束蕗原に向かうため、夜明けとともに皆が邸の主人の部屋に集まった。実言がみんなの顔を見て寂しそうな顔をしていた。実津瀬も宮廷に出仕する前に、顔を出した。弟妹たちには昨夜たくさん話をしたので、顔を見たかったのは母だった。
「お母さま、お体に気を付けて。あちらに行ったら、邪魔をするものは何もないので、きっと薬草の勉強に没頭されるでしょう。でも、ほどほどにしないとお体に触るかもしれないので」
と囁いた。
礼は嬉しそうに笑って頷いたが、傍に立っていた父の実言が耳ざとく聞きつけて嫌味を言った。
「邪魔する者とは何だね、実津瀬。この邸では私が礼の邪魔をしているとでも言うのかい?」
「いいえ、決してそんなことは……」
実言は実津瀬を睨んだが、次には相好を崩して。
「まあ、まったくの間違いではなかろうよ。私がいては、礼は読みたい書物も好きに読めないだろうからね。でも、私は寂しいのだよ。時間を見つけて、束蕗原に行くからね」
そう言って、父は妻の手を取った。それを見て、蓮が。
「ほら、やっぱり、お父様は来ると思ってた」
と榧に囁いている。
礼や蓮達は父と兄と別れるのを少しばかり惜しんで母の車には、宗清と珊が、もう一台には蓮と榧が乗って、束蕗原へと出発していった。
榧は大人しい女の子で、車の隅に座ったらそこを動くことなく、外の様子を窺うのもそこそこにじっとしている。もともと色の白い子であるが、今顔が白いのは道が悪くて車輪が石に乗って車が跳ねるので、気分でも悪くないかと姉の蓮は声を掛ける。その時は、にこっと笑って大丈夫、と頷くのだった。
「榧、束蕗原に行ったら、何をしようかしらね。去様やお母さまのお手伝いをしなくてはいけないけれど、やっぱりあそこには温泉があるから、毎日お湯に浸かりたいわね。食べ物も都とは少し違うもの。獣の肉なんて滅多に食べないから楽しみね」
小窓から外を眺めて、蓮は榧に話した。榧は静かに頷いて、口を開いた。
「でも、姉さまの一番の気持ちは伊緒理様でしょう。伊緒理様のお手伝いをするのが楽しみでしょう」
それを聞いた蓮は車輪が跳ねてもいないのに、体を飛び上がりそうになるほど驚いて。
「まあ、伊緒理様もいらっしゃっているでしょうから、お手伝いはするわ。一番の気持ちなんて!榧は言うわね」
榧はその時はいたずらっ子のように笑って、姉の慌てぶりを楽しんでいる。
都の北東に位置する束蕗原は、朝に出発して着くのは申刻(午後四時)になる。夕暮れまでに着けばよいと、途中、見晴らしの良い場所に弁当を広げて急ぐことはなかった。しかし、蓮の気持ちは一刻も早く束蕗原に着きたかった。
伊緒理は既に束蕗原に来ているだろうか……。今度こそ、伊緒理に。
蓮は握り飯一つを食べただけで、他の物には手をつけなかった。宗清は自分の前の物を全て食べ終えて、減らない姉の前の物を狙っているのに気づいて、蓮は差し出した。食べ終えて車に乗り込み、やっとのことで束蕗原の去の邸に着いた時には、礼の乗っている車では宗清と珊は疲れ果てて眠っていた。起こすのは可哀そうだと、出迎えた去が言うので、侍女が男たちに子供を抱いて下ろしてくれと頼みに走った。蓮と榧が車を降りて、母の車に近づいた時に、伊緒理が踏み台に上がって、車の中から宗清を抱きかかえている時だった。
「伊緒理!」
思わず蓮は呼びかけて、宗清を抱いて踏み台から降りた伊緒理に駆け寄った。
「ああ、蓮。長い道中だったね」
宗清を抱いて階を上がりながら伊緒理が言った。
「宗清は眠ってしまったのね。重くない?」
「ああ、大丈夫だよ。君は疲れていないかい」
「平気よ。伊緒理はいつ、束蕗原に来たの?」
「昨日だよ」
簀子縁に侍女が待っていて、宗清と珊を寝かせる部屋に案内する。部屋の奥に設えられた褥の上に伊緒理と邸の従者が抱きかかえてきた宗清、珊を置いた。
「寒いだろう。早く火鉢の近くにお行き」
伊緒理は言って、蓮達が一緒に持って来た荷物の搬入を手伝いに行った。蓮は簀子縁からその後ろ姿を追っていると、母の礼が大きな箱を持って階を上がってきた。
「礼様、私が代わりにお持ちします」
伊緒理は声を掛けて、礼から大きな箱を奪うように受け取った。
「助かるわ」
「一日がかりの長旅、お疲れでしょう。また、今日は寒いですから、どうぞ火鉢の近くで寛いでください」
礼とならんで歩きながら、伊緒理が話をしている。
蓮は伊緒理の母に対する態度に常々疑念を感じていた。
伊緒理が言うには、子供の時に医術の道に導いてくれたのは、母の礼だという。それは、体が弱く、家族に疎まれていた伊緒理にとって己の拠り所になったのだ。礼から教えてもらう薬草の効能に沿って処方して回復していく病人の姿を見て喜びを感じ、体を丈夫にして将来は医者になりたいと思ったのだった。
