New Romantics 第一部あなた 第一章13

小説 あなた

「実津瀬!」
 今、この邸にいるはずのない人の声がして、実津瀬は寝転がっていた体を起こした。
 二日続けて塾を休むのは良くないと、実津瀬は早朝に宮廷の見習いの仕事の後、塾に行った。
 昨日、真面目な実津瀬が来なかったこと心配してか、多くの人から声を掛けられた。嘘の言い訳を言って実津瀬は稲生と鷹野の後ろの席に座って講義を聞いた。それから、いつものように舞の練習に行くと言って別れたが、実際には稽古場には行かなかった。
 稽古場へ続く石畳の回廊が雪と出会う道であるが、雪に会うからこそ恐ろしくてその石畳を歩く気にならなかった。
 会いたい。でも、会ったら会ったでどのような顔したら、どのような態度を取ったらいいかわからず、気まずい思いになるとしか思えなかった。
 だから、そのまま踵を返して邸に帰って来たのだ。
 そして、何もする気が起きずに寝ているところに、なぜか妹の蓮の声がする。驚いて飛び起きると、ちょうど蓮が簀子縁から庇の間に飛び込んできた。
「実津瀬!」
 蓮はにこにこと笑って、あっけに取られている兄を見下ろした。
「……蓮。まだ束蕗原にいる予定では?……お母さまや、榧たちも帰って来たの?」
「いいえ、私だけよ。実津瀬が寂しがっていると思って、お父様と一緒に帰って来たの」
 実津瀬が胡坐で座り直すと、蓮はその隣にぴったりとくっついて座った。
「舞の練習には行かなくていいの?体の具合が悪いの?」
 妹の顔が近くに来て、心配そうにのぞき込んできた。
「ああ、少し、寒気がして、鼻水も出るし……昨日、今日と休んでいるんだ」
 と言って大げさに鼻をすすった。
「まあ、お母さまがいない時に風邪を引くなんて!」
 蓮は真面目な顔で実津瀬の額に手を当てようとする。
「だいぶ良くなったから、心配いらないよ」
 実津瀬は蓮の腕を握って、手を額に置かせないようにした。
「あら、本当?でも、なんだか、熱っぽい感じね」
 蓮は無理に実津瀬の額に触ろうとせず、座り直した。
「後で、薬湯を持ってくるわね」
 と言ったが、その場を去るわけでもなく、隣に座り続けている。
「お父様は?」
「帰るなり、どこかに出かけられたわ。忙しい人ね」
「お母さま、榧、宗清、珊は?」
「みんな、元気よ。私がお父様と一緒に先に都に帰ると言ったら、少しだけ寂しそうにしてくれたわ。でも、皆、実津瀬によろしく言ってくれって」
「そう、みんな元気ならよかった」
 そう言った後も、蓮は火鉢にあたってじっとしている。
 火鉢を見つめたままの蓮の様子に、実津瀬は束蕗原で何かあったのだと悟り言った。
「どうしたの?……束蕗原で伊緒理と何かあったの?」
実津瀬が蓮を見ると、蓮は急に目に涙を浮かべた。
 そんな蓮を見ると、実津瀬は自然と手が伸びて肩を抱いた。
「泣くことなんかないじゃないか」
 蓮は頷くばかりで言葉を発しない。
 子供の頃からいつも一緒にいたから、自然と蓮の気持ちはわかる気がする。
「そんなふうに思うものじゃないよ」
 蓮は頷きながら実津瀬の胸に顔を伏せた。
「伊緒理は……私を妻にはしてくれないの」
 実津瀬の胸に向かって蓮は絞り出すように言った。
「私は伊緒理の妻にはなれないの……。私のことを好きと言ってくれたけど、妻にしてくれるとは言ってくれなかった……」
 そう言うと、蓮は大粒の涙をこぼした。実津瀬はその声にたまらなくなって、自分の胸の中に蓮の頭を抱えた。
「私、どうしたらいいのかしら……もう、生きていることが虚しく思えてしまって…」
 と若い者が言うべきではない言葉を口にしている。
「ただ解ればいいことじゃないか……蓮の相手は伊緒理ではなかったと……」
「実津瀬!人のことと思って、ひどいわ」
「蓮を悲しませるなんて、なんてひどい奴だと思えるほど伊緒理は知らない人ではない。蓮の思いが叶えばいいけど、伊緒理には伊緒理の思いがあることだ……。だから自分の思い通りにならないこともある。だから、蓮は受け入れるしかないだろう。そして、蓮の本当の相手を待つしかないだろうよ」
「……私の本当の相手って誰?」
「そんなこと!私が知るわけがないだろう!」
 そう実津瀬が声を上げると、蓮は実津瀬の胸から顔を上げて笑った。
「本当ね。知っていたらわけないわね」
 蓮は自分から身を起こして、実津瀬から離れた。
「……やっぱり実津瀬と話していたら少し心が晴れたわ。……お父様と一緒に早く帰ってきてよかった」
 蓮はそう言うと、お腹が空いたな……と呟いて台所に立って行った。

