「実津瀬!景之亮様がいらっしゃったわよ」
簀子縁を通って、実津瀬の部屋の前まで来た蓮が叫んだ。
部屋の中には実津瀬の他に稲生と鷹野もいた。
遅れて景之亮が大きな体を現した。実津瀬たち三人は簀子縁まで出て、景之亮を迎えた。
「景之亮殿、急なお願いで申し訳ありません」
実津瀬の言葉に、稲生と鷹野も頭を下げた。
「いやぁ、そんな顔を上げてください。お誘いいただいて私も楽しみです」
男四人がわいわいと話しているのを景之亮の後ろで、蓮は面白そうに、でも男たちの間に入れなくて不満そうな顔をかわるがわるしている。
「立ち話もなんだから、庇の間で座ってお話しくださいな」
蓮は侍女の曜と一緒に人数分の円座を用意した。
四人は誰がどこに座るかと譲り合いをして、やっと円座の上に座った。実津瀬の右に景之亮、その隣が稲生、その隣が鷹野、そして実津瀬に戻る。しかし、実津瀬と景之亮の間に蓮が小ぶりな柿を盛った器を持って、にじり込んできた。
男たちは左右に少しづつ寄って、蓮の席を作った。
「さて」
実津瀬が話しの始まりを仕切った。
「狩りの日は決まりました。人数は十人ほどです」
「山の中には秋の実りを食べつくそうと大きな獣がいるでしょう。楽しみですな」
と、景之亮。
「景之亮殿の弓の腕は宮廷中に聞こえています。我々は未熟な者が多くて、景之亮殿に弓のこと、獲物の追い方などを教えていただきたい」
稲生が言って、隣で鷹野が激しく頷いた。
「私は武術など遊び程度にしかしたことがなく、この機会に景之亮殿から教えていただきたい」
鷹野がそう言って頭を下げると、景之亮は手を振って鷹野の畏まった態度をやめるように示した。
「弓は得意にしていますので、褒められることがありますが、狩りは運があります。うまい下手は関係ない。少しお教えしたら、後はやってみるだけです」
伸びた髭に覆われた口が大きく開いて、鷹野を励ました。その様子を隣で蓮が呆けたような顔で見上げている。
鷹野が中央に置かれた柿を一つ手に取って、かじった。
踏集いが行われていた土地の近くの山、甘樫丘と呼ばれる場所で若者たちが狩りをしようと盛り上がった。近くでは盗賊被害も出ているので、退治できたら一石二鳥だと声が上がった。そんなこともあり塾の仲間が、武術の向上を目的に狩りを企画したのだ。しかし、日頃机に向かって書物ばかり読んで、弓を射ったこともない者もいて、誰か付き添い兼指南役が必要だという話になった。その時に、実言がそれなら景之亮が適任だと言った。
礼に会いに来た景之亮に実津瀬からお願いすると、景之亮は快諾した。そして、今日は本家の稲生、鷹野が集まって、狩りの日の詳細を決めることにした。この催しには岩城家が乗り気で、本家もそして実言も援助をしているからだ。
「楽しみだな」
大方のことを決め終わって、実津瀬が言った。
実津瀬はこの催しの世話役を買って出た。妹弟たちと一緒に遊び、こういった世話役に時間を使ってせわしなく動いている。知っている者からしたら、失恋の痛みをこうして紛らわせているように思った。
「いいわね、みんな楽しそう。私も行きたいわ」
今回は男ばかりが集まるので、蓮は行けなかった。
「蓮は岩城様の三条のお邸で待っていておくれよ。あなたが驚くほどの猟の成果を見せるから」
景之亮が言うと、蓮は素直に頷いた。
狩りが終わると、一同は三条にある岩城本家に帰って、猟の成果を見せ合って酒を飲む小さな宴会をすることになっている。そこへ蓮も手伝いに行くことにしていた。
人目を憚らず見つめ合っている二人を、男三人は顔を背けて柿にかぶりついた。
房は沈みかけた陽の光の中で紙の上の一文字一文字をじっくりと読んだ。
鷹野からの返事である。
