New Romantics 第一部あなた 第ニ章22

小説 あなた

 階下で男の叫び声がした。
 実津瀬は一度、雪の胸から顔を上げた。
 自分を追いかけている男たちが扉の前にいたはずだが、叫び声が上がるとは仲間割れでも起こったのだろうか?
 じきに男たちがこの倉の中をくまなく探して、実津瀬が隠れているこの場所を探し当てるだろう。雪を助けるためなら最後まで諦めない気持ちを持っていたが、今はもう、どうでもいい。こんな酷い目に会わせて死なせてしまった。雪のいない日々をどうやって生きていくのか。自分の命もどうなってもいい気持ちだ。
 実津瀬は天井近くにある窓を見上げた。山の稜線が白く浮き上がって見える。待ちに待った夜明けが来たというのに、虚しさに征服されてしまった。
 だから、自分の頭上に影が差し掛かっても実津瀬は気づかなかった。抱いた雪の胸に突っ伏し、なるようになれと見つかるその時を待っていた。
「……実津瀬……」
 実津瀬は自分の名を呼ばれて、確かに聞こえたのだが、すぐに顔を上げることができなかった。それは、その声の主がなぜ、ここにいるのかわからないからだ。
 混乱した頭のまま、ようやく顔を上げると、声の主の顔は影になって表情は見えなかった。
「実津瀬……その女人をかしなさい」
 父の手が伸びて、雪の手首を取った。
「嫌です。渡しません」
 実津瀬は雪を胸に抱え込むようにして抱き直し、父の手に抗った。
「だめだ……この女人とお前は一緒にいてはいけないのだ」
 そう言って、父の手は実津瀬の肩を掴んだ。
「実津瀬……その女人は敵の一味だ。だから、これまでだよ」
 父は跪いて実津瀬と顔を合わせて見つめた。
「お前が愛した女人なのだろう。敵だといっても、ひどいことはしない。きちんと弔いをする」
 父に肩を圧されて、実津瀬は力を抜いた。
 父が再び雪の手を持ったので、実津瀬は力を込めて雪の体を抱き締めて、もう一度その死に顔を見た。
 真っ白な顔。体には傷をつけたが顔は無傷だ。もう自らの力では開くことない閉じられた目。ものを言わぬ唇はいつも紅く魅惑的に実津瀬を誘ったが今は色も抜けて白い。でも、苦しそうに歪んだ表情ではない。これは安らかな死に顔と言うのだろうか。
「胸に刻んだかい。……こちらに」
 父は雪の手を引っ張って体を起こし、腕に抱いて実津瀬が隠れている箱と箱の間から脱け出した。そして、待っていた護衛の男に引き渡した。
 実津瀬はぼんやりとその様子を眺めていた。
 雪……遠くに行ってしまう……。
今夜、私は何をしていたのだろう?

 男の叫び声が聞こえた。
 蓮は景之亮の言いつけ通り、木の茂みに身を隠していたがこの声にははっと顔を上げ、身を乗り出した。
 鷹取様の声ではなかった……。決着は着いたのかしら。
 蓮は景之亮から引き離された大木の元まで出て行きたい。そして、そこから景之亮の様子を見たいと思った。
 蓮は四つん這いになって大木の陰に身を寄せた。
 そこに、足音とともに人影が差した。
 ああ、鷹取様が迎えてきてくださったのかしら……。
 蓮は期待を込めて顔を上げると、そこには知らない男がこちらを見下ろしていた。

