New Romantics 第一部あなた 第ニ章2

小説 あなた

蓮は今日も夜明けとともに起きて薬草園の中にいた。
 兄が連れて行ってくれた小高い丘から伊緒理を見送った翌日も、泣き腫らして目が開かなくても起きた。柱に足をぶつけてしまい、しばらくその場にうずくまることがあったが薬草園で作業をした。
 吹っ切れたとは思えないが、一日一日自分の気持ちを立て直している。そうしなければいけないのだ。
 薬草園から自分の部屋に戻ると、実津瀬が庇の間から簀子縁に出て来るのが見えた。
 あら、実津瀬だ。
 蓮は昨夜の実津瀬を思い出していた。実津瀬の部屋に行くと、粥を食べているところで、それを食べ終えると疲れたからと部屋を追い出された。早々に寝てしまったようだ。
 実津瀬の様子が変だ。だけど、そんな実津瀬に構ってはいられなかった。ふと気づくと、伊緒理との思い出が頭をめぐっている。それを必死に打ち消して自分の今に集中するのだ。
 父も兄も朝餉を手早く取って宮廷へと行ってしまった後、残った母の礼、蓮、榧、宗清、珊の五人で向かい合って朝餉を取った。
 母の礼は一番小さな珊の食事を手伝っている。
 珊は本家の子供である。
 珊は父の実言から見たら、兄の子、甥にあたる貞之が身分の低い娘と契った末にできた子供であった。貞之は、その娘をいたく気に入って格別の世話をしていたが、子供を産んで一年後に流行り病を患って死んでしまった。忘れ形見の娘である珊を都の外れの小さな館に祖母と暮らさせるのは可哀そうと、祖母と一緒に本家の離れに引き取った。しかし、祖母も娘の後を追うようにその一年後に亡くなってしまった。独りぼっちになった珊はなかば使用人の子供たちの間でその子供たち同然に育っていたところ、ひょんなことからこの岩城実言、礼の邸に来てその子供同然に育てられることになった。兄弟姉妹たちも小さな子が我が邸の子供になることを喜んだ。一番喜んだのは、末っ子の宗清だった。常々、兄弟が欲しいと言っていたから。
 珊もすぐに兄姉になついて、かわいがられてこの邸の子として育っている。
 食事中でもいつものようにお調子者の宗清が面白いことを言って、みんなが声を出して笑った。元気のない一番上の姉を笑わせようとしているのだろうか、と蓮は勘ぐってしまう。でも、本当にうちの兄弟姉妹たちはお互いを思いやって仲良しだと思う。
 朝餉が終わると、下の子たちは自分達の部屋に戻って行った。蓮は母と邸にいる束蕗原から来た助手たちと一緒に薬草作りや薬草の保管を手伝った。
 宮廷から帰って来た父の実言が榧と宗清に供を二人連れて、邸を出て行った。これは、父が心底お仕えしている王族の邸に行くのだ。そこには、榧と宗清の間の歳の王子がいて、王子の相手をするために行くのだ。たまに、その王子もこの邸に来られることがあり、家族皆でお仕えしている。
 一人残った珊の遊び相手を母と一緒にしていたが、人形遊びの途中で眠たくなった珊は母の膝の上に頭を載せて寝息を立て始めた。
「蓮、あなたは自分の部屋に戻っていいわよ。好きなことをなさい」
 母の礼は珊の背中を規則的に撫でて、蓮に言った。
 蓮は自分の部屋に戻って、机の前に座った。
 好きなことをしたらいい、と言われたけど、何をしようかしらと思った。すぐに、これがしたい、というものがなかったからだ。
 少し前なら、本を写すことが楽しかった。時間があれば本を写していた。いまでも、母のために本を写すが、前ほどの情熱はない。あれは、やはり伊緒理の役に立っていると思えるからこそ、楽しかったのだ。
 もう、その伊緒理はいない。何を楽しみにこの自由な時間を過ごせばいいだろうか。
 蓮はしばらく放心した。涙は出ない。
実津瀬が連れて行ってくれた丘で異国へと旅立つ一団の長い列が見えなくなった後も、蓮の頬には涙は流れた。その時、実津瀬が背中をさすりながら言った。
「もう、伊緒理のことで泣くのはおよしね。伊緒理がいなくなってからのこれからの蓮の生きる道は長いのだから。そこで流す涙まで出し切ってしまう勢いだ。これから、もっと他に涙が出ることがあるかもしれないのに。それは、辛いことばかりではないからね。嬉しい時にも涙は出るものだから」
 蓮は頷いたが、止めることのできない涙が後から後から流れ出る。
「わかった、わかったよ。ここを離れるまでは泣いてもいいから。丘を下りたら泣かないんだよ」
 実津瀬に肩を抱かれて、気が済むまで泣いた。実津瀬も何も言わずに隣に座って涙が止まるまで待ってくれた。
 だから、蓮は丘を下りてからは伊緒理のことでは泣かない。
 本を写す気になれず、蓮は立ち上がって部屋の前の階を降りた。
外に行ってこよう。
