すぐに眠れたのだが、眠りが浅くなった時、誰かのいびきで目が覚めた。
もう夜明け近いだろうか……。そうであればもう一度眠らなくてもいいか。
朱鷺世は身を起こした。
同じ部屋で寝起きしている宮廷で働く男たちは、最初は綺麗に並んで寝ていたが眠っている間に寝返りをうって体は動き横になったり重なったりしている。いびきも一人ではない。あちらこちらから呼応するように聞こえてくる。
いつもならこの中でも朝まで眠れるというのに、今日は起きてしまうとは。
これまでの二回はこんなことはなかったのに、今回は特別と感じているようだ。
朱鷺世は立ち上がり部屋から出た。
外の空気は爽やかだ。大きく伸びをしてから階段の一番上に腰掛けた。
昨夜の雅楽寮の夕餉は猪肉の煮込んだ一皿が追加された。明日の宴の中心となる者たちを元気づけたいという計らいからだ。
それを食べた後に露のいる棟に向かい呼び出して、いつものように宮廷内の森の中に入って話をした。
「今年も翔丘殿のお手伝いには呼ばれなかったわ。なぜかしら?私はとても望んでいるのに、そうでもない人が選ばれるの。興味がないなら代わってと言ったらそれは嫌だって……。酷いでしょう!舞の対決は今年が最後になるのでしょう?見られないのね」
露は恨みを込めた声で言う。
一度きりのことを、二度三度と行なってきたが、桂も四度目はないと思っている。それは雅楽寮の麻奈見も同じで、朱鷺世もそうわかっているので露に言ったのだった。
「昨年と同じようにあなたが勝つわ。絶対に」
露はそう朱鷺世を励まし、その胸に抱きついた。
そうだ……今日の勝負は俺が勝つ。
露との逢瀬の記憶から戻った朱鷺世は白く浮き上がってきた東の山の稜線を見つめて思った。
いつもの時間に実津瀬は目を覚ました。
寝る直前の姿、芹と手を繋いだままだった。その手を強く握ったら芹が握り返して来た。
「芹……」
「……よく眠れたかしら?」
「ああ、目覚めは上々だよ」
実津瀬と芹は揃って体を起こした。
夜が明けたところで、部屋の中はまだ薄暗くお互いの顔がうっすらと見えるくらいだ。芹は実津瀬に顔を向けると実津瀬もこちらを見ていた。体も実津瀬の方に向けて、芹はその顔を見つめた。
実津瀬の手が伸びて、芹を抱いた。芹も実津瀬の背中に手を回した。
「今日で終わるよ」
「そうね、今夜も待っているわ」
「ああ、月の宴ほど遅くはならない。帰ってくるよ」
実津瀬は芹をさらに強く抱きしめて、息を吸って吐いた。自然と芹の手は実津瀬の背中をさすっていた。
身繕い、着替えを終えて、朝餉の前に座る頃、息子の淳奈が起きてきた。
淳奈も今日がどんな日かわかっていて、母の隣で手伝ってもらいながら静かに粥を食べた。
「それでは行ってくるよ。皆が翔丘殿に到着した頃に顔を見せに行くよ」
実津瀬は淳奈を抱き上げて、芹に言った。
「はい」
「父様が勝ちます」
淳奈が言った。
「ああ、淳奈。父様の舞をしっかりと見ておくれよ」
実津瀬は淳奈に頬ずりして、下に降ろし母屋に行った。
宴は申刻(午後二時)に始まる。雅楽寮の者たちは辰刻(午前八時)には翔丘殿に入った。朱鷺世もこまごまとした荷物を背負って仲間と一緒に雅楽寮の館を出た。翔丘殿に入ると、朱鷺世以外の雅楽寮所属の者たちは準備に取り掛かった。
いつものように母屋の前の庭に作られた舞台の上、舞台の下に楽器を配置し、控えの間には実津瀬と朱鷺世の衣装や化粧の準備をした。
この日の舞台の主役の一人である朱鷺世に雅楽寮の者たちは、麻奈見や淡路も気を使った。
「朱鷺世、お前は寝てろ。まだ化粧の準備まで長いだろう」
化粧や衣装の箱が運び込まれた部屋の隅で、朱鷺世はその言葉に甘えて自分の腕枕で目を瞑った。
よく眠ったつもりでも、連日の稽古やここまで歩いて来たことで疲れているのか、うとうとして眠りに落ちたと思ったら、廊下の話し声で目が覚めた。
「実津瀬、まだ早いだろう」
「私は今日まで雅楽寮の一員だ。皆がすでにここに来ているのだから、私も来るよ」
翔丘殿に着いた実津瀬と淡路の会話だ。
「準備は順調だ。舞台を見に行くか?」
四日前に出来上がった舞台の上で通しで舞ったが、今日の舞台を見たいだろうと淡路が誘った。
「朱鷺世は……」
淡路の声が急によく聞こえて、朱鷺世は体を起こした。
実津瀬とともに舞台まで一緒に行こうと朱鷺世を探しているとわかった。
「あ、朱鷺世、実津瀬が来たから舞台を見に行かないか?」
朱鷺世は頷き立ち上がった。
母屋に行くと、舞台の上には麻奈見が上がっていて、楽器の位置を確認していた。
「実津瀬、早く来てくれたんだね。舞台に上がって確認しよう。朱鷺世も上がりなさい」
麻奈見に言われて淡路を含めた三人は舞台横の階段を上がった。
頭上には澄み渡った春の青空が広がって、舞台から庭を眺めると春の中が咲き誇っている。
「立ち位置を確認しよう」
階段を上がって、舞台中央に進み合図を待つ位置を確かめた。楽器を奏でる者たちの位置を見て、自分が舞う範囲を改めて確認する。
