New Romantics 第一部あなた 第ニ章15

小説 あなた

 夫沢施の館で行われる夏の宴は、心配していた天気にも恵まれて夕闇の頃には夫沢施の館に大王、大后を始め王族を迎えることができた。
 ちょうど西に赤く焼けた空が追いやられて、東の空からは濃い闇に覆われた頃、篝火の爆ぜる音の中、大王と大后が正面の席に着いた。宴を始める言葉が、太政大臣の岩城蔦高から発せられて宴は始まった。楽器の調律の音がおさまると、最初の演目である舞の演者が舞台上に表れた。実津瀬と淡路である。二人とも何度も同じ舞台を踏んでいるので、勝手知ったる仲ではあるが、大王の前となると同じように緊張していた。
 初めは、夏夜の幽玄さを感じさせるような琵琶と笛の調べに、実津瀬と淡路はゆっくりとした動作で手と足を動かした。二人の動きは狂いもなく同時である。夕闇の暗い中で二人の舞人が密に舞っているところ、準備されていた篝火に火がつけられ、ぱあっと舞台の周りが明るくなり、それを合図に曲調は変わって、軽快な調べに変わった。二人は素早い動きで留めていた糸をちぎると、胸を覆っていた衣装が腰へと落ちて、白い衣装から煌びやかな朱、金の衣装へと一瞬で変化した。大王を始めとした聴衆は、目を見開きその趣向に感嘆の息を漏らした。
 それからは、若い二人が力の限り、速い動きで同時性を保ち、音楽とも外れない舞を見せつけるように舞った。
 これまで二人の舞を見た者は、改めて魅了された。初めて観た者はまた観たいと心に秘めた。
 舞者の熱に当てられたように、楽器奏者たちは自分の持てる技量を音に乗せて演奏した。
 実津瀬と淡路の舞は最後まで聴衆の耳目を掴んで離さなかった。甲高く鳴った笛で、二人は飛び上がりって着地とともに、かき鳴らされる琵琶、太鼓と笛の調べで、この舞はもう終わるのだと分かった。
 始まりと同じように、幽玄な世界に戻るように篝火の数は減って、少ない灯りの中で二人は緩やかに動きを止めて、舞は終わった。
 聴衆の、はぁという感嘆の後に耳が痛くなるほどの拍手が湧き起こった。
 実津瀬は顔を上げて相方の淡路の方を見た。淡路も万来の拍手の中、実津瀬に顔を向けて緊張の解けた顔を見せた。二人は目を合わせて、人知れず笑った。やってやったぞという会心の笑みだった。
 二人は深々と頭を垂れて、舞台から降りて庭を通り抜け、長い簀子縁を歩いて控室になっている部屋に戻った。
「うまく舞えたな」
 淡路の言葉に、実津瀬は頷いた。蒸し暑い夜でぐっしょりと濡れた衣装を着替える。実津瀬よりも早くに着替えた淡路は舞台の下で手伝いをするからと控室を出て行った。実津瀬はまだ肌を伝う汗を拭って、汗が引くのを待った。それから、ゆっくりと下着をつけて、袍を羽織った。
 これで自分の役目は終わった。
ねぎらいの膳が目の前に出されて、それを平らげるとお役御免で邸に帰る予定だ。
 汁椀の縁に口をつけて、一口飲む。塩味が体の隅々まで伝わるような感覚がした。
 この邸のどこかに雪がいる。雪は自分の舞をどこかで見てくれただろうか。夜に篝火の明かりを大きくしたり小さくしたりといった趣向を取り入れた舞だったため、遠くからでははっきりとは見えなかったかもしれないな。
 実津瀬が食事を終えると、邸から一緒に来た自分の身の回りを手伝ってくれた従者の綾目とともに邸に帰るのだ。
 綾目も膳のお相伴に預かって、部屋の隅で食事をしていた。
「お邸の食事もたいそうおいしいですが、大王のための食事はまた格別なものですね」
 そう言って、煮魚の身を口に入れた。
「そうだね、おいしい」
 実津瀬も同じように煮魚を食べた。
 膳の上をきれいに食べ終えると、給仕をしてくれた若い侍女にお礼を言って、夫沢施の館の裏門から邸へと帰って行った。
 綾目が荷物を背負って、自分の前を歩いてくれる。
「実津瀬様、お疲れのようですね」
 首だけ後ろに向けて言った。
「そうかい?」
 実津瀬は下に落としていた視線を上げた。
「足取りが重たいような気がしますよ」
