翔丘殿の正殿前に五段の階がかかっている。その下に雅楽寮長官の麻奈見と先ほどまで舞台の上で舞を披露していた二人が並んで右膝を突いて控えている。
大王は階下で頭を垂れている二人を無言のまましばらく見つめてから話し始めた。
「昨年の月の宴の舞は素晴らしかった。あれから、たまに桂が私を訪ねてきた時は必ずと言っていいほどあの夜の二人の舞の話が出た。我々で印象深かった場面を話すのだ。それほどに楽しいものだった。桂とはまたあの夜の宴を見たいと言い合うこともあったがしかし、舞う二人は準備するのに大変だろう。あの宴を再び行うのは難しいと思っていた。そんな思いがあったので、こちらから言わずともその願いが叶ったのは何よりの喜びだった。この夜を春から楽しみにしていた。そして、先ほどの舞だ。今、こうして話をしているが、二人の舞が素晴らしくて言葉を失うほどだった。そなたらがそこにいるのにすぐに話し出さなかったのは、気持ちが収まらず言葉が出なかったのだ」
そこまで言うと大王は口を閉じ、しばらくしてまた、話し始めた。
「桂から二人がどれほどこの舞台のために修練していたかを聞いている。二人とも良くやってくれた」
と言って、また黙った。大王の沈黙を皆が見守っていると、耐えきれずに大王が口を開き。
「桂、そなたが感激して話せないのはわかるが、そろそろそなたの出番ではないか」
と言った。
それで皆の視線は大王の右側の端の席に座っている桂に向かった。
桂ははばかりもせず頬に涙を伝わせていた。
「………大王……申し訳ありません。……大王と同じく私も言葉を発することができずにいました」
湿った声でそう言って、袖で頬を拭った。
「本当に素晴らしい舞でした。それは舞が終わった後の大王をはじめ、皆の喝采が示しています」
桂は立ち上がって大王に言った。
「大王、二人の舞に優劣をつけるのは難しいことですが、しかし、決めなくてはいけません。どうか、勝負の判定をお願いします」
「ふむ……。それは……今年も桂が決めよ。二人とも素晴らしくて、朕は到底決められない。目の肥えた桂が判定するのがよいだろう」
大王の言葉に桂は顔色を変えた。
「大王、ひどいことでございます。私も二人の舞に優劣をつけることは辛いことです。……しかし、昨年も言ったかもしれませんが、この勝負を言い出したのは私でございます。ですから、その役目を辞退はできないと思います。ですから、僭越ではございますが、今年も私が決めさせていただきます。二人に言葉をかけてもよろしいですか」
「もちろんだとも」
大王の言葉で桂は前に進み出て、階下に近づいた。
「新年を迎えた後、今年もこの宴で舞うことを実津瀬は快く受けてくれた。朱鷺世はこの一年、特に宴で舞うことが決まってからのこの半年、昨年の雪辱を果たすために鍛錬してくれた。それは実津瀬も同じだがな。今日は、大王にお見せする最高の舞をしようという気持ちが表れた素晴らしい舞だった。それは大王の言葉がすぐにでなかったとおっしゃったことからもそなたたちに伝わったことだろう。まず、最初の二人舞は息の合った舞であった。昨年、一緒に舞っている二人だから言葉を交わさずともわかるのだろう。見事だった。そしてそれぞれの一人舞だ。同じ型の舞を舞うもので、それぞれの技量が試されるものだったが、二人とも存分に自分の持ち味を見せてくれた。朱鷺世の柔らかな動き、実津瀬の力強さ。同じ型であるのに別のものを見ているようだった。そして再び二人舞に戻り、違う舞をしていると思っていたら、最後は二人のそれぞれの型が合わさって一つになった。雅楽寮の麻奈見をはじめとした皆が考え出したものだろう。そして、それに二人が見事に応えた。二人とも期待を超える舞であった」
と桂が、宴の舞を総括した。
「そして、一人舞の勝負の判定ですが……」
と大王に顔を向けて、桂は言葉を切った。
「この度は、朱鷺世を勝ちと判定します」
と一段と声を張って言った。
その声を聞いて大王の左側、岩城一族の観覧席からはため息が聞こえた。
「おお、今回は雅楽寮の舞人の勝ちとな」
「はい」
桂は続けて言った。
「昨年、実津瀬を勝たせたから、今年は朱鷺世にしたというわけではありません。また、実津瀬の舞が劣っていたと言うわけでもありません。昨年もそうでしたが、優劣が決められないほどに二人の舞は素晴らしいものでした。どちらも己の体で表現できる最高のものを作ってくれました。しかし、今回は朱鷺世のしなやかな舞がわずかながら優っていたと思いましたので、朱鷺世を勝ちとしました」
「そうか。確かに最初に舞った者は夜空に舞い上がって行きそうな軽さがあったな。実津瀬は地を這うような力強い舞であった。対照的な舞であったな。今宵、月の下で舞うには最初の者の舞が良かったかもしれない。桂の言うように、今回は雅楽寮の舞人…」
「朱鷺世という者です」
「うむ。今回は朱鷺世を勝ちとする」
大王が高らかに宣言した。
観客席が騒然とする中、大王は階下の二人に声をかけた。