 父と蓮が帰って来た翌日から、これまでの日常に戻した。朝、宮廷の仕事をし、塾が終わると舞の練習のために宮廷楽団の稽古場に行った。行きも帰りも雪に会わないだろうかと胸がざわついて仕方なかったが、どうしたことか雪と会うことはなかった。
 雪は実津瀬がこの石畳を通ると分かっているのだから、あえて避けているかもしれない。出会った時にどのような顔をしたらいいかとばかり思っていたが、もしかしたらこの道で雪に避けられたら会うことなどできないのだと、今思い知った。そう思うと、気持ちが募った。
 ああ、会いたい。
 雪との情事から十日が経った。稽古場の行き帰りの石畳には雪の影さえ見えない。
 練習を終えて実津瀬は一人、石畳を歩いていると向こうから人影が歩いてくる。今までもすれ違う人はいたから、それほど気にはしなかったが、近づくにつれてそれが女人であることがわかり、とても色白であることがわかり、最後に、雪だと分かった。
 雪も向こうから歩いてくる者が実津瀬であることに気づいて、立ち止まった。
 実津瀬はそのまま歩き続けて、雪の前に立った。
 小さなざるを持った雪は柱に背中を預けて後ろに引かないように立っている。
「……会いたかった。あれから数日、すぐに会ってしまったら、どのような顔をしていいかわからないと悩んでいた。すぐに会って節操のないことをしてしまったら、あなたに嫌われると思ったから。……でも、会わないでいたらいたで、気持ちが募って気が狂いそうになっていた」
「……嬉しい言葉……いつも実津瀬様の言葉に私は喜ばされます。あの日、実津瀬様に先に帰ってもらってから、一人身支度をしていた私は冷静になって自分のしたことを思い返していました。実津瀬様を人気のないところに誘い、実津瀬様を唆すようにして抱いてもらった。私の方が年上ですものそう言われても仕方ない」
「そんなことはない……私が欲したことだ。……私はあなたが初めで……痛めつけているのではないかと、心配になった」
 雪は首を振った。
「あなた様の腕の中で夢見心地でした……」
 それを聞くと、実津瀬は雪の体に手を回して抱いた。
「ああ、こんなところでは人目に付きます」
 雪に耳元で囁やかれて、実津瀬は手を離した。雪の手を取ると石畳を外れて庭の中の椿の樹の影に連れて行った。
「ここなら、人の目も届かないでしょう。美しい椿の花が私たちの隠れ蓑になってくれる」
 そう言って改めて雪の体を抱いた。雪は持っていたざるを足元に捨て落として、実津瀬の背中に両手を回した。
「あなたを思わない時はなかった。いつも、頭の中、胸の中にあなたがいる。私にとっては初めてのことで、戸惑ってばかり。でも、これが……その、人を……好きになることかと知って……」
 実津瀬の途切れ途切れの告白に、雪は自らその身を実津瀬に押し付けた。溶けて一体になりたいと言わんばかりに委ねた。
「……愛しい方…」
 雪は実津瀬の抱擁の中で、実津瀬の耳に再び囁いた。心地よい声と言葉に、実津瀬はもっと深く抱き締めた。
「次に会う約束をしよう。今日のように偶然会うことを待っているなんてできない」
「でも、約束の時に来ることができなかったら……」
「その時は仕方ない。次の約束の時に会えばいい。あなたにだって役目があるのだから、そんなときもあるだろうし」
 雪は実津瀬の腕の中で頷いた。

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