陽は西に傾きかけた頃、芹は淳奈の部屋に行った。
実津瀬は相当疲れていたのだろう、眠っているのでそのままにして自分だけ起き上がった。
乳母の苗に相手をしてもらって遊んでいた淳奈が顔を上げて、芹を見ると立ち上がって駆け寄った。
「母さま!」
「淳奈、いい子にしていたのね?」
芹は抱きしめた後に、淳奈の顔を見つめて言った。大きく首を縦に振った淳奈だが、目のふちは赤く、泣いたことがわかった。まだまだ幼く可愛い息子だった。
その夜、五条岩城家では内輪のささやかな宴を行った。前夜の実津瀬を労うため、母の礼、妻の芹、姉の蓮が中心になって宴の随分前から献立を考えていた。
芹が淳奈を抱いて台所に行くと、礼と蓮が台所で作業をしていた。
「遅くなりました。申し訳ございません」
芹は淳奈を下ろして言った。
「あら、まだまだゆっくりしていていいのよ。夕餉まで時間はあるわ」
義母の礼が言った。
「とんでもない。お手伝いします」
「あなたは昨夜の主役の一人であった実津瀬のことを考えて。台所は私たちに任せて」
義姉の蓮が言うが、数日前から計画していたことで芹は当然手伝うつもりだった。
「では、淳奈と一緒にお膳にお皿を並べて頂戴」
と蓮は言って、可愛い甥っ子の頭を撫でた。
「実津瀬は落ち込んでいたかしら?」
芹が淳奈の手を持って、膳に皿を並べていると、義母の礼が尋ねた。
「自分のことより、皆が気をつかってくれるのが心苦しいと言っていました」
「そう」
「実津瀬殿自身の顔は晴れやかでした。一仕事終えて、肩の荷が下りたのでしょう」
「あなたが傍で支えてくれるからでしょうね」
礼が言った。
「いいえ、私こそ実津瀬殿に助けてもらっています。だから、あの人がして欲しいと思うことはなんでもしてあげたいと思います。今も体を思う存分休めてほしいです」
「そう。実津瀬もあなたと淳奈がいて心が休まることでしょう」
義母の労いの言葉を芹は有り難く思い、密かに喜びを感じた。
そこに榧が一番下の妹、珊を連れて手伝いに現れた。五条岩城家の女性たちが集まってささやかな宴の準備は進められた。
日が暮れる前に宗清が実由羅王子と共に帰ってきた。
昨日、実津瀬とはすれ違いになった実由羅王子を招いたのだった。
実由羅王子は幼い頃の一時期、この五条岩城邸で育ったので都においての第二の家と言ってもいい場所だった。母屋から久しぶりの五条の邸に感激した実由羅王子の大きな声が台所まで聞こえてきた。
作った料理を皿に盛る作業を珊と一緒にやっていた榧に蓮が言った。
「榧、ここはもういいわよ。実由羅王子のところに行きなさい」
と言って、榧が持っている青菜の入った皿を奪った。
「珊、私とやりましょう」
と蓮が言った。
母も背中を押すので、榧は仕方なく台所から出て行った。
「芹、あなたもいつまでもここにいてはいけないわ。実津瀬が起きているかもしれないでしょう」
礼に言われてその時芹も素直に従い、淳奈と一緒に離れに戻った。淳奈を子守の苗に任せて、夫婦の部屋に行くと、実津瀬は芹が御帳台から抜け出した時と同じ寝姿のままだった。
本当に昨夜は精魂尽き果てたのね。
芹は御帳台に上がると、実津瀬の正面に座って肩に手を置いて揺り動かした。
「……実津瀬……実津瀬……起きてくださいな……もう夕方ですよ。実由羅王子も到着されました」
「ん……実由羅王子……ああ、もう暗い……」
実津瀬はゆっくりと目を明けて、隣に座っている芹を見上げた。
「うん。よく寝た。……芹……もう一度、ここに来ておくれよ」
と自分の前の褥をたたいた。
「まぁ、早く支度をしないと、誰かが呼びに来るかもしれないわ」
「実由羅王子には申し訳ないけど、待ってもらおう。いや、榧と話す時間が必要だろうから大丈夫だよ」
「夕食が終わったら時間があると言うのに」
「今がいいんだ。今、芹を抱きたい」
実津瀬の言葉に芹は微笑んで、横になると実津瀬の胸に潜り込んだ。
「実津瀬!昨夜の舞は素晴らしかった。しかし、惜しかった」