「うん、緊張がほぐれたからかな……。力が抜けたかな」
「素晴らしい舞でしたよ。端の部屋から女官たちと一緒に見ていましたけど、感嘆の溜息が漏れていましたよ」
「そう?」
「とても色白の女官が、美しいと言ってとても目を輝かせていましたよ。あまりにも褒めるので、以前にも実津瀬様の舞を見たことがある女人と思いました」
 色白の、と聞いて実津瀬は雪ではないかと思った。深夜に再び夫沢施の館で会った時には、綾目の特徴を言って綾目の言う女官が雪であるかを確認しようと思った。
 月の明かりを頼りに実津瀬は邸に帰って来た。
 戌刻(午後八時)も過ぎているので小さな子たちは眠っている。沓を脱いでいると、母の礼が玄関に出迎えに来てくれた。
「ふふふ、よい舞ができたようね」
 礼は息子の顔を笑顔で見上げた。
「わかりますか?」
「ええ、朝は真っ白だったけど、今は血色もよくて晴れ晴れとしているから」
 実津瀬は母の部屋に入って、今夜の舞の趣向や、出来を話した。礼はにっこりと笑って、聞いている。
「無事に舞終えて、嬉しいわ。今夜はしっかりと休みなさい」
 母は自分の疲れが取れるようにと、冷ました薬湯を勧められた。実津瀬はゆっくりと苦い湯を飲み干して、母の部屋を後にした。
 しっかりと休む、ということは無理なことだと実津瀬は思った。これから再び夫沢施の館に戻り、雪と会うのだ。そのことを考えると、肉体の疲れなど感じなかった。
 実津瀬は自分の部屋に入ると、侍女が入って、高灯台に火を入れて去って行った。
 実津瀬は着ている袍から下着から脱ぐと部屋の隅に置いてある水の入った盥に白布を浸けて絞り、汗を拭った。それから、下着から袍から新しいものに取り換えた。
 子刻(午前十二時)も過ぎた頃、実津瀬は部屋の前の階を下りた。
 もう夫沢施の館の宴は終わっただろう。大方の出席者たちは夜道を供とともに帰り、酔いつぶれた下級の者たちがそのまま雑魚寝をしている。後片づけをする宮廷から来た女官や舎人達が片付け終わってから、人知れず宴会を行っている。そんな中で、実津瀬は雪と夫沢施の敷地の隅にある部屋で初めて朝を共に迎えるのだ。
 女の夢を叶えたい。でも、それは自分の望みでもあった。
 蓮は衾を被って眠りに着こうとしたのだが、蒸し暑くてすぐには眠りに落ちることはできなかった。
 暑い……。
 薄い衾を蹴って、足元に追いやっても暑さ消えるわけでもなく、蓮は褥の上に起き上がった。
 真っ暗な中を手探りで妻戸まで移動して、その戸を細く開けて簀子縁に左足を出した時に、庭を遮る陰が見えた。
 こんな夜更けに庭を彷徨うなんてだあれ?
 蓮は目を凝らして陰を見つめた。月明かりに照らされた横顔は、実津瀬だった。
 実津瀬…?
 実津瀬は大王の前で舞を舞って、帰って来たはずだが……。
 蓮は音を立てないように妻戸の隙間から簀子縁に体を出して、その背中を見つめた。
 やっぱり実津瀬だわ……。こんな夜更けにどこに行こうというの?
 蓮は階の上まで出て行った。
 舞が終わって帰って来たところだろうに、どこに行こうというの?
 蓮は沓を持って階を下りた。
 実津瀬は気づくことなく裏門をくぐって外に出た。
 こんな夜更けに実津瀬は何をするつもり?
 蓮は、実津瀬に遅れまいとその背中を追った。
 今夜は月が雲にかかることもなくて、蓮は実津瀬の背中を追うことができた。
 蓮はこんな夜更けに兄が邸を抜け出して、どこに行くのだろうと訝しく思った。どこで実津瀬に声を掛けたらいいものか、と思ったが、実津瀬に追いつくことができない。その背中を見失わないようについて行くのが精一杯だ。
 蓮は実津瀬に振り向かれて、見つかった時にはそれでいいと思った。別にどこまでも後をつけて、どこに行くのかを知りたいとは思わなかった。二人で仲良くその目的地に行って、ああでもないこうでもないと話してまた邸まで戻ってきたらいいのだ。
 しかし、実津瀬は後ろをついて行く蓮に気づくことなく、一度舎人の綾目と一緒に歩いた道を逆に戻って行った。
 どこに行くのかしら?
