大王の健康問題は都を覆う暗い話である。三度目の舞の対決が月の宴から花の宴に変更になったのは表向き桂のわがままとなっているが、本当は大王の健康問題からだと思っている者は大勢いる。しかし、それを大ぴらに語ってはいけない。大王の健康問題を語るのは禁忌だ。
大王は新年の行事に出席するものの、式が長いものであれば途中で退席してしまうことがある。そのあとは弟の有馬王子が慌てることなく代役を務めている。臣下たちには大王は自分が務めを果たせない時の準備をしっかりとされていると見えた。
しかし、次の大王の話をすることは謀反の企みありととられかねず、皆、大王の健康と次期大王のことは胸の内にしまったままである。
花の宴も大王は出席できるか、一月前から一部の人々は心配していた。その一人である桂は表だった動きはしないが、絶えず使いを出して大王の母君や大后と連絡を取っていたが、花の宴の前日には王宮を訪ねた。
謁見の間で待っていると大王は誰かに支えられることもなく気心の知れた侍従を一人連れて現れた。
「大王、お時間をいただきありがとうございます」
「桂、明日のことが気になって私の様子を見に来たのだろう」
大王は椅子に腰を下ろすと笑顔で言った。
「明日は最後の対決です。二人とも大王に海を見ていただきたくて毎日練習に勤しんでいますし、私も必ず大王に見ていただきたいのです」
「うむ。桂だからな、言えるが、少し前までは起き上がることも難しかったが、数日前から体調が良い。儀式となると大変なこともあるが、明日は宴だからな。気楽だ」
と言って笑った。
「それはよかったです。明日は私も王宮からお付き添いして翔丘殿に向かいます」
「それは足労をかけるな」
大王は桂の顔を見つめ、右手を差し出した。桂は進み出てその手を取り、それよりも下に頭を下げた。
桂は言った通り、翌日、朝早くに王宮に来て大王の出発まで待ち、大王の輿の後ろについて翔丘殿まで付き添った。
そして、予定通り申刻には大王が宴を始めるお言葉を発せられて、宴が始まった。
まずは春の麗らかな気候の中、建物を取り囲む庭に咲く春の草木、花々を眺めながら音楽を楽しんだ。
その間に舞台裏手では実津瀬と朱鷺世が舞台に上がる準備をした。
桂が作ってくれた上着は錦であるが、今の二人は白に袖が藍に染められた上着を羽織っている。その二人は目立たぬよう中腰で進み、舞台横の階段前に来るとしゃがんで待機した。
曲調が変わり、何人かの楽器演奏者が交代した。無人だった大太鼓の前に人が立った。
音楽が変わったことで舞が始まると気づいた鈴なりの観覧席の雑談の声も小さくなり、舞台に視線を向け、居住まいを正す者が多数出た。楽器の準備が整うと、淡路の合図で実津瀬と朱鷺世は立ち上がって階段を上がり舞台上に立った。
二人が現れたことで、観覧の間の雑談をする声は完全に止まり、翔丘殿の庭は静かになった。
舞台下の正面にいる麻奈見が合図を送り音楽は始まった。
琵琶と笙の音。そこに横笛の音が加わり、春らしい軽やかな旋律を奏でた。
実津瀬と朱鷺世は同時に正面から右に半歩ほど体の向きを変えて、右手を上にあげた。顔も指を追って上に向いた。
大王に見せる二人の海の舞の始まりはゆっくりとした水の動きを表現した。
海とは池や川とは違うという。水が遠く向こうから幾重にもなって自分の方へ来るのだという。
大王の足元に向かって波が打ち寄せている光景を想像していただきたい。
二人は舞台の奥から右に左に向きを変えつつ、手の動きで波を表現し、舞台の前まで進み出た。舞台の前面まで行くと二人は左右に体の向きを変えて分かれて進み、舞台の端の手前で再び体の向きを変え、舞台の奥へと戻っていく。
昇った朝日が海の水面に当たって、きらきらと光る穏やかな海を表現した舞を二人は見せたいのだ。
そしてここから勝負の一人舞が始まる。前回は朱鷺世が先に舞ったので、今回は実津瀬から舞うことになっている。
実津瀬は舞台中央に進み出て、朱鷺世は舞台の後ろへと退いた。
今回の一人舞は同じ型を舞うことになっている。二人は舞を考える労力はなかったが、どれだけ自分らしい舞ができるかが勝負の決め手となると思っている。しかし、海を見たことのない二人は海を表現するのは難しいものだった。
昼間の海とはどのようなものか。
浜辺に遊びに出てきた子供達が打ち寄せてきた波から逃げて、引いたら波を追いかけて海の方へ向かう姿を舞に写したのだった。それは、麻奈見と淡路が見た光景であった。
後ろへ引っ込みまた前へと足を運ぶのは、波の打ち寄せる姿を表し、広げた手は波の広がりを見せた。
実津瀬は一人舞では子供の頃から教え込まれた基本に忠実な舞をすると決めていた。
これを最後に舞については出過ぎたことはしないと心に誓っていて、大勢の人の前で舞うのはこれが最後になる。
好きで幼い頃から精進してきた舞が大勢の人に認められて、大王の前で三度も舞うことができた。このような栄誉に与るとは思っても見なかったことだった。
好きな舞。努力してきた舞。多くの人に助けてもらって成し遂げてきた舞。人に認められた舞。
自分の舞の集大成として、自分が学んだ基本に忠実な美しい型を見せたい。