 気分を変えるために、邸を出てみようと思った。
 沓を履いて、庭を突っ切り裏口の木戸に手を掛けた時に、後ろから呼び止められた。
「蓮様!どちらに行かれるのですか?」
 振り向かなくてもその声が誰であるかわかった。家族、そして侍女の曜の次によく話をする人物である。
 蓮はくるりと振り向いて言った。
「散歩よ。鋳流巳」
 鋳流巳は声を掛けた時より三歩ほど蓮に近づいた。
「散歩?おひとりですか?」
「ええ、そのつもり」
「……私はついて行ってはいけませんか?」
「ついて来たいの?」
「はい」
 鋳流巳は間髪入れずに答えた。
「おひとりでは何かと心配です。最近では、都に周辺の民が入り込んで野宿をしているらしいので、そんな者たちに出くわしたら大変です」
 それを聞いて、蓮は納得した。
「では、お願いしていいかしら。いつも、鋳流巳が私の付き添い役でごめんなさいね」 
 鋳流巳は持っていた籠を垣の傍に置いて、蓮のために木戸を開けた。
 蓮が自分の思うように歩く後ろを鋳流巳はついて行った。
「……鋳流巳、私がどこに行くと思っている?」
「蓮様の行きたいところに行けばよいですよ。散歩なのですから」
「そう?町中を歩くのはいや。野原のような緑のたくさんある静かなところを歩きたい」
 蓮は一人ではどこに行けばいいのか決められず、鋳流巳に自分の好むところに連れて行けというのだった。鋳流巳は自分が前を歩いて都の東の外れに向かって歩いて行く間、蓮は風に吹かれて騒ぐ竹林を見上げたりして黙ってついてくる。都の外れには整備されていない野原や竹の生い茂った林があった。蓮は落ちていた長い枝を手に取るとそれを左右にブンブン振り回しながら柔らかな草の上を歩いた。その時は鋳流巳が一歩下がって歩き、蓮と歩調を合わせてその背中を見つめている。
「鋳流巳は、故郷を離れて都に来てどのくらい?」
 枝を振り回すことはやめず、蓮は首を少し後ろに向けて鋳流巳に尋ねた。
「もう五年が経ちました」
「そう、そんなに?……都に来て好きな人はできた?それとも、好きな人を故郷に置いてきたのかしら……」
「……そんなことは……」
 鋳流巳は何と答えていいかわからなかった。本当の回答は、都に来て好きな人はできたが、決して手の届く人ではない、ということだ。しかし、口にすることはできない。
「人を好きになるなんて、苦しいことね。必ずしも相手は私のことを好きとは限らないもの。そして、相思であっても、好きな相手以上に自分の命を懸けるものがある人もいるのですものね。好き合って一緒にいられれば幸せなんて、子供の考えることなのかしら……」
 蓮は体ごと振り返ってそう言った。鋳流巳は振り向いた蓮の前に立ち止まって、蓮を見下ろした。
 悲しそうな顔をしているが、泣くような素振りはない。
「鋳流巳はどう思う?」
 鋳流巳はそう訊ねられても、やはり何とも答えられなかった。
「……私は一緒にいられれば……」
 鋳流巳は口の中でごにょごにょと不明瞭に言った。
「嬉しいことも悲しいことも一緒に味わっていればいいのだと思っていたけど、違うみたい」
 蓮は再びくるりと鋳流巳に背中を見せて歩きだした。その時、蓮は草の先を踏みその草でできた輪に反対の足を入れて、躓いた。
 あっ、と蓮は思ったが、体が前に倒れて行くことが止まらない。
「蓮様!危ない」
 鋳流巳の声と共に蓮の体は一旦、止まった。
 後ろの鋳流巳が手を伸ばして必死に蓮の手を取ったからだ。鋳流巳は蓮の手を掴んだまではいいが、それを引き戻すことができなかった。自分の態勢が前に行くので、蓮も前に倒れて行く。鋳流巳はとっさに蓮の体を抱くと、そのまま自分を下にして地面に倒れた。
「……鋳流巳、大丈夫?」
 蓮は地面に激突する衝撃が少ないのは鋳流巳の胸が守ってくれたからだと分かった。倒れたまま動かない鋳流巳を心配して、蓮は体を起こし鋳流巳の顔を覗き込んだ。
 鋳流巳は蓮と目が合うと、すぐに上半身を起こした。
「蓮様はお怪我はありませんか?」
「私は大丈夫よ。あなたが、守ってくれたから……私はよく躓くのよ。実津瀬にも……」
 そこで、蓮は言葉が止まった。
 その続きはこうだ。
 実津瀬にも……伊緒理にも転ぶ寸でのところで、手を差し出されて助けてもらってきた。
 ……でも、伊緒理の助けはもうない……。
「実津瀬によく手を引っ張ってもらって助けてもらうの。あなたにもこんな目に会わせてしまうなんて」 
 蓮は跪いて、心配そうに鋳流巳の姿を見ている。鋳流巳は目にかかる髪をかき上げるのに腕をあげると、蓮が叫んだ。
「あ、鋳流巳、血が!」
 蓮は鋳流巳の腕を掴んで、その傷口を鋳流巳に見せた。そして、草の上に手をやりあたりを触っている。