子供の時に立てた誓いの通り、伊緒理は医者の道を進んでいる。都の外れの邸に暮らして、宮廷の典薬寮の医者の元に学びに行き、薬草を育て、薬を作った。そして、都の外から独自に医術の研究をしている去の元にも定期的に通って薬草作りを勉強している。去の領地であるこの束蕗原は、岩城実言が援助していて岩城家の伝手で異国から取り寄せた薬草の書物がたくさんある。それを書き写しているのが蓮であった。
だが、伊緒理の母に向けるその言葉、声音、表情、仕草のどれをとっても、師に対する尊敬とは違うような気がした。勘ぐりかもしれないが、男女の思慕のような感情があるように感じてしまう。伊緒理は母のことをどう思っているのだろう。
蓮はそんなことはない、とわかっているのに、なぜか伊緒理と母の仲の良さを勘ぐってしまう。
嫉妬だろうか……。
束蕗原に来たらいつも使っている部屋の中に入ると、榧が火鉢の傍にちょこんと座っていた。
「榧、足の先を火鉢の方に向けていいのよ。足の先が冷たくなって痛くなっているのではないの?」
榧は言われて、足を崩して火鉢に足の裏を向けた。
「温かくなったら、痒くなるかもしれないけど、冷たいままにしておいてはよくないわ」
蓮は自分の指先を火鉢にかざして、冷えた指先を温めた。
そこへ母の礼は入って来た。
「宗清も珊もよく眠っていたわ。一旦起きてから、夕餉を食べてまた眠れるのかしらね?」
「あの子たちはいくらでも食べられるし、いくらでも眠れるでしょう」
蓮が言って、礼と榧は笑った。
礼は娘の榧の足先が冷たくなるのをわかっていて、火鉢に向けた足を足袋の上から少し揉んでやった。
そんなところに、伊緒理が庇の間に現れた。
「荷物は全て隣の部屋に運び込み終わりました」
礼が立ち上がって、伊緒理の傍に行った。蓮も立ち上がって後を追った。
「あなたも昨日来たばかりだというのに、ありがとう」
伊緒理はとんでもないというように首を振った。
夕餉は去の部屋でみんなが一緒に取った。昼寝から起きた宗清と珊は元気に部屋を遊びまわり、夕餉も膳の上の物をペロリと食べていた。
元気な子供たちは体力を持て余していてじっとしていないため、榧と一緒に子供部屋に戻した。部屋で走り回っては、力尽きてまた眠ってしまうだろう。
部屋には去、礼、伊緒理、蓮が残って、一人の侍女が給仕の世話をしている。
伊緒理の膳だけに杯が置かれていて、侍女が時折徳利を持ち上げて酒をすすめている。蓮は伊緒理の隣に膝を詰めて、その役を代わった。
思えば、伊緒理と一緒に食事をすることは何度かあったが、こうして酒を出す場はなかった。今年で伊緒理は二十一になったのだ。こうして去様や母と食事をするときに酒を嗜むこともあるだろう。それが蓮には新鮮であった。
ゆっくりと杯を持ち上げて白濁した液体を口に運び込む伊緒理。その一連の流れを傍で見つめて、蓮は空になった杯にそっと酒を注ぐ。
飲んでも変わらない伊緒理は、去と母の薬草の話に堂々と自分の経験や研究を語っている。蓮も母の手伝いや、書物の写しから学んでいるが詳しい話になると分からないことが多い。そんな蓮を気遣ってか、伊緒理が補足的な話して、三人の話の理解を助ける。蓮は伊緒理のそんな優しさで退屈せずに、話を聞いていられた。
夜も更けて、去の後ろに控えていた侍女が欠伸を噛み殺した。それを見た伊緒理は蓮が酒を注ぎ足そうとするところ、杯の上に手で蓋をした。
「去様、夜ももう遅いですから、この辺で失礼しますよ。私はあと十日こちらにいますからね。続きはまた後日」
「ああ、そうね。礼と伊緒理がいるからいつまでも自分の思うことを話してしまうわ。そうしましょう」
伊緒理は立ち上がる時に。
「蓮、君も部屋に戻るかい?」
と尋ねた。
蓮は素直に頷いて、立ち上がった。伊緒理と共に去に挨拶をして、簀子縁まで出てきた。そのまま、与えられた部屋に向かって進むのに、伊緒理が静かな声で話し掛けてきた。
「今朝、早くに都を出発したのだろう。体は疲れていないかい。去様の薬草の話は蓮が知っていることもあるけど、難しい話は聞いていて退屈に感じたのではないかい」
「……伊緒理がところどころで教えてくれたからわからないことはなかったわ」
蓮は伊緒理と肩を並べて歩きながら言った。
「そう、よかった。今日は旅の疲れもあるだろう。早く休むといい」
蓮の部屋の前で伊緒理はそう言って、邸を分ける渡殿から自分の与えられている別棟の部屋へと帰った。
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