「桂の言う通りだ。勝ち負けを決めたが、二人の舞は優劣をつけられるものではなかった。何より朕のために舞ってくれたことを嬉しく思う。二人に褒美を与える。追って知らせる故に楽しみにしておれ」
大王の言葉に二人は頭を一段と下げた。
「大王………」
そこへ桂が割って入ってきた。
「ん、なんだ、桂」
「こうして今日という日を終えた二人には酷なことを言うようですが、勝負は一勝一敗となりました。このまま終わってもよいとは思いますが、もしかしたら、誰かの心の中にはっきりと勝敗を決めたいという思いが生まれるかもしれません」
「ふん」
「ですから、来年の月の宴も昨年、今年と同じように勝負の場にしてはいかがでしょうか。もちろん、舞をする二人がいいと言えばですが」
「ふむ。そうであれば………来年の楽しみができたというものだ」
「はい」
桂は満面の笑みで雅楽寮長官の名を呼んだ。
「麻奈見!」
「はい」
麻奈見が返事をした。
「大王もご所望だ。来年もよろしく頼む」
桂の言葉に麻奈見は上げていた頭を下げて答えた。
「かしこまりました」
「二人は今は何も考える必要はない。二人とも素晴らしかった。どうか体を休めておくれ」
桂は階下の二人に目を落とした。二人とも下を向いているから、今どんな表情をしているかわからなかった。
何を考えているかは後で存分に聞いてやりたい。その時間もたっぷりと取ってやろう。
そう思った。
「桂の言う通りだ。二人とも休め。下がってよいぞ」
大王の言葉に麻奈見は隣で微動だにしない二人を促して立たせた。
三人は大王の前から下がって、庭から母屋の奥の控えの間に戻った。舞台の後ろから庭を通って、先に戻っていた淡路が三人を出迎えた。
「おう!戻ってきたな!」
淡路の声に、裏方の者たちは二人に注目し、自然と拍手や労いの言葉が発せられた。三人は皆の輪の中心になった。
「桂様はああ言ったものの、本当にどうなるかはわからない」
二人に振り向いた麻奈見が言った。
桂がああ言った、と言うのは来年の月の宴も同じように舞の対決をしようと言うことだ。今年の宴の舞をやり切った直後の二人に余計な心配をさせないための言葉だった。
「衣装を脱いで、汗を拭え」
実津瀬と朱鷺世は部屋に入って衝立を挟んで、衣装を脱いだ。
朱鷺世には朝の風呂の付き添いから付いている玖珠又が脱いだ上着を受け取った。
「朱鷺世さん、やりましたね!」
皆、当代一の臣下である岩城一族の一人である実津瀬の前で、あからさまな喜びを表さないようにしていたのだが、玖珠又は喜色満面で無邪気に言った。
「ん」
朱鷺世は鼻息のような返事を返した。
しかし、朱鷺世の心の中は玖珠又の声と同じように弾んでいた。
やった!勝った!
小躍りしたい気持ちであるが、それは必死に自重した。
自分が舞い終わったあと、後ろからあの男の舞を見ていた。自分が目指したものとは違う舞だった。
雅楽寮長官の麻奈見からまだまだ線の細い朱鷺世の体を見て、流麗な舞を考えてみたらどうか、と提案された。それを朱鷺世は受け入れた。その提案は、すなわちあの男の反対の舞であると言うことだ。
教えてもらうまま形を作っていった。
対決だと言うのに二人が同じような舞をするのは避けたいことだろう。二人がそれぞれ考えたことにその時その時で助言したことが、功を奏して二人の個性を活かした舞を披露することができた。やっていくうちに、空に飛んで行きそうなまるで天女のようだ、と表されるまでの舞になった。
今回は自分の個性がより際立った舞ができたので、桂は勝たせてくれた。
あの男の舞を見ていて、負けたとは思わないが完全に勝てるとも思わなかった。桂が何を見てどう解釈するかが問題だったが、今回はあの男より上手くできたようだ。
してやったりといった気持ちは毛頭ない。今回も薄氷を踏むような勝負であった。負けていてもおかしくないものであったが、自分の舞がより新鮮に見えたのだろう。
いずれにせよ、何かしくじったら勝つことはできなかった。
朱鷺世は小躍りする気持ちと共に、桂が提案した来年の三番勝負には乗り気だった。これでどちらが都一の舞人かを決めることができる。来年の自分は今よりもっと上手くなっているはずだ。そう思うと、来年も自分が勝つと思うのだった。
朝、風呂でつかった真新しい白布を盥の水に浸けて絞り、滝のように流れ落ちる汗を拭った。今になって汗をこんなにかいていたのだとわかった。冷たい水が気持ちよかった。
そうしているうちに衝立を隔てた向こう側の実津瀬が綺麗な上着を着付けて立ち上がって言った。
「皆さん、今年も助けていただきありがとう。それでは私はお先に失礼します」
淡路が実津瀬の肩を叩き、実津瀬は手をあげて答えた。
実津瀬はすでに始まっている宴席へと移動しなければならなかった。
「朱鷺世、やったな!」
実津瀬の姿が見えなくなったところで、淡路が囁いた。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章26

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