New Romantics 第一部あなた 第三章12

蓮 小説 あなた

 翌日、実津瀬は夜明けとともに起きると、昨日と同じように宮廷見習いとして働いて、一旦邸に帰って来た。身だしなみを整えていると、蓮が庭から声を掛けてきた。
「あれ、実津瀬?塾は?」
「今日は行かない。今から出掛けるんだ」
「え?どこへ?」
「ちょっとね」
 そう答えると実津瀬は階を駆け下り、沓を履くと蓮の隣をすり抜けて裏門から外へと出て行った。
 蓮はそそくさと自分の前から消えて行った実津瀬の背中を見送った。
 実津瀬は人通りの少ない小さな道を選んで、いつもの集合場所へと歩いて行った。鷹野が一緒ではない踏集いへの道。
 あの女人……芹は……いるだろうか。
 すでに多くの人が集まっていて、いくつかの輪が一つの大きな輪になろうとしていた。楽団はそれぞれの楽器の音を確かめ終わって、演奏を始めようかというところだ。実津瀬は楽団の後ろに隠れて、ここまで歩いてきた息の乱れを整えた。
 始まりは軽快な曲だ。実津瀬はその曲をしばらく聞いてから、ゆっくりと林の中へと入って行った。あの池のほとりへと。
 実津瀬の心の中では、芹は絶対いる、とも絶対いない、ともどちらかに偏ることはなかった。いるもいないも半分半分である。
 ああ、どっちだろうか……。もちろん、いるというのが絶対の希望だ。
 実津瀬は池が見えてくると、足が震えるくらい気持ちが高まってきた。
 池の手前の土が盛った上に立った。そして、池全体を見渡した。
 対岸を見てから、手前の池のほとりに目をやった。
 あっ!
 実津瀬は心の中で大きな声を出した。
 手前のほとりに、鴇色の上着に鮮やかな緑色の裳を付けた女が膝を抱えて座っていた。
 その背中は、実津瀬を待っているように見えた。
 実津瀬は、その背中に向かって真っすぐ歩くと、左隣に芹のほうを向いて立った。
 当然、隣に人が立ったことがわかっているのに、芹は何の反応もしない。
 実津瀬は両膝をついた。
 実津瀬が膝をついた時に、芹は空気の揺らぎを感じているだろうに、じっと正面の水面を見つめている。
「……芹……」
 実津瀬は呼んだ。
 芹はやっと実津瀬の方へと顔を向けた。
「来てほしいと思っていたんだ。会えて嬉しい」
 その実津瀬の言葉を受けて、芹は口を開いた。
「前にここで会った時、あなたはもうここに来なくていいかもしれないとおっしゃっていたけど、来る必要ができたのね」
 皮肉を言う芹に、実津瀬は内心笑った。
「私の従兄弟の恋は何とか成就して、従兄弟のお供でここに来る必要はなくなった。今日は私が来たくて、ここ来たんだ。あなたに会いたくて」
 芹は実津瀬を一瞥して、前を向いた。実津瀬は腰を落として座った。
「もしかしてあなたはここで私と会ったのは、この前あなたの邸で出会うことを演出するために仕組まれたことと、誤解しているのではないかと思って。私は、須原様の邸に行って、ここで会った女人があなただと初めて知ったのだ。決して、何か企みを持って近づいていたわけではない。誤解しないでほしい。それをわかってほしいのだ」
「……ええ……わかっています。……邸であなたの姿を見た時、なんて卑劣な人だろうと思いました。でも、階の下でのあなたの表情は、作ったものではなく、本当に驚いておられた……この邸に来ることがどういうことか知らなかったのだと思いました」
「全く、本当にあの時驚いていたのですよ。本当に、心底……」
「……父から聞きました。須原には年ごろの娘がいると、器量も悪くないと誰かが口添えしてくれたらしく、岩城の方から声が掛かったと。父には願ってもいないことですわ。父としては年が上の私から片付けたいので姉でどうか、とお尋ねしたらそれでいいとおっしゃったとか。それで、あの日が用意されたようです。だから、今は誤解していませんわ。あの日は階の上では怒っていましたけど」
「そうか……よかった。それがとても気になっていたんだ」
 実津瀬はほっと胸をなでおろして、芹と同じように池の方へ向いて座り直した。
