翌日、夜明けと共に起きた実津瀬は朝の準備を済ませると宮廷ではなく、佐保藁の宮に向かった。
どんな方法でもいい榧を邸に戻したい。
その一心で、桂に伊佐に行くことを引き換えに大王にとりなしてもらいたいとお話しする。
実津瀬が佐保藁の宮の門の前で訪を入れると、桂の側近従者の太良音がすぐに現れた。
「お部屋でお待ちです」
案内されたのはいつもの庭から入る石畳の部屋ではなかった。長い簀子縁を進み、御簾の上がった庇の間に入ると、奥の部屋に桂が座っていた。
「早い時間に申し訳ございません」
実津瀬はそう挨拶した。
「いいや。私が今日、答えをくれと言ったのだ」
桂は実津瀬を自分の前に座らせると、脇息に体を預けて言った。
「それで私の条件は考えてくれたかい」
桂は神妙な顔つきで問うた。
「はい」
実津瀬も同じように神妙な面持ちで返事した。
「答えは?」
「お受けします」
「はっ!やはりそう言ってくれ」
「しかし、私も一つ条件があります」
「…るか……ん?条件?なんだ?」
桂は実津瀬の答えはわかっていたが、その答えを聞いて喜びが素直に出たのだが、それを削ぐ実津瀬の条件という言葉に尻すぼみに声は小さくなり、眉根を寄せた。
「……はい。これは一握りの者しか知らないことです。ですので、内密にしていただきたいのですが」
「ふむ」
実津瀬の言葉に桂はさらに眉を顰めた。
「大王の妃の一人に岩城家の娘がいます」
「ああ知っている。ちょうど子を産んだところであろう」
「はい。何せ初めてのことで、一族としても助けてやりたいと思い、幼い頃から一緒に過ごしていた気心の知れたものを短い時間でも使わして気晴らしでもできたらと思い、私の妹を一日遣わしました。その妹がどこでどうなったのか、大王の目に留まり、今王宮に留め置かれているのです。大王の元にはその王子を産んだ岩城家出身の妃がいますので、新たに岩城の娘をお側に置いていただきたいとは思っておりません。そして、我が妹は世間知らずな素朴な娘です。とても大王の相手などできる娘ではございません。どうか、桂様から大王に妹を邸に戻すようにとりなしていただきたいのです」
実津瀬が話し終わると、しばらく考えて桂は言った。
「………私でうまく行くと思っているのか」
「はい」
間髪入れずに実津瀬は返事をした。桂は脇息にもたれたまましばらく空を見つめて考えている。
「そなたは……いいだろう。しかし……そなたの望みが必ず叶うとは思うなよ」
「それはもちろんでございます」
「先代であればお話を聞いてくださることだろうが………」
桂は自信のなさを口にした。しかし、実津瀬はどの手段でもすがる気持ちで、黙って頭を下げた。
「ここで待っておれ。すぐに王宮に行ってくる」
桂が部屋を出るのを実津瀬は立ち上がって、簀子縁まで出て見送った。
桂が王宮に着いて、大王の近侍に訪を入れさせ、部屋に案内されていると、臣下の控えの間に一人座っている男の背中が見えて、部屋の中を覗き込んだ。
男と目が合った桂は。
「岩城実言」
と思わずその名を口にした。
「桂様」
実言は深々と頭を下げた。
「そなたも大王に用が?」
「……はい……」
少し憔悴したように見える実言に、桂は気づくことがあった。
「……私はそなたの息子に請われて来ているが……そなたがここに来ているのは同じ理由かな」
「ご足労いただき申し訳ありません」
その返答で桂は察した。
「……大王の戯れかな。……困ったことだ。遊びですぐに手放してくれたらよいが……」
桂は臣下の控えの間に入って実言の前に座って言った。
「そなたの息子の交換条件としてここに来ていることはそなたも知っていることだろう。やるからには誠意を尽くすつもりであるが、結果は期待通りに行くとは限らない。結果の如何を問わず私はそなたの息子を伊佐に連れて行く」
実言は黙って頭を下げた。それで、桂は親子の間で話ができていると知れた。
「桂様……」
大王の近侍の男が控えめに桂を呼んだ。
「では行ってくる」
桂は実言に言って立ち上がった。実言はさらに深く頭を垂れた。
実津瀬は佐保藁の宮で桂を見送った後、従者の太良音に案内されて客人の控えの間に移った。そこは炭櫃もない寒い部屋であったが、用意された円座に膝を折って座り、ただ一点を見つめて待っていた。
