New Romantics 第一部あなた 第一章4

紅葉 小説 あなた

 長く続く簀子縁を歩いてその角を曲がると、伊緒理の部屋の入り口につく。蓮はその入り口に近づくと、胸が痛くなる。これは嫌な痛みではない、嬉しさの伴う痛み。
 蓮は角を曲がって、顔を上げた。
「ああ、蓮」
 庇の間から簀子縁に出てきた伊緒理が蓮を見て近寄ってきた。
 蓮は鋳流巳が持ってくれた薬草の入った包みを、案内の舎人から受け取り、伊緒理の前に立った。
「待たせたみたいだね。すまなかった」
 伊緒理に言われて、その前に立った蓮は肩をすぼめて小さくなった。
「待ったなんて、ちっともよ。お庭を見ていたらすぐだったわ……お客さま…は帰られたの」
「お客といっても、妹だよ。母違いのね。父は妹たちと仲良くしてほしいらしいのだ。だから、時折、ここを訪ねて来るのだよ」
「……そう……」
「さ、こっちだ」
 伊緒理が蓮を庇の間から部屋の中に導いた。几帳の中には、蓮のため……いや、先ほどまで妹君が座っていたかもしれない円座が二つ敷かれていた。
「君を迎えるのに、急いでこの場を作らせたのだ。迎えに出るので、几帳にぶつかってしまって先ほど直したのだけど、位置がおかしいかな」
 蓮がじっと几帳を見ているので伊緒理が言った。伊緒理と妹君はこの場で会っていたわけではないと知って、蓮は嬉しくなった。
「いいえ、何でもないわ。それより、これを、本の写しを……どうぞ」
 蓮は邸からずっと胸に抱えてきた包みの中の本の写しを差し出した。
「……蓮……君は人が悪いな……。自分の時間を使って、こんなに素晴らしいものを作ってくれていたのに、それをおくびにも出さずにいるなんて。私は今までそれを知らずにいたのが恥ずかしいよ」
 伊緒理は蓮が差し出した本を掴んだが、蓮もその本を離さなかったので、二人は本を介して繋がった。そして、伊緒理は円座の上に座るように膝を折った。蓮も一緒に腰を下ろした。そこで蓮は本から手を離した。
「……恩着せがましいことはしたくないわ……私が好きでやっていることですもの。筆の練習と薬の知識を得るのにも役立っているのよ」
「そうかもしれないけど、書いたものは私の元に来て君の手元には残らない。得をしているのは私なのに」
 伊緒理は申し訳なさそうに言った。蓮はいいの、と首を振ってそこでその話は一旦終わった。母の礼に渡された薬草を一つ一つ見て、どのような症状の時に使うか書かれたものと照合する作業を二人でした。それが終わった時に、伊緒理が言った。
「蓮……まだ、時間はあるかい?……よければ、庭を見て行かないか?」 
「ええ、もちろんよ」
 蓮に断る理由はなかった。何度も首を縦に振る様子に伊緒理はくすり、と笑った。
「礼様や束蕗原の去様の薬草園に比べたら全く小さくて貧弱な薬草園なのだけど、私が子どもの頃から作ってきた薬草園なので見て行って。あと、庭の風景を見せたいんだ」
 それは、初めてのことだった。今まで、何度も母の使いで伊緒理のこの邸を訪れていたが、薬草園や庭に案内されたことはなかった。
 蓮は伊緒理の後ろについて、部屋の前の階を下りて、用意された沓を履くと、伊緒理に導かれて草木の鬱蒼とする庭の中を歩いた。
「足元に気を付けて。少し暗いけど、ここを抜ければ空が見えるからね」
 優しい言葉とともに、伊緒理は後ろ手に手を差し出し、蓮の手を捕まえた。蓮は握られた手に意識が集中して、伊緒理が言っていることは聞いているが、心に留まっていない。暗い中を歩いていたら、いきなり明るくなった。邸の屋根が左右に張り出しているのと植物の蔓に覆われた先を抜けたのだ。蓮は空が真上に広がっていることに気づいた。
「蓮、こっちだ」
 そう言って伊緒理は蓮の手を引っ張った。蓮は勢い余って伊緒理の体にぶつかりそうになるのを、つま先で踏ん張って伊緒理が指し示す方を見た。
 手前には薬草園があり、背の低い草木が植えられていて、その向こうには背の高い木々が立ち並んでいた。薬になる木、生活に役立つ木、見て楽しめる木と様々にある。奥の庭の樹々は秋の紅葉の時期を迎えて、燃えるように照り映えて遠目にも美しかった。