「私は父からまだ何も聞いていないのだ……だから、須原様へのお使いに何か別の真意があるのかわからない。でも、あなたが父上から聞いた話によると、両家は私たちを結婚相手として引き合わせたわけだ」
 そう言って、ちらりと芹の方を盗み見たが、芹は大きな反応はせず、静かに口を開いた。
「……ここであなたに話した通り、私は男女の付き合いなんて興味がないの……。だから、今日もここに来るつもりはなかったわ……でも、妹が父に踏集いで私があなたと一緒にいたことを話してしまったの。以前から知り合っていたなら、何かの縁があるのだと言って喜んだ。今日、何の支度もせずに座っていたら、父が部屋に来て何をしていると怒鳴って、行かないと返事をしたら喧嘩になった。強情な私に父は手を上げたわ」
 実津瀬は驚いて、芹の顔を覗き込んだ。
「顔を殴ったりはしないわ。あなたに見せる顔ですもの、父も考えているのよ。頬に向かった手を止めて、私の腕を何度か叩いて、行けと言うの。それを見ていた妹が間に入って止めようとして、妹も叩かれそうになったから、仕方なくここに来ることにしたわ。何も悪くない妹が私のせいで痛い思いをするなんて、自分が許せないもの」
 芹は実津瀬に顔を向けた。こちらを向いていた実津瀬を見つめた。
「今日は、お願いに来たの。須原の者にとっては岩城一族に妻として迎えられるなんて思ってもみなかった幸運ですもの。父としてはこんな運を自ら手離したりはしないわ。私の気持ちなんて考えるわけない。……だから、岩城家の方から断りを入れてほしいの。あなたも踏集いを気が乗らなくて逃げていた人ですもの、すぐに結婚なんて考えていないのでしょう?お願いします」
 この時の芹は、実津瀬の目をまっすぐに見、放すことなく切実な声で話した。
 実津瀬は無言だったが、しばらくして大きなため息をついた。
「……?」
 芹は顔を上げた。実津瀬の次の言葉に期待した。
「……それは、無理なお願いだ」
「?」
 芹は困惑した顔を実津瀬に見せた。
「確かに、私は踏集いに興味はなかった。だから、ここに逃げてきていたのだ。だけど、あなたのことは少し違う。ここで、短い時間でも話をして、私は楽しかった。あなたには興味があるのだ。もしかしたら、好きになっているかもしれない」
 実津瀬の言葉に、芹は目を吊り上げて睨んだ。
「何を訳の分からないことを言うの!嘘はやめて!」
「今の私の素直な気持ちだ。嘘じゃない」
「……私のお願いを聞いていください」
「……それはできない。……あなたの願いを聞いたら、私はあなたに会えなくなってしまうもの」
 芹はその言葉を聞くと、肩を落として両手で顔を覆った。手というより長い袖が顔を隠した。
 実津瀬はこれまで女人にひどく嫌われたことはない。逆に好意を持たれることの方が多かった。それは、岩城という権力者の一族であることが大きな理由であることはよくよくわかっているが、それを差し引いても好かれてきた。
「……そんなに私のことが嫌い?」
 実津瀬は突っ伏したままの芹に体を心なしか寄せて訊ねた。
 芹は自分の頭上に影が差して、顔を上げた。
 実津瀬が寂しそうな顔で自分を見ている。
「……あなたが……というわけではないわ。気を悪くしたならごめんなさい。誰であっても私の答えは同じなの。お願いします」
「誰であっても、ってそれはどういうこと?思い人がいるなら、私は引き下がる気になるけど、そうでないなら私はあなたとじっくり向き合ってみたい」
「無理よ。私を困らせないで」
「理由を教えて」
 実津瀬は言って、芹が地べたに置いている左手を取ろうと手を伸ばした。
 芹は実津瀬の手が近づいてくるのを察知して、身を後ろに引いた。実津瀬の手をかわすために胸に左手を引き寄せるところを、実津瀬は素早くその指先を追って捕まえた。
 捕まえたはずなのに、指の感触を捉えることなく逃げられた。
 実津瀬は尻で後ずさりする芹を見た。
 胸の上に置いた左手が目に入って、驚いた。
 その左手は親指以外の他の指がなかった。人差し指から小指までの四本の指がある場所は皮膚が覆っていた。
 実津瀬は同じ左手を見た記憶が蘇った。
 雪!雪と同じ左手……!
