新嘗祭とその翌日の宴が終わり、宮廷は一息ついたように静かだった。
雅楽寮の面々も宴が終わってくつろいだ雰囲気であるが、年が明ければ新年の行事と祝いの宴がいくつか催されるので、その準備に取り掛かっている者もいた。朱鷺世は新嘗祭の宴での舞が終わって、三日ほど体を休めていたが、新年の行事で舞を披露するための準備を始めなくてはいけない時であった。その日、人が舞っているのを稽古場の隅でぼんやりと眺めていると、麻奈見が現れて朱鷺世の前に立った。
「朱鷺世、来年の月の宴で勝負することが決まったよ。岩城実津瀬が勝負を受けると言ってくれたそうだ」
麻奈見を見上げた朱鷺世は特に表情を変えることはなかった。そこに淡路が近寄って来た。
「またどんな舞をするか考えるのが大変だ。まだまだ時間があると思っても、すぐに夏が来る気がするな」
舞台については雅楽寮の差配するところとなるので、淡路は今年の宴の準備の苦労が思い出されて愚痴めいたことを言った。それは朱鷺世にとっても同じで、あの宴での舞は他のどの行事、宴とも違う苦しさがあった。
「決まったのだからやるだけだ。朱鷺世、また頼むよ。年が明けてから話をしよう。それまで、淡路とどんな舞の組み合わせにするか考えておく。朱鷺世は新年の行事の舞に集中してくれ」
と麻奈見は言って、淡路とともに朱鷺世の前から去った。
朱鷺世は静かに新年の儀式の舞の練習する日々を送っていたが、師走に入った時にあの男が稽古場の扉の前に現れた。桂の従者である若く美しい男だ。
「朱鷺世殿」
舞の稽古が終わって、稽古場の隅に座って息を整えていると、男は稽古場の中に入ってきて朱鷺世の前に立った。
朱鷺世は返事の声を出す代わりに顔を上げた。呼びかけは聞こえていると。
「お話ししてもよろしいですか?今日は桂様からの言伝を持ってきました」
桂?
また邸に来て舞えと言うのだろか?
朱鷺世は従者の顔を見つめた。
「桂様が三日後に小さな宴を開きます。朱鷺世殿も客人としてお招きしたいとおっしゃっています」
「……私を……」
客として?
朱鷺世は疑問に思った。
「桂様のことですから、あなたの舞を見ないということは無いはずですが、あなたをお客様としてお招きしたいのです。あなたお一人というわけではありません。数人をお招きして、舞のこと音楽のことをお話ししたいと思っておいでです」
「……私が客というのは、違うと思いますが」
いくら、舞のこと以外に疎いと言っても朱鷺世は自分が桂の客になれる身分とは思っていない。場違いだ。
「いいえ。桂様は才能のある方には分け隔てはありません。身分のことなど気になさる必要はありません。当日は身分に関係なく若くて、勉強に励んでおられる方をお呼びになる予定ですよ」
「……」
「そういったふうに言われると困るのであれば、そうですね……。やはり、桂様のお気持ちはあなたの舞を見たいのです。新年の祝いの席では舞を披露されることでしょうけど、それを待っていられないのです。だから、前回と同じように舞いに来てください」
舞え、と言われるならそれはお安い御用だ。舞うことが自分の仕事なのだから。
「……舞うためなら……行きます」
朱鷺世は返事をした。うんと言わないと、男は言葉を変えて説得してくると思った。
「はい。宴は三日後です。案内は要りますか?」
朱鷺世はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
約ひと月前に桂の邸、佐保藁の宮に案内してもらったが、再び行くとは思っていなかったため、そこまでの道をはっきりと記憶していなかった。
「承知しました。では、三日後、稽古が終わったら案内の者とともに佐保藁にいらしてください」
朱鷺世は頷いた。
「では、私は失礼します」
桂の従者が稽古場を去った後、淡路が何事かと近寄ってきた。
「あれは桂様のところの従者じゃないか」
「はい。桂様の宮に招きたいと。舞を舞えと」
「宮に招くと。そりゃ、すごいな。栄誉なこった。俺はそんな招き受けたことない」
と言って朱鷺世の前から去った。
今回は何を舞うのだろうか?それに……着ていくものはどんなものがいいだろうか?