実津瀬が母屋の部屋に現れると、実由羅王子が言った。
「実由羅王子、そのようなお言葉ありがとうございます」
「宴では感情を表に出すのは良くないと抑えていたが、内心は悔しさで煮えたぎる思いではなかったかと思っていたが、今の顔を見るとそうでもないようだ」
「ええ。やり切ったという気持ちですよ」
「そうか。来年は勝利して都一の舞人になることだろう」
「来年のことは考えられません。今はこれまでの修練を重ねた自分を労っているところです」
「そうだな。今は穏やかな表情なのだな」
実由羅王子と実津瀬の会話は続き、そこに宗清が入り込んできた。男三人で庭を眺めながら話をしていると、芹に連れられて淳奈が現れた。
「父さま!」
簀子縁を走って父の足に飛びついた。
「淳奈、昨日はお父様の舞を見てくれたかい?」
抱き上げて尋ねると、淳奈は大きく頷いた。
「そう。父さまは淳奈に見てもらえて嬉しいよ」
淳奈は父の首に抱きついて一日以上会えなかった父に甘えた。
料理の準備ができて実言と礼が膳を運んで来た侍女たちと一緒に入ってきた。遅れて、娘たちが現れた。
実言と実由羅王子を上座に実言の隣に礼、蓮、榧、珊が並んだ。実由羅王子の隣に実津瀬、宗清、芹と淳奈が座り、ささやかな宴は始まった。
今夜のために昼間、市に魚を買わせに行かせたし、岩城家の北の領地から運ばれた珍しい食材を今日の料理に使うために取っておいた。
実由羅王子はどの料理もうまいうまいと連呼して膳の上の皿をどんどん空にして行った。
「実由羅王子、お口に合うのであればまだまだありますから申しつけてください」
と女主人の礼が言った。
「そう?ではいただこうかな?私はいくらでも食べられそうだ。宗清なんかよりよっぽど食べる」
「そんなことはありません。私も王子と同じくらい、いや、もっと食べられます」
二人はそんなことで張り合った。
「そうであれば二人ともたくさん食べてくださいな」
「私にとってここは家族も同然の場所。こうして皆と食事して語らうのは本当に嬉しい」
実由羅王子は終始笑顔で、五条岩城家の滞在を楽しみ、今夜は五条の邸に泊まることになっている。
ささやかな宴は小さな子供もいるので、短時間で終わった。実由羅王子は子供の頃と同じで、榧を誘って宗清と宗清の部屋に行った。芹は眠たそうな淳奈と珊を連れてすでに部屋を出ていた。
実言と礼も夫婦の部屋に行った。遅れて蓮が部屋を出る時、実津瀬が呼び止めた。
「何?」
既に蓮からは昨夜の舞について、これでもかというほど褒められていた。昨年の舞台を見ていないだけに、その感動は人一倍だったようで、実津瀬が負けたことはなかったように二人の舞がどれほど蓮に感動を与えたのか、滔々と話し聞かされていた。
「昨夜の宴で、久しぶり景之亮殿に会った」
突然の元夫の名前に蓮は内心、驚いた。
「……そう。あの方は……変わりないかしら」
「ああ、変わりないよ。一昨年には長男が生まれたが、この冬には二人目の子供が生まれるそうだ。妻の体調が悪いので仕事を休むこともあったようだが、昨夜の宴には出席しているのを聞いてね。席を変わった時に、斜向かいになったので、様子を聞いてみた。今は妻の体調は良くなったそうだ」
実津瀬の言葉に、奥様のために仕事を休むなんて、相変わらず優しい方ね、と蓮は思った。
「そう……それは良かったわ」
蓮は意識していなかったが声が震えた。
「蓮、お前が景之亮殿に与えたかったことだろう。そんな顔をするものじゃないよ」
実津瀬が言う。
「何?どんな顔よ!そうよ、景之亮様には幸せになってほしいの。だから、喜んでいるのよ」
蓮は少し声を大きくして言い返した。右目から生温かい雫が頬を流れるのを感じて、慌てて実津瀬に背を向けて、自分の部屋に帰って行った。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第七章28

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