「か……」
景之亮様、とその名を呼ぼうとしたのだが、それよりも早く景之亮は蓮を抱き締めた。
いつものように主の実言と少しばかり話をして、蓮の部屋へと渡ってきた。そこに足音を聞きつけて庇の間に出迎えた蓮をその場で抱き上げたのだ。
「あっ……」
蓮は驚いた。まだ、侍女の曜が部屋にいるし、庇の間は御簾を上げたままで誰が庭から見ているかわからないのに。
景之亮に脇の下から腕を通されて抱き上げられた蓮は足の浮いた状態で、奥の部屋に連れて来られた。
部屋で待っていた曜は、そんなふうに抱き合って現れた二人に驚いて、すぐに几帳の陰に隠れて部屋から出て行った。
「久しぶりにあなたに会えて、嬉しくてね」
二人にきりになった部屋で、蓮の体を下ろして景之亮は言った。
「まあ、私は逃げたりしないのに」
「んん……五日ぶりだろう。随分と会えていない」
蓮と景之亮は用意していた円座に座った。
早く結婚したいと告白した蓮の気持ちにすぐに応えられないという景之亮は、それでも蓮の気持ちに寄り添おうとして、前より親愛の気持ちを表すように蓮を抱いてくれる。そして、何よりも鷹取の邸のことをいろいろと教えてくれる。邸の普請のこと、鷹取の侍女や舎人たちのこと。
蓮は景之亮の話に想像を膨らませた。早く景之亮が住む邸に入り、景之亮を助けている人々と一緒に暮らしたい。この邸から離れるのは寂しいけれど、好きな景之亮と一緒にいられるのなら、とそちらの方が勝ってしまう。
蓮はまだ見ぬ夢の宮殿である鷹取の邸のことを飽きることなくに聞きたい気持ちだった。
二人は前に出した両手を繋いだり握ったり包んだりと会えなかった五日間を埋めるように触れて、見つめて、話をした。
だいぶ時が経ったのだが、蓮は時間を忘れて景之亮と会えなかった日々に起こったことを話していると庭から声が聞こえた。
「わかっているよ!明日を楽しみにしておいで」
明るいこの声は実津瀬だ。
二人の世界に入っていた蓮と景之亮は我に返ったようにお互いの顔を見、庇の間へと顔を向けた。
「実津瀬殿……」
「遠くで宗清の声がする。二人で遊んでいたのかしら?」
景之亮が上で蓮が下と縦になって二人は几帳の間から、顔を覗かせて庭を見た。ちょうどその時にこちらに歩いてくる実津瀬とばっちり目が合ってしまった。
実津瀬は二人の目が見えて、ぎょっとなったが、その後すぐに破顔した。
ケラケラと笑う実津瀬を見て蓮も景之亮も自分達の姿を思うとおかしくなった。
蓮は几帳の間から這い出た。
「もう、実津瀬は!笑わないでよ」
庭の前の階の下まで近寄った実津瀬は面白そうに笑う。
立ち上がった景之亮も大きな体を几帳の陰から現した。
「実津瀬殿」
「これは景之亮殿、お久しぶりです」
几帳の後ろから蓮と景之亮は庇の間へ出てきた。実津瀬も沓を脱いで階を上がる。三人は庇の間で向かい合って座った。
「宗清の声が聞こえたわ。何を話していたの?」
蓮が訊いた。
「本家の猫を観に行くという話だ。明日、宗清と珊と一緒に本家に行く約束をしたんだ」
この頃、実津瀬は小さい子たちの相手をよくしている。同じ相手に結婚を何度も断られた傷心を幼い子たちに癒してもらっているようだ
相手からもう会いたくないと断られた実津瀬をからかったこともあったが、これほど家柄、才能に恵まれた男を何度も振るなんて、もう笑い話にならない。
蓮も景之亮もそのことには触れず、たわいもない話をした。
「ところで、景之亮殿は昨日まで都の警備で遠くまで行かれていたそうですね」
「そうなのです。野盗が都の外と内を自由に行き来して、人をさらう物を奪うという被害が出ているのです。その状況を見に行ってきたのですよ」
「まあ、それは不安ね」
蓮がそれを聞いてすぐに声を上げた。
「それは都のどこら辺ですか」
「東北の方角に甘樫丘と呼ばれる場所があります」
「それは踏集いをしていた場所と近い」
「ええ、あのあたりは川もあり景色の良い場所です。山裾に小さな集落があり、そのいくつかが襲われているのです」
「その野盗を景之亮様達が退治するの?」
「そうだな。退治したいのだが、敵も毎夜毎夜出るわけでもなく、また場所を変えて現れるらしいのだよ」
「有益な情報を得られましたか」
実津瀬が言うと。
「ええ。おおよその人数や、どこら辺りを根城にしているとか、いろいろと知ることができました」
景之亮が返事した。
「姉さま」
几帳の陰から妹の房が顔を出した。芹は顔を上げただけだ。
「何をしているの?縫い物?」
几帳の陰から体を出して、姉の前に座った。
