New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章7

小説 STAY(STAY DOLD)

 顔を上げると、目の前には景之亮が立っていた。蓮はそこから自分と景之亮の間にいる伊緒理に視線を移すと、伊緒理と目が会った。
 伊緒理は目の前の武官の男から、振り返って蓮に視線を向けた。伊緒理はいつも通りの平静な表情である。
「蓮……」
 景之亮が再び蓮の名を呼んだ。
 そこで蓮は再び景之亮を振り返った。
 宮廷に出仕するようになってから、幾度となく景之亮と会うことがあった。克服するために会いたいとさえ思っていた。話をした時、景之亮は蓮を昔のように呼び捨てることはなかった。
 蓮殿、と言っていたはずなのに、今、なぜ、昔のように呼ぶのか。
 景之亮は二月のまだ寒い時期だと言うのに、胸と背中は重ね着をして暖かくしているが、袖はまくり上げている。その右腕には巻かれた白布が見えた。
 火事の日。燃え盛る炎の中からの脱出の後、その最中で蓮たちを守るために火傷を負った景之亮と、蓮は一緒にいることが苦しくなり、逃げるように別れたが、その時、火傷した手を冷やして、後は典薬寮で薬をもらうように念を押した。その言いつけを守って、景之亮は手当を受けたのだろう。あれからふた月が経ったが、火傷が酷く、まだ手当が必要なのかと思った。
「蓮……私はあなたに話したいことがある。……あの日から……」
「鷹取様!今、私は一人ではありません」
 蓮は大きな声で言った。
 景之亮は蓮の言葉にあたりを見回してから再び蓮を見て、自分の前に立つ男を見た。後宮の門近くの石畳の細い道には蓮たち三人以外に誰もいなかった。
「私たちの他に誰もいない」
 景之亮が言った。
「いいえ、いらっしゃるわ」
 蓮は声を落として言った。
「……確かに、ここにはあなたと私と……椎葉殿がいらっしゃる」
 景之亮はそう返した。
「ええ、私は一人ではありません。お話はまた別の機会に」
 蓮は強い口調で再度言い返した。
「私は椎葉殿に聞いてもらって構わない」
 景之亮も蓮に負けないほど強くはっきりと言い、鋭い眼光は蓮と伊緒理の二人を見ていた。
「いいえ、椎葉様には関係のないことです」
 蓮は目を伏せて声を押し殺して応えた。
「椎葉殿、突然お声がけをして申し訳ない。私は一緒におられる蓮殿にお話ししたいことがあるのです。私はその話を椎葉殿に聞いてもらっても構わない。あなたさえ良ければ」
 景之亮は伊緒理に体を向けて言った。
「私は……」
 伊緒理は景之亮の顔から斜め後ろにいる蓮に視線を向けた。
 蓮の目は見開かれて、吊ったようになっており、両手をぎゅっと握りしめている。
 伊緒理は景之亮に視線を戻して。
「鷹取様、私たちは大后のところをお訪ねして、今、典薬寮に戻るところです。申し訳ありませんが行かなければなりません」
伊緒理は言うと、目で蓮を促した。蓮は伊緒理の言葉で歩き出した。それを見て、伊緒理は景之亮の顔を射るように見て、何か言いたそうにしているのを制した。蓮が自分の前を通り過ぎると。
「それでは失礼します」
 そう言って頭を下げて、伊緒理は蓮の後ろをついて歩き出した。
 その間、蓮は震える体を抑えるのに必死だった。
 それは怒りではなく、混乱だ。自分がどうしたらいいのかわからなくて、その捌け口として体が震えてしまう。あの場で、よく立っていられたものだ。
「蓮、こっちだ」
 伊緒理の言葉で顔を上げた。ただただ前に向かって歩いていた蓮は王宮の外に出る門に向かう道を通り過ぎるところだった。
「はい」
 蓮はそこからは伊緒理の後ろを歩いて、後宮の外に出た。
 大后のところに行く時はあれこれと会話をしたが、帰る今は二人とも一言も発せず咳や吐息も漏らさないように口を引き結んで、典薬寮まで戻った。
「おかえりなさいませ」
 賀田彦が玄関に出て、出迎えた。
 今日は伊緒理がいるのでいつもの部屋ではなく、伊緒理が使っている部屋へと通された。賀田彦が机について、今日の大后とのやり取りと明乃王子の症状について書き取った。
 それが終わると、伊緒理は賀田彦に言った。