姉を助けるためにもう一度実津瀬との出会いの場を設けてほしいという無理な願いを詫びて、丁寧な返事のお礼を書いて届けてもらったが、それ以上返信をもらえるとは思っていなかった。
それが、本当の姿は岩城家の間者であるが須原家に従者として潜り込んだ男が、夕方、房の部屋の前の庭に控えていたのだ。
それを見た房は、急いで階を下りると、男も階まで歩いて来て、胸から小さく折りたたんだ紙を取り出した。
「これを。……私は今夜、この邸から離れます」
男の言葉に、房はこの手紙の返事は書けないのだと理解した。
鷹野の手紙には房の期待に応えられないことを詫びる言葉が重ねて書かれていた。そして、再び踏集いに行っていたのに房と出会えなかった不思議を書いていた。そして、その踏集いの近くで同じ年頃の青年が狩りに行く準備に忙しい。そんな日々を送っている、と。
最後に、あなたも忙しく過ごされていることでしょうね。お元気で、とあった。
ああ、繋がりは切れてしまった。これで、姉は一生この邸の中から出られなくなってしまった。
房は自分のことでもないのに、悲しみが襲ってきてじっと日が暮れていく遠くの山を眺めた。
「……房……いる?」
芹が房を呼ぶ声が聞こえた。
「……いるわ」
庇の間に入って来た芹は、奥の部屋でこちらに向かって座っている房を見つけた。
「どうしたの?座ったまま、何をしているの」
房は膝に置いた手紙を小さくたたんで袖の中に入れて、立ち上がった。
「ちょっと考え事をしていたの。……それより、なあに、姉さま。姉さまが私の部屋に来てくれるなんて」
「今度……その、粟田様とお会いするときに着る衣装で、紅い帯を探していたでしょう。これはどうかしら。古いけど、箱の下に収めて忘れていたから、鮮やかなままきれいなのよ」
二人は簀子縁の方へ顔を向けて、帯の色を確認した。
「本当ね、鮮やかで美しい……姉さま、ありがとう」
房は言った。
ここ数日、姉は少し元気が出てきた。房のお見合いを応援して、どのような衣装を着て行くか考えてくれる。自分の時には、衣装の色の取り合わせなどどうでもいいと、横目で見て決めていたというのに。
空元気でも笑顔を見せる姉に、房は言った。
「……姉さま……一緒に出掛けない?もうすぐ冬が来るわ。踏集いも終わってしまって出かけることはなくなったわ。寒くなったら邸に閉じこもってしまうし」
「踏集い……意外なところで見初められるものね。房の優しいところをきちんと見てくれている人がいて嬉しい」
芹は踏集いで房に良い相手が現れないことを残念がっていたので、粟田の息子の申し出を喜んでいた。踏集いの言葉に、独り言のように呟いていた。
「……そうねぇ、踏集いの場所にあった池に行ってみたいわ。冬前の池の様子を見てみたい」
「踏集いの池……そうね……美しい場所だったもの」
「この時期だと色づいた樹々の葉も落ちて、寂しい風景かもしれないわ」
「そうかしら……でも、姉さまはそこに行ってみたいの?」
「そうね。木の実でも取って帰りましょうか」
一時は房が外に出ようというと、騙されて実津瀬に会わされることを警戒していた芹だが、今はその警戒も解けた様子だ。自分から行きたい場所を言ってくれた。
房は姉の言葉を僥倖と思えた。
鷹野の手紙に、踏集いの近くに狩りに行くと書いてあった。いつとまで書いてあっただろうか。後でもう一度読もう。それに合わせて姉を連れ出せば、もしかしたら偶然に実津瀬たちと会える可能性がある。頑迷な姉も何か感じるものがあるかもしれない。
「いいわね。数日中に行きましょう」
「お相手と会った後でいいじゃないの。急ぐことはないわ」
「そうね……でも冬が近づいて来ているから、早い方がいいと思うわ」
房は言った。
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