「どうしたの?」
芹は手を止めて房を見た。
「姉さま、部屋の奥に入ってしまって陽にも当たらないから。少しは外に出ましょうよ」
「……」
芹はこの前の出来事があるから、房の言うことには慎重だ。
前も房が外に行こうと誘ってきて、その気になって外に出たら実津瀬が待っていたのだ。
もう二度と会わないと決めた人なのに。
だから、房が外に行こうという言葉には警戒している。
「怖い顔。でも、近頃は庇の間にも出ていないでしょう。一日中、薄暗い中にいるのは良くないわ。山は赤や黄色に色づいてとてもきれいよ。庭に出て眺めましょうよ」
「……」
「もう前のようなことなしないわ。姉さまが心配なだけよ」
芹は縫い物の手を止めた。
「そうね。少し外の景色を眺めようかしら」
芹は房の言葉を信じて立ち上がった。
庇の間にいた侍女が御簾を半分ほど上げた。秋の爽やかな風が部屋の中へと入って来た。
「本当ね……。山が燃えているように見える。きれいね」
芹は庇の間の端まで出て、遠くに見える山を眺めた。目の前の庭に視線を転じた。須原家自慢の庭にも秋の花が咲いている。
正面の階の前まで歩いていく時に、芹はふらついてその場にしゃがんだ。後ろをついて行った房は姉の体を支えようと手を出した。
「姉さま!」
「……大丈夫よ。少しふらついてしまったわ」
房は姉の前に回って座り、その顔を覗き込んだ。
青白い顔。普段から食べない姉が、ここ最近は前より食べなくなっている。このままでは倒れてしまうと、房は心配していた。
「姉さま、もっと食べないといけないわ。だから体がふらついたのよ」
芹は手で頭を支えて、房の言葉に口を歪めて笑った。
「樹々がこんなに色づいて、時が流れるのも早いものね」
芹は言って立てた両ひざに手を置いて、じっと庭や向こうに見える山を見つめている。
房は立ち上がって侍女に指示をしてから、芹のところに戻り隣に座って一緒に景色を眺めた。何も話さず、黙って見ている。
時々、房は姉の表情を盗み見た。
ぼうっと景色を見る芹。目にはその景色を映していても、心はどこかに行っていて何も見ていないのかもしれない。
芹が左手を上げた。指がないのを見られないように作った長い袖で目元を押さえている。
涙……。
房は思った。
心の中に沸き起こる気持ちを抑え込んでも抑えきれないのではないだろうか。その気持ちは、きっとあの人の申し出を断ったことだ。姉は心の底では、後悔しているのではないか。
目元を押さえていた手を下ろして、芹は房の方を向いた。
こちらを向いた顔は、頬が前よりほっそりしたように見える。
そこへ、侍女が台所から戻って来た。手には盆を持っている。
「姉さま、梨が手に入ったのよ。一緒にいただきましょう」
立ち上がって侍女から盆を受け取った房は芹の隣に座って言った。
芹は食べやすいように切られた梨の一かけを取って、姉の右手に握らせた。
「いつまでも暗い部屋の中に籠っていてはだめよ」
芹が小さく口を開けて、梨の一片を入れた。それを見て、房も手を伸ばして梨を取った。
姉は、あの方との出会いに未練があるに違いない。だから、食事も前より減ってしまい、部屋に閉じこもっているのだ。姉の生きる気力が小さくなったのは、あの人との楽しい時間を自ら断ち切ってしまったからだと思う。
実津瀬たちと別れて、邸に戻ると姉はひどく怒った。
ひどい!ひどい!と声を上げて、長い袖が大きく揺れて、振り回されるくらいに手が動いて房の体を押した。
姉の手を止めようと、房は手を伸ばして両方の手首を取った。
「姉さま、やめて」
そう言って顔を見ようとしたが、姉は顔をそむけた。それは、頬に幾筋もの涙が流れていて、泣いているのを見られたくないためだ。
姉が嫌がることをしたために怒って泣いているのか。……そう思おうと思ったが、本当は、先ほど手離してきた縁を断ち切ってきたことを悲しんで、自然と涙が流れているのが本当の気持ちだ。
芹の手は力なく下に落ちた。房は握っていた芹の手首を放すと、芹は袖で目元を隠した。
姉のそんな様子を見ると、房は岩城実津瀬にもう一度会えないかと考える。あちらはもう、いいと思っているに違いない。しかし、姉に率直に愛の言葉を言ってくれる人はもう現れないのではないか。そう思うと、恥を忍んで頼みたいと思った。
何か策はないだろうか……
梨の味が悪くなかったのか、姉はもう一かけ梨に手を伸ばしているのを見ながら、房は考えていた。
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