「蔵からこの薬草を箱ごと持って来てくれないかな。蓮殿に咳の効く薬湯について話をしたいから」
「はい、すぐに取ってきます」
 賀田彦は素直に返事して立ち上がった。伊緒理が渡した板には多くの薬草名が書かれていて、すぐに取って戻って来られる数ではなかった。
 賀田彦の足音が聞こえなくなってから、蓮は言った。
「伊緒理様、私」
 すると、すぐに近くで伊緒理の声が聞こえた。
「いいんだ」
 蓮の体は伊緒理に包み込まれて抱かれた。
「……鷹取様は私の」
 蓮はたまらず話し始めたが、それを制するように伊緒理は言った。
「知っている。あなたの夫だった人だ」
「鷹取様と私」
 蓮は言わなければ気持ちが収まらず続けて言った。火事の夜の黙っていた部分を話さなくてはいけない。
「話さなくていい」
 伊緒理はそう言って、蓮の体を抱きしめた。
「……伊緒理」
 蓮は心の中でその名を言ったが、小さく声になって漏らしていた。
「心配することはないよ」
 今まで伊緒理は典薬寮の中で、蓮の体に親密に触れるなんてことは決してしなかった。一線を引き、同僚として接することに律してきたのに。
 伊緒理がこんなことをするのは、後宮での景之亮との出会いが尋常ではないとわかっているからだ。夫だった男という事実の他に、今の蓮と伊緒理の間に元夫が関わってくると感じ取っているのだ。
「……私はあなたを二度と悲しませたりはしないから」
 伊緒理はそう言って、蓮の頭に頬ずりした。
 蓮は右目から涙がこぼれそうになった。
 なぜ泣くのだろう。
 愛する人が、心配ない、悲しませないと言ってくれているのに。
 こんな心強い言葉をもらっているのに、涙が出るのは嬉しいから……。
 そう思うのに、胸が痛いのはなぜだろうか……。
 このまま感情に流されて泣いてはいけない。やがて伊緒理に指示された薬草を持って賀田彦が帰ってくる。涙を拭いても、目の縁が赤くなっていれば、異変に気づいて怪しむだろう。
 蓮は泣くのをぐっと堪えた。
「はい……もうすぐ賀田彦殿が戻ってきます」
「うん……わかっている」
 そう言った伊緒理は蓮にまわした腕に今一度力を込めて抱きしめてから、蓮を離した。
 程なく賀田彦が両腕に箱を抱えて、一人では持ちきれず助手の女人を連れて戻ってきた。
 その時二人は、賀田彦が蔵に薬草をとりに行った時と同じ位置に座り、明乃王子の可愛らしさとその中に次代を担う王子としての自覚の現れた素晴らしい姿について話をしていた。
 それから蓮が典薬寮を退出するまで伊緒理はこれまでの典薬寮の中での態度と変わらず、昔からの知り合いである親しさで接した。
 賀田彦が何か変なふうに勘繰ることもなかったはずだ。
 蓮はその日の付き添いである鋳流巳と共に五条の邸に帰って、すぐに自分の部屋に入った。
「お帰りなさいませ」
 侍女の曜が出迎えてくれたが、蓮はすぐに言った。
「少し一人になりたいから、呼ぶまで自分の部屋にいてちょうだい」
 長年蓮のそばにいる曜は、黙って部屋から出て行った。
 帰りの道中、蓮の頭をよぎるのは伊緒理の抱擁や言葉ではなく、あの時景之亮が何を言おうとしていたのか、ということだった。
 本心は景之亮の言葉を聞きたかった。
 いや、違う。
 それは蓮を苦しめる呪縛となる言葉になるだろう。だから、あの時制したのだ。
 克服なんてことを考えるのはなんて傲慢な考えだったろうか。景之亮の存在、思い出、そのことを何もなかったようにいられるわけはないのだ。景之亮の妻がいなくなった今、景之亮は何を考えているのだろうか……。
 火事から脱出の時、蓮は昔と変わらず景之亮が何を考えているかわかる瞬間があった。それは景之亮も感じたことだろうと思った。だから、助けた姉妹が立ち去った後、景之亮は蓮の手を握り何か言おうとしていたのだ。
 私はいったい何を求めているのだろうか……。
 蓮はそこで、誰の目も憚ることなく大粒の涙を流した。
 なぜ涙が出るの?
 何を不安に思うの……。
 伊緒理の愛で満たされているというのに。
 蓮は堪えきれず机の上に突っ伏して、声を押し殺して泣いた。

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