 都の道をよく知らない蓮は、実津瀬がどこに行こうとしているのか全く分からなかった。
 実津瀬は左右は確認するのに、背後を振り向くことは一回もなかった。そして、小路の塀の続く中を歩いて行く。蓮は、ところどころ塀の途切れた小道に身を隠して、実津瀬の背中を見つめては、また塀に身を寄せて実津瀬の後を追った。
 そして、やっとのことで一つの門の前に来た。実津瀬はその門の前を見上げている。しばらく感慨深げに佇んでいたが、意を決したように門の中へと入って行った。
 邸の中に消えたのを見て、蓮は走って門の前まで来た。 
それは裏門だろうに、とても立派な門だ。どこのお邸だろうか、と蓮は考えを巡らせた。
 耳を凝らすと、中から騒がしい話し声が聞こえてくる。蓮は引き寄せられるように、門の内へと足を踏み入れた。
 思えば、こんな大きなお邸なのだから、門番がいてもおかしくないのに、その時は誰もいない……と思ったら、門の傍にある立派な木の元に男が二人、槍を放り投げて眠っていた。二人の姿は鎧をつけているから、この二人が門番だと分かった。一人の手には杯が握られており、もう一人は手から杯が離れて近くに転がっている。飲んでいる途中で眠ってしまったのか、足元には酒の肴の載った皿と倒れた徳利があった。
顔を上げた時には、蓮は実津瀬の背中を見失って慌てた。
恐る恐るもっと奥へと進むと、右手には大きな森が見えた。その先には池を配した庭があるのだと分かった。そして、奥には大きな邸がそびえ立ち、左手の奥に建つ館からは男、女関係なく話し声や食器の合わさる音が聞こえる。
 ここは……
 蓮は一つの予想を思い浮かべた。
 実津瀬が舞をした舞台、夫沢施の館ではないか……?
 であれば、実津瀬はここに舞い戻って来たのはなぜ?忘れ物でもしたのかしら?
 蓮は不思議に思いながら、一歩一歩と邸の中へと入って行った。
 忘れ物ならば、門の近くで待っていれば実津瀬がすぐに戻って来るかしら。でも、門番の男たちが目を覚ましたら嫌だし、実津瀬と一緒にいた方がいい。実津瀬はどこに行ったのだろうか。
 蓮はどちらに行けばいいかわからず、樹々の生い茂った庭の中を明るい方へと歩いて行った。樹の陰から明かりの方を見ると、目の前は池が広がり、篝火の火が水面に映って揺れているのだと分かった。池が見えるように建っている邸は、ここから見ると真っ暗である。 
 そちらに明かりがあってもおかしくないのに……
 蓮は訝しんだが、少し考えると分かった。
 ああ、実津瀬が舞った舞台が組んであるから、正面の広間が見えず、真っ暗なのだ。蓮は今池越しに舞台の裏側を見ているのだと合点が行った。
 実津瀬はどこに行ったのか?舞台の方に行ったのかと、目を凝らしてみていると、水面に映っていた火が消えたり映ったりする。そして、人の話声が聞こえた。
 蓮は耳をそばたてた。
「火の始末をしっかりとしろ。一つとも漏れのないように見てまわれ」
 その声に、低く「はい」と答える声が複数あった。そして、管理に関わる者たちが篝火の火を消しに回っている。
 急に暗くなって蓮は慌てた。知らない邸に入り込んで、どこをどう行けばいいかわからず、来た道を戻った。
 実津瀬はどこに行ったのかしら?
 蓮は庭から最初に来た裏門の近くに戻って来た。反対側は裏方が集まる場所のようだから、実津瀬には用はないだろうけど……と思ったが、こちらから母屋の中に入って行ったのかしらと、蓮は人目につかないように暗い陰の中を歩いた。右手には池をまわる道が見える。左手には母屋に付属する台所や使用人たちが待機する棟が続いて、その奥には、倉や使用人の寝泊まりする棟が連なっている。
 蓮は左手側に身を隠しては進み、隠しては進みをした。そのうち、用の済んだ実津瀬が帰ってくるのではないかと思ったのだ。

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