New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章5

小説 STAY(STAY DOLD)

 大王の体は数日経ってもがりの宮に安置された。
 都を悲しみが覆い、賑々しい声はすっかりひそめられた。大路小路の往来の人々は誰も彼もが笑みを忘れ、肩を落として下を向いて歩いている。
 実津瀬も暗い顔で共を連れずに外出し、日が暮れる前に邸に帰ってきた。夫婦の部屋に入ると芹が迎えた。
「お帰りなさい」
 実津瀬は帯を解いて上着を脱ぎ、それを芹が受け取った。
「とても冷たいわ」
 上着の受け渡しで触れた手に芹は驚いて言った。
「ああ、今日も寒い」
 毎日寒いので今日も夫婦の部屋には炭櫃を置いて温めている。
「早く炭の近くに寄ってください」
 侍女の槻が炭櫃の近く円座を置き、実津瀬はそこに座って炭櫃の前に手をかざした。
 師走も終わりに近づき、新年の準備が進んでいるが今年は厚い雲が覆ってどんよりした空が表しているように、大王の崩御で慶ぶことはない。いつもとは違う新年である。
「いかがでしたか?ご訪問は?」
 芹も伊緒理の隣に座ると尋ねた。
「……うん」
 実津瀬は返事をして、芹の顔を見た。
 案の定、不安そうな表情をしている。
 今日、佐保藁の宮から遣いが来て、実津瀬は桂の元に行ったのだった。
「大王とは兄と妹のように接しておられたから、たいそう悲しんでおられてね。大王の思い出話を聞くお相手をしていた」
「そうなのね」
 桂は大王が亡くなられた直後はすぐに王宮に参じて隣の部屋で翌日の朝まで咽び泣いていた。それから毎日、もがりの宮と自分の邸を往復して、大王を偲んでいる。その悲しみから立ち直るために、実津瀬を佐保藁の宮に呼んで、大王との思い出話を聞かせるのだった。
 桂にとって大王と実津瀬と言えば、舞の対決をした月の宴が一番の思い出である。三回目は、大王の体調のことがあって花の宴になったが、どれも思い出深い対決だった。
 桂はその一回一回の対決の前や後に桂が大王と語った話を思い出して楽しそうに聞かせるのだ。
 泣いて腫れた目をした桂が時に笑みを見せて語る。実津瀬は桂の前に座って、その思い出に耳を傾けて一刻ほど過ごしてきた。
 桂は実津瀬を気に入っている。それは誰の目から見ても明らかなことだが、若いお気に入りの臣下の立場を守っている。桂は挑発してその一線を越えようとしているが、実津瀬は越えない。妻や夫がいても他に愛人を持つ者はたくさんいるが、実津瀬は妻以外の女人には目もくれないのだ。
 芹の顔が曇った気がしたので、膝の上の手を握ろうとした時、簀子縁からこちらに走ってくる音が聞こえた。息子の淳奈だと分かったので、実津瀬は芹に手を出さず、部屋に入ってきた息子をすぐに抱き寄せて膝の上に乗せた。
 家族水入らずの時間を過ごして、夜になると実津瀬は昼間の芹の浮かない表情を消すためにその体を愛した。
「芹……芹……」
 実津瀬は何度も愉悦の吐息の合間に妻の名を呼んだ。
 大王崩御で喪に服している今、華やかな行事は中止になった。新年の行事も儀式をしめやかに執り行うだけである。
 宴もないので、舞もない。
 実津瀬は花の宴で負けて以降、舞は封印した。一族の内輪の宴で舞うことはあるが、宮廷の宴や行事で舞うことはない。列席するが、観客として見るだけである。周りの者たちから舞をやりたくなるだろう、とけしかけられることもあるが、実津瀬は微笑むだけではっきりとした返事はしなかった。
 今は、もう舞をする機会は無くなった。
 だから、桂が実津瀬に舞を舞えということもない。関わることもないと思っていたが、実津瀬を呼び出して、自分の悲しみにつき合わせて慰めさせる。
 それが芹を不安にさせるのだ。
 この思いは夫の愛で忘れていた。今も、夫は自分を裏切るはずはないと教えるように愛してくれる。
 だけど……こんなに心がざわつくのは……女王という立場を使って夫を好きに呼び出し侍らせる桂に腹が立っているからだ。
 好き勝手に夫を呼び出し、夫婦の時間を削られるなんて。
「実津瀬……冬は寒いわ……長く暖めていて……離れてほしくないわ」
 芹は言った。
「もちろんだ。冬の夜は長いのだから、ずっとこうしていよう」
 そう言って実津瀬は芹を抱いた。
 芹は精一杯実津瀬に甘えた。その胸に抱きついて顔を押しつけ、顔を上げて口づけを求めた。
 夫の愛の上に胡座をかいたことはないが、夫をどこまで自分に引き付けておけるかわからない。いつ、女王と気持ちが通じてしまうかわからないほど、二人は気が合っているように思う。
 芹は実津瀬の腕の中で知られずに目尻に涙をにじませた。