 実津瀬は芹を逃さないように、身を乗り出して膝で緑色の裳を踏み、素早く芹の左手首を掴んだ。
「この左手はどうしたの?」
「いや、いや!」
 芹は自分に覆いかぶさって左手首を掴み、左手に指がないのはなぜかと詰問する実津瀬が怖くて、はっきりとした言葉が出てこない。
「放して!」
 鋭い芹の声に実津瀬は我に返った。誰かがこの状況を見たら、女人を襲っていると思うだろう。自分の下に組み敷いているのだから。
「ああ、すまない」
 実津瀬は芹の手首を放して、芹の傍に正座した。
「手荒なことをしてしまった。逃げられたくないと思って、つい」
 芹は体を起こし、実津瀬から半歩離れて、同じように正座した。
「逃げないわ……もう。……左手を触られるのが嫌なの。理由は……見ての通り、指がないからよ」
「それは、生まれつきなの?」
 芹は首を横に振った。
「では、どういった理由で指を無くしたの」
 実津瀬の率直な問いに芹は観念して話し始めた。
「……もう何年前かしら……都の外れにある別邸にきょうだいで何日か過ごすために行ったの。滞在して数日が経った夏の暑い夜、私たちが寝たと思って侍女たちは隣の部屋に行ったけど、寝たふりしていたわ。起きて囁き声で話をしていた。そうしたら急に外が騒がしくなって、大人たちが起き上がって右往左往し始めた。私たち子供も褥の上に集まって、何が起こっているのだろうと話していた。そこへ侍女が入って来て言ったの。盗賊が入ったから逃げようと。私は五つ違いの弟の手を握って、妹の後ろについて邸の奥へと逃げて行った。小さな弟は足がついていかないの。別邸の警備は手薄で、大人の男は盗賊と対峙するのに精一杯で、私たちは女ばかり。だから、侍女や私が弟の手を引っ張って逃げていた。でも、盗賊の人数が多くて、私たちは追い詰められていったわ。そして、私は弟を抱いて庭に逃げたけど、二人で転んでしまったところに盗賊の一人が現れて剣を振り上げた。私の前に抱いていた弟を引き寄せて、この命もここで尽きるのだと思ったわ。……でも結果は、弟の命をあの世へと落として行った。私の四本の指とともに。小さな弟は苦しそうに血を吐いて私の腕の中で死んだわ。すぐに邸の者が来てくれてその盗賊を斃して私は助かったの」
 芹は顔を上げた。
「私たちは仲の良い姉弟だった。かわいい弟を守ってやれなかったことが無念よ……。代わってやれるものなら代わってやりたかった。今でも心の中で弟を助けられなかった悔しい気持ちがあるわ。そのせいかしら、私は暗い、陰気な娘って言われる。……そして、こんな手ですもの、普段の生活は誰かの手を借りなければうまくできないわ。もし、結婚しても夫になる人に他の人がしてあげられることを私はしてあげられない。だから、あなたのことが気に入らないなんてことはないの……こんな私では夫になる人が不幸になるわ。ね、わかったでしょう。どうか、私のお願いをきいて」
 芹のお願いの理由を聞いた実津瀬は、押し黙っていたが、やがて芹に右手を伸ばして、手のひらを見せた。
 実津瀬の行動に芹は不思議に思ったが、芹の左手の前に出されているので、左手を出せと言うことだと分かった。
 この左手を見られるのも、この左手のことを話すのも嫌だと言うのに、ぐいぐいとこの男は入り込んでくる。
「いやよ!」
「いいから、左手を見せて」
 芹は左手を胸に引き寄せて右手を重ねて体を小さくした。その姿を見て実津瀬は手を下ろした。
「わかった。あなたの嫌がることはしない」
 芹は顔を上げた。
「あなたに嫌われたくないから」
 しばらく見つめたった二人は、実津瀬から視線を外して芹の後ろへと目をやった。それにつられて芹も後ろを振り向いた。
 木の陰から芹の妹の房が心配げにこちらを窺っていた。実津瀬と芹に見つけられたことを機に房はこちらに歩いて来、芹の後ろに立った。
「姉さま……」
「もうお話は終わったのよ」
 芹は言った。それに間髪入れずに実津瀬が言った。
「今日の話は終わったのですよ、房殿」
 その言葉に芹は吊り上がった目で実津瀬を振り向いた。
「もっと落ち着いた場所で話せる機会を作るから、それまで待っていて」
 実津瀬の言葉に、後ろから房に肩を抱かれた芹は悲しそうに目を瞑った。
「あなたのあのお願いはいけないよ。それは、例え嫌われてもね。それ以外のことは嫌われたくないからしない」
 実津瀬は立ち上がった。
「立ち上がれる?」
 手をかそうとした実津瀬を睨みつけたまま、芹は房に支えられて立ち上がった。
「……酷い人!」
 芹は言うと、右手で房の袖を掴み広場の方へと歩いて言った。房は心配そうに一度だけ実津瀬を振り返った。そこには微笑を浮かべて自分達を見送っている実津瀬の姿があった。

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