雪が言った明後日のその日、実津瀬は雪と会うということが決まっているだけだというのに、変に体に力が入ってしまう。意識しなければ、右手右足を同時に出して歩いてしまいそうになる。
女人に心を囚われるとこんなことになってしまうのか、と実津瀬は内心自分に驚いていた。
「あれ、早いね」
実津瀬が朝餉を食べているところに父の実言が現れた。
「今日から、束蕗原に行ってくるよ。邸のことは忠道に任せているからね」
そう言い置いて自分の部屋へと戻って行った。その足音は心なしか軽い。よっぽど妻の、実津瀬にとっては母だが、礼に会うことが楽しみなのだ。
父は稀有な部類の男で、愛する女人は妻一人としている。世間は嘘だと思っているが、子供である実津瀬たちはわかっている。父は母だけを思っている。母に捨てられるのを恐れているのがわかるのだ。岩城一族を支えている非情な男は、妻を奪われればたちまちふにゃふにゃになって使い物にならないだろう。
「お気をつけて」
と実津瀬は父の背中に言った。
普段の生活のはずなのに、どこか上の空である。塾に行って岩城本家の稲生と鷹野と一緒に講義を聞いていたが、講義が終わって鷹野に声を掛けられてもすぐには気づかなかった。
「今日の実津瀬はぼんやりだ。寝てないのか?」
そう言われて実津瀬は慌てて首を振った。
「これから舞の練習かい?毎日精が出るね」
舞や笛にそれほど興味のない二人はそう言って、岩城本家の邸に帰って行った。実津瀬は一人、宮廷の隅にある稽古場に続く石畳を歩く。二日前に雪と出会った時刻とほぼ同じだ。あの柱が見えたが、雪の姿はなかった。
やはり、雪はああは言ったものの、実津瀬との仲をこれ以上にしたいと思っているわけではないのかもしれない。心変わりをしたのだろうか…。
実津瀬は約束の柱に背中を預けて、今朝目が覚めた時から心が躍るような気持ちでいたのは自分だけで、待ちぼうけをすることになるのかとぼんやりと空を眺めた。
そこに土を踏む小さな音がして、椿の樹の陰から雪が現れた。
「雪」
「実津瀬様……来てくださったのですね」
「……もちろんだ……」
「早く来てしまいました。待っている間、もしかしたらあなた様は来てくださらないかもと不安になってしまって。あなた様の足音が聞こえても気持ちを整えるのに少し時間がかかりました。だから、すぐには出て来られませんでした」
雪は実津瀬の前に立った。
いつもより質素な服を身にまとった姿で今日は仕事が非番と悟った。
「お庭をお見せしたい。宮廷の大きなお庭には多くの人が知らない美しい場所があります」
実津瀬は石畳を外れて雪の隣に立つと、雪は背中を向けて庭の奥へと入って行った。実津瀬はその背中に従った。
肩を並べて歩きながら雪は自分のことを話した。
雪の生まれは、都から東の方角にある土地で、そこの豪族の娘だという。叔母が宮廷で働いていた伝手で、自分も十五の時に都に来て、宮廷の小間使いになった。
雪の叔母はある程度の身分の男の妻になり、姪の宮廷での地位を上げることに口添えした。
「だから、私は何とか宮廷の女官として生活できていますわ。今は、お妃さまたちの食事や身の回りの準備をする係をしています」
雪は笑って言った。
雪の器量であれば近いうちに宮廷に勤める役人や貴族に見初められて、結婚するのではないか、と実津瀬は想像した。
「生まれ故郷では、みんなで歌ったり踊ったりと楽しんでいたけれど、都の、宮廷の、大王にお見せする音楽は舞は素晴らしかった。それを見て私は取りつかれたのです。あなた様の舞も同じ」
「そんなに褒めてもらえて、嬉しいけれど、私はやはりまだまだ未熟です」
「そうでしょうか。私はあなた様の舞が好きなのです」
そう言って、雪はにっこりと笑った。
宮廷の庭に不案内な実津瀬は、今が見頃と咲き誇っている紅梅白梅などの様々な梅の花を眺めて、その匂いを嗅ぎ、雪の身の上を聞いていたが、どこまで歩いていくのだろうと思った。
「歩き疲れましたか?」
雪は振り返って問うた。実津瀬が首を振ると。
「そうですわね。あんなに激しい舞を踊られるのですもの」
と言った。
「でも、私は少し休みとうございます。この先を抜けると宮廷に仕える者たちの館がありますので、そちらで休みませんか」
実津瀬はそれが良いとも悪いとも言えずに、雪の後ろをついて行った。
雪が言ったように庭を抜けると、宮廷内の使用人の居住地区に出たようだった。
「人の入れ替わりが激しいですから、部屋は一杯になる時もあれば、すかすかに空いているときもあります。今は空いている部屋が多くて、私たちが休むにはちょうどいいですわ」
雪は近くの階から簀子縁に上がり、妻戸を押した。
きぃと高い音をさせて妻戸は開いた。するりと細く開いた戸の内側に雪は入った。実津瀬は雪が入った幅では狭くて、さらに高い大きな音をさせて戸を大きく開けた。入ると背中で妻戸を閉めた。
暗い、と部屋の中に入った実津瀬は思ったが目が慣れると、障子から薄い陽の光が入っていて、雪の顔が良く見えた。
囲われた狭い空間に入った途端に、実津瀬は雪の手を取ってその腕の中に入れた。
ふふっと雪は笑った。