そんなことが気になって、その日の夕方には自分が持っている上等な服を持って宮廷の女官たちが住まう部屋の前に行き、露を呼び出した。
陽が落ちる前に朱鷺世が持ってきた服の色を見て、帯をどうするかを露があれこれという。朱鷺世が持っている帯は二本だけだが、持ってきた深い緑の服には黒い帯がいいと言う。もう一本は紅い色でこの緑の上着には浮いてしまう、と言うのだ。朱鷺世は露の言うことに頷いた。
夜の森の中は冷えてきて、露は自分で自分の体を抱いた。それを見て朱鷺世は持ってきた上着を広げた。
「だめよ。これは三日後に宴に着ていくものよ」
「いいや。少しの間」
朱鷺世が上着を押し返そうとする露の手を押し留めるので、露はそれ以上は抗わず朱鷺世の上着に包まって温まった。
優しい朱鷺世。
露は朱鷺世の優しさに包まれる思いだった。
桂の邸に招かれることを、一応麻奈見に報告しておこうと思ったが、麻奈見は佐保藁の宮の宴の日当日も稽古場に姿を現さなかった。
稽古が終わって、それでも麻奈見が現れないかとちらちらと扉の方に視線を向けていたが現れたのはひと月前に佐保藁の宮の行き帰りを案内してくれた老爺だった。
「今日は桂様の宴の日だったな」
老爺の姿を見た淡路が声を掛けてきた。
「ほれ。気をつけてな。良い舞をして、美味い酒を飲め。お前は別の世界をたくさん知ることが必要だ。それがお前の将来にとってもいいことだ。舞手としてもな」
と言って、宴に着る上着を入れた包みを渡して、朱鷺世を扉へと送り出した。
「本日もよろしくお願いします」
老爺は言葉とともに一礼した。朱鷺世も一緒に頭を下げて、老爺と並んで宮廷の門を出た。
幼いときに村を出て、宮廷で仕事を得るために宮廷に入ってからずっと宮廷の中で過ごしてきた。確かに翔丘殿に行くために宮廷の外に行くこともあるが、いつも人にくっついて行き、道を覚える気はなかった。
これからは道を覚えよう。そうして、行きたいところへ、行かなければならないところへ一人で行けるようになろう。
朱鷺世はあたりを見回して、目印になるようなものを探し、記憶しようとした。
「桂様の邸はすぐですよ。塀が続くのでどこにいるのか分からなくなってしまいますが」
何も変わらない塀の横を歩き、角を曲がると門が見えてきた。
そうだ、前回はその門を通り過ぎて裏から入った。朱鷺世はひと月前のことを思い出した。
門の前まで来ると老爺は立ち止まり振り向いた。
「どうぞ」
「……え」
「今日、あなた様はお客様ですから、この門からお入りになるのですよ」
着替える間もなく稽古着のままここまできたから見すぼらしい格好である。そんな者がこの壮麗な門をくぐるのは気が引ける。
「ああ、その前に、服を整えましょうか」
少し道を戻って、老爺は朱鷺世が抱えている包みを受けとり、畳んだ緑の上着を出して朱鷺世に羽織らせ、黒の帯を締めさせた。老爺は朱鷺世の姿を見て、上着のしわを伸ばし、襟の合わせを整えた。
「よい姿ですよ」
脱いだ稽古着を畳んで布に包んだものを持って、老爺は門の前に立った。
朱鷺世はその後を追って門の前に行き、そこから先は自分が前に出て門をくぐった。門番たちも頭を下げて朱鷺世を迎えた。
気後れしたが、くぐってしまえば別になんてことはない。だからと言って、こんな壮麗な門をくぐって迎え入れられたことで、自分がこれまでよりも何か力を得たとも思わなかった。
朱鷺世の後から門をくぐった老爺に再び連れられて待合の部屋へと連れて行かれた。