 景之亮は内心焦っていた。
 見逃した男と蓮が鉢合わせするなんて予想もしていなかった。自分の浅い読みに腹を立てながら、蓮を投げた場所まで戻った。
「蓮殿!」
 景之亮は大木を右に入って低木の広がる場所を見ると、男とともに蓮が振り返った。
 顎の下に男の腕が入って首を絞められるような恰好で、低木の奥へと引きずられて行くところだった。
「その女人を放せ!」
 景之亮は怒気に満ちた声を腹から発した。
 一度収めた血濡れた剣を抜き出し、構えた。
 男は返事をしないし、景之亮の言葉に従いもしない。
 先ほど、見逃してやると言ったことを後悔した。こうも早く前言撤回である。
「もう一度言う、その女人を放せ」
 男は捕まえている女人が何者であるかをわかっていないだろうが景之亮が来たことで、何かしらこちらにとって大切な女人であると感じ取ったようだ。この腕の中の女を使えば勝機があると考えて不気味に笑っている。
 自分の前に蓮の体を持って来て、その前に剣を突き出して景之亮に構えた。
 景之亮は素早く動き、男の剣を持つ手を掴んだ。お互いに剣を持ったままであり、男の腕の中には蓮がいる。景之亮は蓮を傷つけないように慎重に動く中にも、男の手に強い攻撃を与える。
 男は剣を奪われまいと剣を握る右手を守るために、左の手で剣の握る手を覆おうとする。景之亮はその手に指をかけて、剥がそうとする。男たちは激しい息遣いで、指を取り合った。
 蓮は男に体をがっちりと抱かれて、自分を挟んで二本の剣が行ったり来たりするのを黙って見ているだけだ。男たちは「ああっ!」「うおぉぉ!」とうなり声を上げてどちらがその手を取るかの攻防をしている。男たちの動きによって、蓮の体も右にいったり左にいったり激しく動く。
 景之亮に加勢したいがどうすることもできず、蓮は息を止めて二人の男の間で祈った。
 体格では景之亮の方が勝っている。景之亮の大きな指が男の手のひらの中に入り、こじ開ける。すると男の蓮を抱く力が弱まり、蓮の体が自由になった。そこを景之亮は剣を持った手で蓮の腕を掴んで引き寄せた。男から遠ざけるように背後に隠した。
 男は振り上げ剣を下ろした。景之亮は後ずさりながら、左腕を上げてその剣を受けた。
 連にも敵の男の持つ剣が振り下ろされ、景之亮の上げた腕が受けたのが見えた。
 ああ、腕が切られてしまう!と両手で口を押えた。
 目の前を赤いものが飛び散った。
 景之亮は一回転して蓮の体を左手に抱くと同時に剣を下から上へと振り上げ、男の剣を跳ね上げた。渾身の力を込めたため、男は剣を放してしまった。男は自分の手を放れて宙に舞う剣を目で追ったが、景之亮にはその行方など関係ない。右足を一歩出し、自分の手にある剣で男の胸を突いた。
 男の絶叫があたりに響いた。
 景之亮は左手をまさぐり、蓮の頭に手を置くと自分の胸に押し付けた。
「見ないよう……目を瞑って」
 蓮は運よく、男に背を向けていたから景之亮が男を刺したところを見なくて済んだ。でも、景之亮の手が、その胸が蓮を包み込み、恐怖が鎮まっていくのを感じた。
 男の呻き声が絶えない。
 景之亮は、一刻も早くこの場を離れるために剣を鞘に納めると歩き出した。蓮は宙に浮いているような気持ちだ。足を動かさずとも移動している。実際は景之亮が片腕だけで蓮を抱えて進んでいるのだった。
 男の呻き声から大部離れたところで、景之亮は蓮を抱く腕の力を緩めて、蓮の足を地面に置いた。
「落ち着きましたか?」
 蓮の頭上から声がした。蓮は自ら景之亮から離れた。
「鷹取様……」
 そこで言葉が止まったので、景之亮は心配になり、蓮の顔を覗き込んだ。
「……お父さまが見込んだだけの人ですね。とても、お強い……」
 そう言うと蓮が顔を上げた。覗き込んでいた景之亮の顔に近づいて、景之亮は顔だけ後ろに引いた。
「……ああ、腕に傷を!血が!」
 蓮は思い出して、景之亮の左手首を持った。
「これは……大丈夫。深くはない」
「ええ、大丈夫でしょうとも!男の人はそう言うわ。でも、実際は違うのです。傷口がこれ以上開かないようにしなくては、どこかに落ち着いて、布を巻きましょう」
 今度は蓮が景之亮の体を捉まえて放さない。景之亮と蓮は裏門まで歩いた。
「ここで」
 景之亮が夫沢施の館の裏門まで来ると立ち止まった。蓮は景之亮を石段に座らせて、自分も傍に跪いた。
「腰に水筒をお持ちなのね。どうぞ、喉を潤して。戦いで喉が渇いていいらっしゃるでしょう」
 そう言って腰の水筒を取ると栓を抜いて、景之亮の右手に握らせた。景之亮が水筒から水を飲んでいる間に、蓮は景之亮の左袖をまくり上げて傷口を見た。
「本当に、そこまで深くないよう。でも、傷を甘く見てはいけません。邸に帰って薬を塗らなくては」
 蓮は胸から白布を出して、裂けた肌を覆い、腰から紐を一本取ってそれで白布を留めた。
 手際のよい所作に景之亮はしばし見とれていた。
「呻き声もありませんでしたけど、痛くありませんか?」
「ああ…少しの痛みはありますが、蓮殿の手際の良さに感心していたので、声を出す間がありませんでした」
 蓮は笑みをこぼした。
「喉は潤いましたか?邸に帰って鷹取様を手当しなくてはいけません。私と一緒に邸まで帰ってもらえますか」
 蓮の言葉に。
「もちろんです。あなたをお邸まで帰すのが私の役目ですよ」 
 景之亮が答えて立ち上がると、右手を差し出した。
 蓮はその手につかまって立ち上がった。

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