦はもう一人頭を打った男のところに行って横になるように言った。
「蓮殿。この男のそばについてください。気を失っているだけだと思う」
蓮は助手の女人と一緒に倒れている男のそばに座って、様子を窺った。蓮たちに男を任せると、伊緒理は腕を押さえている男の元に行った。
暴れた馬は機嫌が直ったのか、今は厩の中に入って平然としている。
騒然となった厩前は落ち着きを取り戻し、伊緒理たちを呼び止めた男たちは仲間の側で心配そうに見守った。
腕を押さえた男は激しく痛がるので、伊緒理は添える板のようなものはないかと探しに行かせて、程なく板が届いた。助手の女人から白布を受け取り伊緒理は添え木を肘から下の腕に添わせて固定し、首に白布をかけて吊ると、仲間に支えられて官人の宿舎に歩いて向かった。賀田彦が付き添っている男も横になって落ち着いたのか、体を起こしたいと言った。賀田彦が手を貸して体を起こし、近くの柱に背を預けた。
伊緒理が意識のなかった男の元に戻って様子を見る。男は呻き声を漏らし、瞼が動いた。
「頭を打って気を失ったのだろう。気がつきそうだ」
「板を持ってこよう。それに乗せて部屋まで運べばいいだろう」
同僚らしき男が言って、伊緒理が頷いた。
物を運ぶためにそういった物は近くに用意されていて、すぐに人一人を乗せられる板が持ってこられた。
男の体を隣に置いた板の上に移動させるために男たちが集まってきた。蓮も非力ながら男の袖を持って体を持ち上げるのに加わった。伊緒理は男の頭に回って、その下に敷いた自分の上着ごと持ち上げた。
そこへ蓮のいる反対側から一際大きな腕が伸びて男の体を支えた。重いと思っていた男の体が急に軽くなった。
「蓮殿、離れてもよい。みなさん、ゆっくりと、ゆっくりと」
伊緒理の声で蓮は男の体から手を離して、一歩下がった。伊緒理の掛け声に合わせて、伊緒理を含めた五人の男たちは倒れた男を持ち上げた。そこに蓮と助手の女人が隣に置いていた板を滑り込ませて、板の上にゆっくりとゆっくりと、という声に合わせて男の体を下ろした。
「それでは板をゆっくりと持ち上げて部屋に運ぼう」
板の四隅には持ち手がついていて、男たちはそれを持った。伊緒理も頭側について、板の縁を掴んでいる。
「これは鷹取殿。手を貸してくださり助かりました。あなた様は今から宿直でしょう。後は我々でやります」
という声がした。
「いや、部屋へ運ぶところまで行こう」
鷹取と呼ばれた男は答えた。
「いいえ、人は足りていますので」
そういう男の言葉通りに、部屋で休んでいた厩で働く男が二人現れた。
「そうか、では」
仲間の男二人が鷹取と呼ばれた男の左右に回って持ち手と板の縁を持った。
「急がずともよい。そっと運んで」
伊緒理の声に従って、男たちは歩き始める。
そこで、伊緒理が振り返り蓮に言った。
「蓮殿、あなたは典薬寮に帰ってください。我々を待たなくてよいので」
蓮は頷き、ゆっくりと進む怪我人を運ぶ列を見送った。
蓮の前に鷹取と呼ばれた男も同じように怪我人を運ぶ男たちを見送っていて動かない。
蓮は一緒に来た助手の女人と一緒に帰ろうと、その姿を探すために顔を目の前の背中から左へと向けようとした時、男が蓮を振り向いた。
「蓮殿」
一時、よく聴いていた自分の名を呼ぶ声はあの時のままであった。しかし、今は呼び捨てではない。
景之亮様!
蓮は心の中で叫んだが、実際に声にしたのは別の言葉だった。
「鷹取様」
蓮は目の前の相手を呼んだ。
別れて二年の歳月が経った。
何も言わずに鷹取の邸を出て、実家の五条岩城邸に帰った。蓮が戻らないことを知った景之亮は五条の邸を慌てて訪れて、何度も蓮に帰ってくるように説得したが、その顔を見たら決心が揺らぐと思い、蓮はあの朝以来景之亮の顔を見ていない。
いつも通り景之亮を送り出した朝。あの時の顔を心に刻み付けたままである。
あの時の顔と同じに頬には剛い髭を生やしているが、なんだか細っそりした気がする。疲れているのか、歳のせいなのか……。蓮は一瞬のうちに思った。
「……うむ」
景之亮は呻き声のような返事をして次の言葉を発した。
「あなたが……典薬寮に出仕していることは実言様から聞いていた。もしかしたら、その姿を見られるかもしれないと思っていたが……こうしてその姿を間近で見ることができて……」
と言って、景之亮は言葉を切った。
「……あなたは前と変わらず人のために働いているのだなぁ。……あなたの溌剌とした顔が見られてよかった」
そう言って景之亮はくしゃっと表情を崩し笑い顔になった。
「……はい……」
蓮は景之亮の顔をじっと見つめて返事だけした。
「蓮殿」
後ろから名前を呼ばれて蓮は振り返った。一緒に来ていた助手の女人が声を掛けたのだった。蓮は女人の顔から再び景之亮に視線を移した。
景之亮は目を細めて蓮に言った。
「……私はいつでもあなたの幸せと活躍を願っている」
蓮は景之亮の言葉を聞くと、心の臓が速くなるのを感じた。
「……私はもう行かければなりません……」
蓮が言うと景之亮は頷いた。
蓮は助手の女人の元に走り寄り言った。
「行きましょう」
蓮は典薬寮に戻った。景之亮の視線を感じたが、振り返る勇気はなかった。その後、曜と一緒に五条の邸に帰った。
その間に、二年ぶりにあった景之亮の姿が頭の中に浮かんできて、それを振り払うのに苦労した。自分の胸がチクチクと痛み、その痛みが消えないからだった。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第八章5

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