簀子縁が騒がしくなって、音の方へ顔を向けると、太良音が現れて言った。
「桂様がお戻りになりました」
首尾はどうであったか、祈る気持ちで実津瀬は太良音の後ろについて桂の部屋に入った。
「桂様、寒い中私の願いを聞いてくださり、ありがとうございます」
実津瀬の声は聞こえているだろうが、桂は脇息にもたれかかって炭櫃の火に手をかざして、黙っている。
実津瀬は答えを急ぐことはせず桂が話し始めるのを待った。
「………実津瀬」
「はい」
「そなたの妹は大王に何をしたのだろうか………」
「それは……」
「大王はそなたの妹にたいそうご執心だ。一夜、一時で済みそうにはない。連れて帰るなら殺す勢いだ。そなたの父と王宮で会ったが、今頃は絶望しているのではないか」
桂は息をついて言葉を続けた。
「できれば実津瀬の望みを叶えて、私の望みを聞いてもらいたかったが、そうはならなかった。すまぬ」
「とんでもございません。これは私のわがままでございます。桂様のご尽力に深く感謝いたします」
実津瀬は深く頭を垂れた。
「そなたは一旦邸に帰れ。そして、王宮からの使者を待て」
実津瀬は頷いて言った。
「失礼します」
五条に戻ると、舎人の忠道がすぐに駆けつけて母屋で実言が待っていると言った。
すぐに父の部屋に行くと母の礼と向かい合って座っており、二人とも暗い顔をしていた。母の礼は涙を溜めている。
「父上……母上!」
実津瀬は父母に駆け寄り、その前に座ると実言が口を開いた。
「実津瀬は桂様から………もう、結果は聞いたのだろう」
実津瀬は頷いた。
「はい……大王は榧に執心で、帰さないと言われたと」
「そうだ……どんなに引き換えの条件のお話をしても受け入れてはいただけなかった。無理に連れ帰ろうものなら、榧は骸になっていると思えと言われた。すでに岩城家から藍が妃になっているのだから、岩城から二人も後宮に入れるわけにはいかないとも申し上げた。大王は妃にはしないが、妻の一人として大切にするから心配するなと仰って、榧に会うこともできなかった。皇太后の碧様にもお目通りを願ったが、大王の気持ちは変えられぬとの伝言のみで会うことは叶わなかった」
「それでは、榧は実由羅王子とは………」
「もう、二人の結婚はないだろう」
と実言が呻くように言った。
「実由羅王子には?」
「宗清と一緒に都に戻っている途中のはずだ。戻ってこられたらすぐにお邸に向かって、このことをお話しする」
「………こんなことになるなんて。もう榧とは会えないのかしら」
母の礼はそう言って涙を流した。
「実津瀬………お前は桂様の条件を………受けなければならない。我々の望みをあの方は誠実に実行してくださった。それは大王とお話してわかった」
「はい……もちろんです。しばらくしたらここに王宮の使者が来るかと。佐保藁の宮に来た使者が、桂様の意向を聞いて、こちらに確認に来るはずです。その時にお約束通りにお答えするつもりです」
実津瀬が言うと。
「あなた、実津瀬?何を言っているのですか?」
母の礼が困惑の表情で二人の顔を交互に見ながら言った。
「礼に話そうと思ってまだ言っていなかった。……すまない。先の大王の崩御により、伊佐の斎王が交代になる。新しい斎王は桂様にお願いすることになった。そうでなければ大王の妹の初様が行くことになるのだ。それは皇太后が望んでいない。だから、どうしても桂様に行ってもらわないといけないのだが、桂様は伊佐までの道中に実津瀬のお供をご所望なのだ。実津瀬は行く代わりに榧を帰してもらえるよう桂様から大王にお話しいただいた。………我々の願いは叶わなかったが、約束は約束だ。だから、実津瀬は伊佐に行くことになる」
「まぁ!実津瀬!それは、本当にどうにもならないの……伊佐に行くなんて」
我が子二人が図らずしも離れて行ってしまうことに母は戸惑い涙声で言った。
「母上、私は帰ってこないわけではありません。桂様を伊佐までお連れしたら、すぐにここに戻ってきます」
「本当?本当に?ここには芹と淳奈がいるのだから、必ず帰ってくるのでしょうね?」
「もちろんです。私がいるところはここにしかありません」