「まあ……」
 蓮はその光景に口を開けたまま見つめた。
 待っている間に見ていた庭も美しいと思っていたが、それ以上の光景があった。
「日が西に傾く少しの時間、この燃えるような赤や黄色の葉が私に降り注いでくるのを見ているのが心安らぐのだよ」
 薬草園の周りをめぐる細い道を蓮と縦になって進み、赤く染まった木々の傍まで行った。
「薬草園も、いろいろなものを育てているのね」
「……やはり、蓮は礼様の傍でいろいろなものを見聞きしているから、わかるね。子供の頃に礼様がこれは育て易いからと、分けてくださったものを少しずつ育てて、種類を増やしたのだよ。それでも、やはり去様や礼様の園に比べたら見劣りするね。しかし、私にはかわいくてたまらない園だ。これがあるからこの邸を離れられないよ」
 そして、その赤や黄の葉が何重にも重なった樹々の先には池があり、池の中に島の上に四阿が建っていた。
「おいで、あそこからの景色も格別だ」
 伊緒理は島に渡る置石の上を飛んだ。足元の心もとない蓮を気遣って、手を握って、一歩一歩置石を越えて、四阿に入った。屋根だけがついた質素なものだが、四方が見渡せて、池の水面に秋の燃える木の葉が映って、全方位赤に染まった中にいる。
 蓮はぐるりと燃え盛る赤い景色を見回した。
「実言様のお邸の庭はこんなものの比ではないかもしれないけど、ここはここで鄙びた風情で質素な美しさがあってよいと思う。私のために本を写してくれた蓮に見せたかった景色だよ。どうかな?」
「……ええ、ええ、とても美しくて、感激しているわ。……お父さまは、庭をどのように美しく見せるかなんて全く分からないから、こんな趣のある庭なんて造れないわ」
「ああ、娘の君にかかっては、実言様も形無しだな」
「うちは庭の池は広いけど、このように水面に色を写すなんてことは考えていないもの」
「そうなの?なら、君に見せられてよかった。君が払ってくれた労力に比べたら、これはささやかなものだね」
「まあ、何を言うの。とても嬉しいわ」
 蓮はそう言って、顔を満面の笑みで埋めた。
「次はいつ会えるだろうか。その時にはまた感謝の気持ちを伝えたいよ」
 伊緒理は言って笑った、
 蓮はその笑顔を見ると心が締め付けられて、苦しくもあり爆発するほどの喜びも感じた。
「いつでも会えるわ。同じ都に住んでいるのですもの」
「そうだね、でも遠い」
 と伊緒理は言った。
「陽もだいぶ沈んだ。君を返さなくてはいけない」 
 伊緒理と蓮は四阿を出た。来た時と同じように、置石の上を渡る時は蓮の手を取った。蓮はふらつく体を伊緒理の力強い手で支えてもらって渡ると、思い出したように尋ねた。
「妹君はどのような御用があったの?お薬でも必要になられた?」
 伊緒理は手を離すと、ふっと笑った。
「誰も薬など必要ないさ。私に聞いてもらいたいことがあると言って訪ねてきたのだよ。急にね」
「まあ、仲良しなのね」
「君たち兄弟姉妹に比べたら、とっても薄い関係さ」
「でも、話を聞いてあげるなんて、よいお兄様」
「……それがね、妹は有馬王子のお妃候補に推されているらしいのだよ。そのことで、話を聞いてほしいとね」
「有馬王子の……」
 有馬王子とは先王の第三王子である。その母君は蓮の父である実言とは従姉妹の関係で、蓮は幼いころに母と実津瀬と一緒に後宮に有馬王子の母君に会うために行き、有馬王子と遊んだ記憶がある。
「そうなんだよ」
「お妃さま候補なんて、お美しい方なのね……」
「容姿だけでもない…家柄も関係することだからね…それを言ったら蓮だってお妃候補だ。有馬王子は岩城の血の濃い方だから、再び岩城家からお妃を出すことも考えられる。歳も近いし、君にその期待がかかる可能性があるかもしれないよ」
「そんなこと……ないわ」
 蓮は急いで否定した。そんなことになったら、子供の頃からの夢がかなわなくなる。
 伊緒理の妻になること。蓮が伊緒理と出会ってから思い続けている将来の夢だ。
「王子と年ごろの近い女人は、周りの思惑に翻弄されることになる。しかし、妃になることもそれは幸せの一つかもしれない」