「嬉しい」
雪は言って、実津瀬の脇の下から腕を回し、胸に頬をつけてその背中を抱いた。
「……明後日と言われて、その日から今日が待ち遠しかった。私は……あなたのことが」
そう続ける実津瀬に、雪は実津瀬の胸から顔を上げて背伸びをすると、実津瀬の唇を塞いだ。
押し付けただけの唇はすぐに離れた。
「おっしゃらなくても、伝わりました……私と同じ気持ちでいてくださった」
雪が言うと、実津瀬は体の内側から震えるほどの気持ちに、立っていられなくなった。その場に雪としゃがむと、床に押し倒した。
雪を見下ろしていると、何かのまじないにかかったように雪の腰に跨り、その上半身を抱き起こしてその唇を貪るように吸った。しかし、それは実津瀬だけの欲情ではなかった。雪も実津瀬の気持ちに応えた。実津瀬は夢中で雪と唇を吸い合った。
どうして雪は裸でいるのだっけ。
腕の中にいる雪が何も纏っていないのはなぜだ、と改めて思う。
頭の中が真っ白になって、考えることをやめた。
この部屋で雪を押し倒した後は、自分の欲望のままに手が指が動いた。指を交互に入れて絡めて握り合った。自分の身を下にして、雪を載せて体を抱いた。
今日は二月のまだ寒い日だというのに、衣服を纏った雪の体を抱いて温かいと思っていたのに、気がつけば雪を裸にしていた。
雪が裸になったのではなく、雪を裸にしたのだ。自分が。
実津瀬は自分の行動をゆっくりと思い返す。
固く指と指とを交互に絡めて握り合っていたのに、それからどうして雪が全裸になっているのか。……握り合っていた手の反対の手が雪の導きによって雪の腰の帯の端を握った。ああ、その端を取って、引いたのだ。帯が解けてそれから、きっちりと詰められていた単衣の合わせ目が緩んで、雪の胸の前がはだけた。
それを見た自分は雪と絡めていた指を離して、その単衣の下へと手を滑り込ませて、直に雪の素肌を触って愛しんだ。
実津瀬が手を雪の背中に回して抱き上げた時に、単衣は雪の肩を滑り落ちて上半身を露わにした。雪は自ら袖から腕を抜いて纏わぬ体を実津瀬に沿わせた。腕を実津瀬の首に回して、その視線を自分へと向けて見つめ合った。
白い息が二人の口からもれて、それを吸い込むように唇を合わせた。
帯を解いた雪の裳は実津瀬が自分の膝の上に雪の体を載せた時に雪と実津瀬の手によって脱がされた。
全裸になった雪は実津瀬の右太腿の上に載って、実津瀬の腰の帯に手を掛けた。袍の前を留めていた結びも解いて、実津瀬の胸をはだけさせる。上着に包まれていた肌はむき出しになって寒さを感じたが、すぐに雪は自分の素肌を合わせた。
「温かい……。実津瀬様の体……」
実津瀬は雪の体を引き寄せて深く抱いた。
あなたの体はもっと温かい、唇も首筋も、乳房も、そして腹も。
実津瀬は唇と手で雪の体を確かめた。雪を膝立ちにさせて、実津瀬も腰を浮かせたときに、実津瀬は袴を脱いだ。雪の着ていた袍や領巾、裳の上に雪の体を横たえらせて、実津瀬はその上に覆い被さった。
雪との交わりが終わって実津瀬は自分の体を起こした。雪は寝たままでじっとしている。
障子から夕暮れの光が入ってきて雪の白い体を浮き上がらせた。
先ほどまで触れていた柔らかい肌は、眩いばかりの白い光を放っている。紅梅のような色の小さな乳首がついた大きな乳房が呼吸で少し動いている。
「そんなにじっと見られては恥かしいです」
雪は実津瀬の視線を感じ取って、そう言うと体を起こして、胸を隠すために長い髪を背中から胸の前に垂らして、くるりと実津瀬に背中を向けた。
向けた背中が何もない姿で晒すことになった。先ほどまで組み敷いていた体の華奢さを目の当たりにして、たまらなく愛しくなって実津瀬は雪を背後から引き寄せた。
「……雪」
実津瀬はその名を言うと、雪は顔だけ振り向いた。
そこに雪の唇があったから……と言ったら、なんと短絡的な理由、と言われそうだが、実津瀬は雪の近づく唇を迎えに行って吸った。
今日、何度目の接吻だろうか。
飽きることはない。何度吸っても、実津瀬は高揚する気持ちが沸き上がる。
雪は実津瀬の腕に捕まって、実津瀬が放した唇から言葉を発した。
「優しい実津瀬様……私を天にも昇る気持ちにさせてくださいました」
実津瀬は急に恥ずかしくなって、雪の体を抱く力を抜いた。
「実津瀬様、来た道を覚えていますか?身なりを整えて先に部屋を出てくださいませ」
雪は散らばった単衣や袍を引き寄せて、実津瀬の肩に掛けた。
「あなたは……」
「私はあなた様にしていただいたことを思い返しながらゆっくりと服を身に着けたいです。何一つ忘れたくないですから。その後、自分の部屋へと戻ります」
「……私もここでのあなたとのこと、全て覚えている」
「これが最後などとは言わないで……。私はまたあなた様に会いたいですわ」
雪は羽織っただけの袍の上から自分の腕を抱いて、絞り出すように言って下を向いた。
「私もだ……。これが最後とは言わない」
実津瀬は膝でにじり寄って雪を抱き寄せた。
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