思い起こせばこの日まで多くのことがあった。様々なことが思い浮かぶが、最後まで思い浮かぶのは女人の顔だ。
芹。芹がいなければ三度もこの対決をやり遂げることはできなかった。これで最後。最後の舞をしっかりと見てほしい、願っている通りに、膝に淳奈を抱いてあの純真な瞳は瞬きもせず見てくれていることだろう。
ああ、忘れてはいない。いや、芹と同じようにずっと心の中にいる。芹と表裏一体のような人……私の舞を一番認めてくれた人、桂王女。今回の舞はあなたの目にどう映るだろうか。あなたが、私をここまでつれてきてくれたのでしょう。それも、今日で終わりです。
実津瀬はどこまでも基本に沿った美しい足運び、手の動きで浜辺の昼の賑わいを舞った。
そして、ゆっくりと手を下ろし、一礼するとそのまま後ろに後後退った。
次は朱鷺世の番である。
朱鷺世は前へ進み出た。
陽が暮れてから始まる月の宴とは違い、昼に始まった花の宴は違う景色が見えて面白い。
鈴なりの観覧の間にちらりと視線をやると、たくさんの目がこちらを見ている。
視界の端に桂の姿が見えた。
あの人に褒められる舞をしたい。
桂との密かな逢瀬を重ねて、自分は桂の情夫になった。それが自分では誇らしいと思っている。まだまだ桂に認められたい。この対決で勝利し、さらに桂の寵愛を受ける立場になりたいと思っている。
朱鷺世は大きく息を吸って吐き、きっと前を見据えた。
舞の型は同じだ。
目の肥えた観客に全く同じものに見せてはいけない。朱鷺世は基本に忠実な舞をしながらも、何か違うものを求めたいと思っていた。
舞の対決なんてことはこの先誰が始めようとするだろうか。これが最後だと思っている。
思いもしなかった舞の対決に、最初は言われたことをただ忠実にやるだけだった朱鷺世だが、いつの時からか自分の思いが芽生えてきた。自分はこのように舞いたいという意思が出てきた。今回も基本の型を実津瀬と一緒に舞っていたが、もっと自分らしい舞はないかと考えた。三年前の自分を思えば、そんな気持ちが芽生えるなんて思ってもみないことだった。
自分の思う舞。こうしたらもっと良く見える舞を追求したい。
別に舞人になりたいと思っていたわけではない。興が乗って雅楽寮に通って舞の真似をしていただけだが、見染められてここまで来た。
……いや、やはり、自分が選び取った道だ。
そして、自分の成長を感じ、自分の思いに従って舞をすることができるようになった。
これが最後の対決である。必ず勝たなければならない。
朱鷺世は美しく、そして斬新な舞を目指した。
見たことのない海。浜辺で波と遊ぶとはどういうことか。
目の前のことが全てであると思っている自分が見たことのないものを想像し、表現する。
想像して、自分でこんなふうに舞ってみたいと考えるまでになった。
言われたことしかしない、できない自分が、こうしたいという意志を持って模索し、自分らしい舞を作るようになった。
水に形はない。それを体で表現する。それは自分の柔軟な動きを最大限に見せることだ。倒れそうになるまで背中を反らせて起き上がり、舞台の前へと進み出る。
如何様にも形を変える水の動きを体で表現したのだった。
朱鷺世の柔軟な動きの舞が終わると、いよいよ最後の二人での舞になる。
朱鷺世は後ろに下がり、実津瀬の隣に並ぶと、後ろに控えていた黒子が二人の腰の帯の端を引っ張って解いた。そして、白い上着を剥ぎ取ると、その下に着ていた錦の上着が現れた。
ここからの二人舞は夕暮れの海を表現する。
実津瀬は前後に動き、朱鷺世は左右に動く。荒い波の様子を映した。
二人はバラバラに動いていたが、舞台の前の際までたどり着いた後は、同じ型で舞い始めた。錦の衣装は、西の海に沈む夕陽とその輝きを映す海を表した。
荒ぶれていた海を表した舞から一転、穏やかな水面を表す舞が始まった。
夕陽の光を写した舞はどこまでも同時性を追求したものだった。
最後の対決であるが、二人はこの対決が対立よりも共闘であることをわかっている。
最後はどちらかが勝つことになるのだが、その前に最高の舞を大王に見せなくてはいけないのだ。それはお互いの体の芯にあることだ。
どこまでもお互いの動きを一致させて、美しく、楽しい舞をする。
緩やかで時に激しい波の動きを舞の形にして、最後の二人舞は動きが止まることなく、最後まで舞うのだった。
両手を交互に上げて、高く迫り上がる白波を表し、二人は舞台前の端まで出て行った。そこで大太鼓の音が響き二人は両手を下に下ろして、後ろに下がった。波が引く姿である。そして、また舞台の中央に向かって立ち止まる。そこで大太鼓がもう一度鳴った。それが、この舞の終わりを告げる合図だった。
二人は静かに頭を下げて舞は終わった。
そこにうるさいほどの拍手の音が降り注ぐ。
二人は十分に拍手を受けた後、体を起こした。そして、後ろに後退り翻って、階段を下りた。
鳴り止まない拍手の中、二人は大王が座る正面の広間前の階段下に控えた。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第八章16

コメント