 伊緒理は言って、薬草園から邸に続く道に入る時に、先に蓮を通した。垣につけていた扉を閉めていると、突然蓮が声を上げた。
「きゃあ!」
 伊緒理は驚いて、振り向いた。
 枸杞の枝の棘が蓮の綺麗に結い上げた髪に絡みついて離さないのだった。
「蓮、止まって、動いてはダメだ」
 伊緒理の言葉に蓮は前に体を進めようとしていた動きを止めた。
「ああ、君がせっかく綺麗に結い上げていた髪がぐしゃぐしゃだ」
 伊緒理は駆け寄って、枸杞の枝を持った。
「少し待ってね。今、絡まった髪から枝を離すから」
 蓮は少し後ろを振り返って、すぐ傍に立つ伊緒理を見た。棘のある枝を掴んで優しく髪から離そうとしている。
「伊緒理、棘が……」
「薬になる草木には棘のあるものもある。慣れっこだよ。それより、髪が絡まってしまって…。もうちょっと近くによって」
 伊緒理に言われて、蓮は伊緒理に近づいて横から伊緒理の胸に寄り添った。
「もう少し待って、あと少しだから」
 伊緒理は懸命に髪から枝を解きほぐして離した。
「ああ、やっと、離れた。……でも、髪が解けてしまった」
 一つに束ねて高く上げていた髪は右肩に落ちて垂れ下がった。
「いいのよ。すぐに結えるわ。それより伊緒理の手が」
 棘が刺さって小さな球体になった血が見えた。
「大丈夫だよ。手の皮は厚いから、ひどい傷ではない」
 そこで、秋の冷たい風が強く吹いた。蓮は身を小さくして震えた。
 伊緒理はその様子を見ると、蓮の前に立ちはだかり自然と蓮の体に腕を回した。
「寒いね。さ、邸の中に入ろう」
 それは一瞬だったが、蓮の体は温かくなった。先を行く伊緒理について邸に戻り、侍女に手伝ってもらって簡単に髪を上に結い直した。
「時間を取らせてしまった。こんなに君を引き留めて礼様を心配させてしまうね」
 簀子縁まで一緒に出た伊緒理は言った。
「いいえ。お母さまは伊緒理のことをとても信頼しているから、何も心配していないわ」
「そんなに信頼されているの?」
 伊緒理は頭を掻きながら言った。
 蓮は信頼から外れることと言ったらどんなことだろう、と思った。蓮をどこかに連れ去ってしまうような暴挙だろうかと想像した。それは、母を心配させるだろうが、蓮にとっては伊緒理と一緒ならどこに連れていかれても構わない気持ちだった。
「君の筆跡は好きだ。でも、私のために時間を取らせたくない。無理はしないでね」
 伊緒理は言って蓮を見送った。
 蓮は名残惜しそうに伊緒理を振りかえって、寂し気に笑って簀子縁の角を曲がった。

 随分と待たされた鋳流巳は、遠くからトントンと軽快な足音が聞こえてきて顔を上げた。案の定、蓮が現れた。
「鋳流巳、待たせたわね」
 蓮は鋳流巳を見ると小走りに駆け寄った。
 鋳流巳は待っていない、というように首を横に振って簀子縁まで出て蓮を出迎えた。
「陽も沈んできましたから、家路を急ぎましょう」
 鋳流巳は言うと、蓮は頷いて椎葉家別邸の門をくぐって二人で家路を急いだ。
 蓮を背中で庇い、時に後ろを歩いて背後を守って岩城の邸にたどり着いたときには陽はとっぷりと暮れていた。
 蓮を玄関の三和土にあげる時に手を添えて支えていると、蓮の結った髪が鋳流巳の顔に近づいた。
 小さな変化であるが鋳流巳にとってそれは大きなものだった。結い上げた髪を留める櫛の位置が行きとは少し下がっている気がした。そして、きれいに揃っていた髪の曲がりは、短い毛が飛び出ていて明らかに乱れていた。
 いつもより長く待たされていた間、蓮はあの邸の主と何をしていたのだろうか。いつもなら、持って来た薬草を渡して少しばかり話をして終わりのはずなのに、今日はとても時間がかかったのは二人で何かいつもと違うことをしていたのか。髪が乱れて結い直すような何かを…。
 しかし、鋳流巳はその真偽を確かめる術を持たなかった。
 自分の前を通り過ぎていく蓮を見送り、その背中にじっと視線を送るのだった。

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