「あ、ここに石があるわ。これにぶつかったのね。痛いわね」
 蓮は顔をしかめてその傷を見ている。
 裂傷はジンジンと腕全体に響いてくるのを鋳流巳は顔をしかめて我慢した。蓮はじっと血がにじむ様子を見ていたが、だんだんとその顔が腕に近づいてくるのを感じて、鋳流巳は怪我をした腕の反対の手で、怪我した腕を下ろして言った。
「痛みはないので、大丈夫です。それより、蓮様こそ怪我はありませんか?」
「ええ、私は大丈夫。あなたが守ってくれたから傷一つないわ。でも、あなたの腕は大変な傷よ。痛くないわけないわ」
 蓮は心配そうな顔をして言った。
 蓮の顔が近づいてくると感じた時、このまま腕の傷を見せていたら、蓮が腕の傷に唇をつけて吸うのではないかと思った。ざっくりと裂けた傷口から悪いものを取り出すのに、それが良いと思えばやる娘である。
 臣下一の権力者である岩城一族の娘なだけに、高慢な態度を取ることもあるが根は素直で優しい娘なので、身内が傷つけばその傷口を吸うことなど厭わない。それが、使用人であっても。
 そんなことをさせてはいけない、と鋳流巳は自分の腕を下ろしたのだ。
「大丈夫です」
 鋳流巳は傷を反対の手で覆ってそう言った。
「私の散歩につき合わせて、私が勝手に転んで、鋳流巳に怪我をさせてしまったわ……何をやっているのかしら。帰りましょう。早く、傷口を洗わなくちゃいけないわ」
 鋳流巳は自分で立ち上がった。蓮と鋳流巳は来た道を引き返した。
帰りは二人肩を並べて歩いた。蓮が鋳流巳の怪我をした左腕側に立って離れないからだ。蓮は、目に見える春の訪れを示す景色について、きれいだ美しいと言葉にした。鋳流巳は蓮が指し示す方向を見て、そうですね、本当にと相槌を返した。
 夕暮れ近くに邸の裏口の木戸に辿り着いた。そのまま蓮の部屋の前の階まで来ると、そこに立ち止まって蓮を見ている鋳流巳を怪訝に思って蓮は言った。
「どうしたの?早く上がって」
 蓮は立ち止まって蓮を見ている鋳流巳に言った。
「……いいえ」
「傷の手当てをしなくてはいけないわ。早く上がってよ。それとも、私の手当ては不安?」
 そんなふうに言われたら、鋳流巳は嫌とは言えなかった。鋳流巳としては、蓮の手を煩わせたくなかっただけだ。
 鋳流巳は黙って階を上がって来たが、それ以上は入って来ようとはしないので、蓮は部屋の隅に置いている盥と水の入った水差しを持って簀子縁に戻って来た。
「腕を出して。痛みはないと言っても水を掛けたら沁みると思うわ。我慢してね」
 鋳流巳は素直に腕を盥の上に差し出した。 蓮は胸から白布を出して盥の水に浸して、優しく鋳流巳の傷に水を垂らした。
 蓮が言ったように傷に沁みて、すました顔ではいられなかったが呻き声を出すわけにもいかず、鋳流巳は歯を食いしばった。
「痛いわね。もう少し我慢してね。今、傷口を洗っているから」
 蓮は白布を腕につけて、固まった血を洗いふき取った。
「ほら、きれいになった。今から水気を拭きとるから待ってね」
 蓮はもう一つの布で優しく傷を押さえて水気を取った。鋳流巳は丁寧な蓮の手つきをじっと見つめた。自分の腕の傷口のことなど二の次である。
「もう少しね。奥から塗り薬を取って来るから」
 蓮は立ち上がって部屋の奥へと消え、戻って来た。
「お母さま特製の塗り薬よ。切り傷なんて、これを塗っておけばすぐに治ってしまう。これも少し沁みるかしらね。でも、すぐによくなるから、我慢してね」
 蓮は真剣な顔で壺の中の塗り薬を指にとって鋳流巳の傷口に塗った。
「痛くないからね。痛くないかーらね」
 まるで子供に言い聞かせるように蓮は声の調子や節まわしを変えて唱えた。
「よく我慢しました」
 蓮は鋳流巳ににっこりと笑いかけた。
「後は、この上に布を巻くだけよ」
 清潔な長い布を腕に巻き付けて結んだ。その上に蓮は手の平を置いて、念じるように目を瞑った。しばらくして。
「本当はとても痛かったでしょう?痛くないっていうのは、嘘」
 蓮は鋳流巳を覗き込んで訊ねた。
 鋳流巳は何と答えたらいいかわからず、目尻を下げて戸惑った顔を見せざるをえなかった。
「……いいのよ。鋳流巳は私を思って言ってくれたこととわかっているから。私を心配させないように嘘をついてくれたのでしょう。ありがとう」
 鋳流巳は返す言葉もなく階を降りて行った。
 蓮が簀子縁に立って鋳流巳を見送っている。庭を突っ切って樹の陰に来た時、鋳流巳は振り返った。蓮はもう背中を向けて部屋の中へと入って行こうとしていた。

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