二人は最初に並んで前へと進む足の運びを一緒にした。そこから各々が左右に分かれてからの足の運びを確かめてそこで動きを止めた。
「ま、この二人なら大丈夫だろう」
淡路が呑気なことを言って、麻奈見は苦笑した。当の二人はそれぞれ遠くに視線をやって何か別のことを考えていたようだったが、遅れて実津瀬は麻奈見と淡路に微笑し、朱鷺世はいつもの仏頂面を向けた。
午刻(正午)近くになると、握った米と塩が差し入れとして用意された。食べたい者が好きに取っていいのだが、すぐに人だかりができてなくなった。
実津瀬と朱鷺世には別に粥が用意されて、それぞれ控えの間に運び込まれた。
衝立を挟んで座る二人は黙々と粥を口に運んだ。食べ終わると、実津瀬は身なりの準備を始めた。体を拭いて、髪を溶かして一つにまとめ上げて結った。肌着を仕替えて化粧をしてもらうと、自分の上着を肩から羽織った。
「母屋に行ってきます」
そう断って控えの間から出て行った。
その間、朱鷺世は中断された昼寝の続きをすることにした。
過去二回の宴と同じように岩城一族は早く自邸を出発し、翔丘殿に到着した。
蓮が先頭に立って部屋に入り、五条の人々に部屋の場所を教えた。母を助けて榧と珊が、遅れて芹が淳奈の手を引いて現れた。部屋では本家の者たちもすでに到着していた。本家と五条は近くて遠く、女人たちは久しぶりに会う顔を見て喜び合った。
久しぶりに車に乗ったので、疲れたと言って、皆、座って休んでいる。月の宴は暑くて、汗が噴き出してくるが花の宴の気候はちょうど良いと言い合った。蓮や榧は本家の同年の女人たちと久しぶりねと言葉を交わした。本家から淳奈と同年の子供達が数人来ており、芹の隣に行儀よく座っている淳奈を囲み興味深そうに見てくる。芹が橋渡しの言葉をかけて、子供達の仲を取り持つと後は子供同士で仲良く遊び始めた。
そこへひょっこりと実津瀬が顔を覗かせた。
それを目ざとく見つけた淳奈は顔を輝かせて父のところに駆け寄った。
「父様!」
それに続いて本家の子供たちも実津瀬の周りに集まった。
「叔父様!」
子供達は叔父が今日の主役の一人であると知っており、憧れの眼差しで実津瀬を見上げている。
実津瀬はしゃがんで淳奈の肩を抱き寄せて、甥、姪たちと少しばかり話した。
それに区切りをつけると立ち上がり芹の元に行った。そこへ五条の女人たちが集まる。
「まだ化粧はしていないのね」
蓮が言った。
「今日はまだだ。それよりも早く来た」
「兄様、これ」
榧が手のひらの上に載せたものを差し出した。それは白い桜の花びらだった。
「兄様がここまでくる間に体に着いたみたい。今日は晴れて、花も満開のよう」
「そうだね」
皆で庭の方へ移動し、観覧の間から外を見た。
庭を囲むように植えてある桜の木が見事に咲き誇っている。
「よい花見になるわね」
母の礼が言った。
「美しい舞がこんな素晴らしい景色の中で見られるなんてね」
と蓮が言う。
皆、しばし花見を楽しんだ。
「あ、兄様、いた」
その声で皆は夢から醒めたように廊下の方を向いた。そこには宗清が立っていた。
宗清は実由羅王子とともにくることになっていた。宗清が来たということは。
「ああ、実津瀬だ」
と部屋に入るなりそう声を上げたのは実由羅王子だった。
「今日は花の宴であるが、実津瀬の周りには花が揃っているな。庭を見るまでもないようだ」
と王子は言った。
「ははは、そうですね、王子。五条には美しい花が揃っています」
「三度目でこうして舞の前に実津瀬と会うことができた。前から、一言、力になる言葉を掛けたいと思っていたのだが、やっと三度目に叶った」
「王子が早く行きたいというのは、兄様に会うためですか?」
宗清が訊ねた。
「そうだよ。当然だ」
「いや、姉様に会いたいのではないかと思っていましたよ」
「あ、そうだ。それも当然だ」
と言って笑って、実津瀬に向き直ると笑顔のまま冗談めいた先ほどまでの声音は変わって言った。
「実津瀬、どうか、最高の舞が舞えるように祈っている。勝負は勝ってこそであるが、姑息な方法で勝っても喜びはない。真に心から喜べるのは最高の舞ができたからだ」
「王子、ありがたいお言葉です。私もおっしゃる通りと思っています。悔いのない最高の舞をやり遂げるつもりです」
それから皆は口々に実津瀬の健闘を祈る言葉を発した。
実津瀬はそれに応えるように手を上げて笑顔を見せた。芹だけ廊下までついて来た。淳奈を抱き抱えている母の礼を見ると夫婦二人にしてやろうという心遣いを感じた。
芹は手を伸ばして夫の左側の襟に触れた。整っているのだが乱れた襟を直しているような仕草をしてそのまま胸に手を置いた。実津瀬はその上から自分の手を置いて芹の右手を握った。
もう言葉は要らず、触れ合っただけでお互いの思いは伝わった。
実津瀬は芹にも笑顔を見せて、控えの間に戻って行った。
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