 大王の崩御により、華やかな行事や宴は中止になり雅楽寮の稽古場は無人で冬の空気もあいまってぴんと張りつめていた。
 重い扉が音を立てて開き、一筋の白い光が稽古場の中に差した。
 扉を開けたのは朱鷺世だ。
 大王崩御の知らせが都の隅々まで広がり、皆は喪に服す中、すでに計画されていた新年を迎える華々しい行事や宴は全て取り止めになった。そのため、新嘗祭の宴が終わると、すぐに新年の行事や宴の舞の準備を始めていたが、麻奈見から中止を告げられて朱鷺世は何もすることがなくなった。
 何の役割も無くなった朱鷺世は手持ち無沙汰で、大王から与えられた屋敷で悶々と過ごしていた。
 何もしないのもこれまでの人生でなかったことで、時間を持て余し稽古場に来てしまったのだ。
 稽古場の中央に立つと、頭の中で音楽を鳴らし、新年の行事で舞う舞を舞い始めた。
 今年の始まりもこの舞を舞った。
 あの時よりもより美しい舞が舞えるようになったのに、それを見せる場がない。朱鷺世は虚しい思いに飲み込まれないように、本番に臨む気持ちで舞った。
 大王崩御の知らせを聞いたのは、佐保藁の宮で桂と共寝をした夜明け前だった。
 いつもは身の回りを世話する女官が声をかけるのに、その日は宮の家政を束ねる舎人の男が
 桂の御帳台の几帳の陰まで来たのだった。
 桂はすぐにいつもと違うと察知し、朱鷺世の腕の中から身を起こした。
「なんだ」
 その時の桂の声は今まで聞いたことのない低い声だった。
「お話ししたいことがございます」
 桂が一人で寝ているわけではないことをわかっている舎人は報告の内容をすぐには言わなかった。桂もそのまま言えとは言わず、上着を羽織ると帯を取って緩く結び、几帳の前まで行った。
 小声の話し声が聞こえたが、その内容までは聞こえなかったが、二人の雰囲気が緊迫しているのを感じた。
「下がれ」
 桂はそう命じて御帳台の上に再び戻ってきた桂の顔は蒼白だった。
「桂様……」
 鈍い朱鷺世でも桂の異変に気づいて、声をかけた。
「……大王が……大王が……」
 桂の目は焦点が定まらず泳いでいたが、朱鷺世が桂の左手を握ると、朱鷺世に顔を向けて言った。
「……お亡くなりになった……」
 桂は悲愴な声を絞り出した。
 朱鷺世はその言葉に、近い将来のいつか訪れる事実と思っていたが、その事実を突きつけられて桂と同じように色を失くし、押し黙った。
「……」
「すぐに大王のおそばに行かなくてはならない。悪いが帰ってくれ」
 桂の言葉は冷たく聞こえたが、その時の朱鷺世は至極当たり前のように思い、すぐに浜床を降りて、下に落ちている自分の衣服をかき集めて着た。
「しっ、失礼致します」
 朱鷺世は舌がもつれた。
「朱鷺世!……このことは言わなくてもわかっていると思うが口外してはならぬ」
 朱鷺世は桂の言葉に頷いた。
 寒空の下、朱鷺世は亡くなった大王からもらった自分の邸に帰った。
 大王が亡くなったからと言って、何か大きく変わることはないと思っていたが、やはり舞の理解があった香奈益王の御代が変われば、舞の価値も変わるかもしれない。
 次の御代を治める大王がどれほど舞に価値を見てくれるか……。
 朱鷺世は香奈益王の異母弟である有馬王子の姿を思い浮かべた。
 次代の大王は舞などの雅楽にどれほど関心があるだろうか。
 岩城一族の男との対決などなければ、屋敷を持つなんてことはなかった。
 朱鷺世は改めて大王と桂に守られていたのだと思った。そして、舞を好んでくれていた大王の死は、朱鷺世の今後を不透明にさせた。
 都一の舞手の地位を確立した朱鷺世であったが、その実、舞の価値に見向きもされなくなったら今のような生活はできないだろう。
 大王からいただいたこの屋敷を保つだけの力もなく、貸すか譲らなければならなくはずだ。そうならないためにも、桂の気持ちを惹きつけておかなければならい。舞と体で桂を魅了し、庇護を受けなければならないのだ。

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