実津瀬は言った。
それから実津瀬が両親の部屋を出ようと庇の間に立った時に簀子縁から蓮が入って来た。
「蓮!」
典薬寮の出仕日だった蓮が帰ってきた。蓮も妹のことを案じて、大王の妃である藍に御目通りを願って、少しでも榧の状況を教えてもらおうとした。その結果を知らせようと両親の部屋に来たのだった。
実津瀬は蓮と一緒にもう一度父母の前に戻って座り、蓮の話を聞いた。
「何かわかったかい?」
実言の言葉に蓮は首を横に振った。
「典薬寮は後宮に使いをやってくれましたが、後宮から返事はないままです。藍様がというより後宮の女官たちが返事をくれないようです」
蓮は呻くように言った。
「そうか………。もしかしたら、大王が何か指示をされているのかもしれない」
実言は言った。その後蓮も父と兄の話を聞いた。
「二人ともよくやってくれたね……明日、もう一度私は大王に面会を願おう。今は待つしかない。諦めないが、待つしかない」
実言の声は家族を元気付けようとしたが、皆表情は暗かった。
「榧……榧………私が……いつものように私が行けばよかった。そうすればこんなことにならなかったのに」
蓮は憚ることなく声をあげて泣いた。耐えきれずに母の礼も咽び泣いた。男二人は無言で妻の、妹の背中をさすって慰めるしかなかった。
いくら後悔しても、もうどうしようもないことである。
女人二人が落ち着くと、実津瀬は離れの部屋に戻った。
「お帰りなさい」
芹は庇の間で縫い物をしている手を止めて、実津瀬を迎えた。
「今日は早いお帰りですね」
朝、いつものように宮廷に出仕したと思っている芹は実津瀬にそう声をかけた。
「芹……こっちに来て」
実津瀬は神妙な面持ちで奥の部屋に誘った。
向かい合って座った芹の手を、実津瀬はすぐに握った。芹は黙って実津瀬を見つめている。
「榧のことだけど………いつ帰ってこられるか……そもそも帰って来られるのかも分からない。榧が帰ってくるならと一縷の望みを託して、桂様から大王にお話いただいた。しかし、大王は誰の言葉も聞いてくださらないようだ」
「そう……」
実津瀬の言葉を聞いて、芹も蓮や母のように涙を落とした。
突然家族を攫われた悲しみは深い傷を作った。そこに、実津瀬は更なる傷を与えることを言うのだと思うと、胸がひりひりと痛み、喉仏が上下した。
「桂様に榧を返してもらうように大王にお話しいただくため、そのお願いを聞いていただく代わりに私は桂様に付き添って伊佐に行くことを承諾した」
「………あ」
榧のことで涙していた芹は実津瀬の言葉でその涙は止まり、呆然とした表情で実津瀬を見上げた。
「あなたの気持ちは昨日、聞いた。私だって行きたくない。しかし、榧を救い出せるならどんなことでも頼りたいと思ったのだ。だから、後悔はない………ただ、あなたと淳奈に申し訳ないと思っている」
芹は実津瀬の胸に両手を当てて言った。
「………私は……これ以上あなたに桂様と関わってほしくありません。あなたを佐保藁に呼びつけて、何かと相談と行って話し込む。あなたにとってあの方は王族のお仕えするべき人かもしれませんが、女の人です。私はただそれだけでも心が苦しくなるのです」
実津瀬は芹を引き寄せて抱きしめた。
「芹………すまない。………どうかお願いだ。私を信じておくれ」
夫を信じている。
実津瀬は裏切らないと信じている。全ては一族と家族のために行動していることだとわかっている。
しかし、それは実津瀬を苦しめているのではないか、と芹の中で疑念が湧くのだった。
「実津瀬様、宮廷からの使者が参っております」
庇の間の前で忠道の声がした。
「………わかった」
実津瀬は庇の間に顔を向けて返事をすると、胸の上の芹に向き直った。芹は実津瀬の襟を握って、実津瀬を見つめた。
実津瀬の目は澄んでいて、芹の疑念を疑念でしかないと言っているようだった。
このまま襟を握ってどうしようと言うのか。
宮廷の使者は伊佐行きの返事を聞きにきたのに、そこに行かせないようにしていいものか。
芹は襟を握る手の力を抜き、下に滑らせて実津瀬の胸に置いた。

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