「しばらくこちらでお待ちください」
そう言って老爺は立ち去った。部屋の中には誰もいなかった。
朱鷺世は部屋の隅に座った。待てども誰も部屋に入ってこないので、ここは自分一人に与えられた控えの間なのかと思い始めて、正座を崩してあぐらをかいた。いつまで待てばいいのか、と体を横にしたいと思ったその時、足音が聞こえた。
再び正座して待っていると、自分に宴の招待の話を持ってきた男が現れた。
「お待たせしました、朱鷺世殿。お部屋に案内します」
佐保藁の宮の桂の従者である男は太良音という名だった。これからも度々会うことがあるかもしれないから名乗っておくと言った。朱鷺世は心の中で太良音、太良音と繰り返した。
太良音の後をついて行く。部屋には今日の宴の招待客はすでに集まっているのだろうか。そんなことを考えながら、庇の間に入った。
朱鷺世の目に飛び込んできたのは、上座に桂が座り、その左右に客人が向かい合って座る光景だった。左に男が一人、右に男二人。桂は左側にいる若い男に笑顔をむけて話をしており、右側の男たち二人は小声で何やら話をしている。
庇の間に朱鷺世の姿が見えると、桂は顔を上げた。
「朱鷺世!よく来てくれた。そこへ座っておくれ」
そう言って、桂の左側に一人座っている男の隣を指した。
朱鷺世はその時は気後れして恐縮しながら円座の上に座った。
「今日の客人はここにいる者たちである。料理、舞、そして我々の会話で楽しい時を過ごそうではないか」
桂の言葉で簀子縁が騒がしくなり、料理の皿を載せた盆を持った侍女たち五人が現れた。桂から目の前の膳の上に料理が置かれた。豪華な料理が皿に盛られていて、朱鷺世は目を見張った。
「まずは食事をしよう。皆の口に合うかどうか」
そう言って、桂は杯を手に持った。別の侍女が徳利を持って現れ、桂の杯に酒を入れる。桂の右側に座っている男たちも杯を持ち、酒が注がれるのを待った。左側に座っている男も杯を取ったので、朱鷺世も同じように手にし、白い酒が注がれるのを見つめた。
「楽しんでくれ」
桂は杯に口をつけて、酒を一口飲んだ。それに倣って、右側の男二人も酒を飲み込んだが、左側にいる男はそっと杯の縁に口をつけただけだった。朱鷺世は目だけ動かしてその様子を窺った。朱鷺世もこの後、舞うので酒は匂いを嗅ぐだけにした。
朱鷺世は宴の後の褒美として客と同じような料理を食べさせてもらう機会があるが、それは余り物や形の崩れたものを回されただけであった。今、目の前にあるのは美しく盛り付けられた客のための料理だった。
「朱鷺世。なかなか食事が進んでいないのではないか」
「……はい」
朱鷺世は小さな声で返事するのがやっとだった。場違いな気がして食事が喉を通らない。
桂の右側のすぐ隣に座っている男は陶国から来た人物らしい。姿は自分たちと変わらない。その隣が通訳をしている男。ゆくゆくは陶国に帰る船に乗って留学したいと思っているとのこと。朱鷺世にとっては異国の男を間近に見るのは初めてであり、その言葉は全く分からない。
そして桂の左隣、朱鷺世の隣に座っているのが。
「実由羅」
と桂が呼んでいる王族の一人。
随分若く見えるが、桂との会話の受け答えはしっかりとしていて、幾つなのかは分からなかった。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第八章6

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