New Romantics 第一部あなた 第三章25

小説 あなた

 芹は掴まりたくなくて一生懸命走った。しかし、もう息が切れて足は前に進まず、立ち止まらずにはいられなかった。
 はぁはぁはぁ……
 芹は樹の幹に手を置いて、息が整うのを待った。
 房ったら、どうしてわかってくれないのだろう。再びあの人と会わせようと画策するなんて……。
 幹の後ろに隠れて、走って来た方を向いた。
 人影は見えない。
 ああ、房の思い通りにはいかないわよ。
 芹は房たちを振り切った後のことを考えていなかった。冷静になった芹は、房のことが気になった。
 今頃、房は林の中を侍女と一緒に彷徨っているのだろうか。
 急に不安になって、あの池のほとりに戻らなくてはと思うようになった。
 でも、すぐに戻ってしまっては、会いたくない人に会ってしまうかもしれない。もしかしたら、あの人も房と一緒に私を探しているかもしれないもの。
 芹は、背後にあるもっと大きな幹へと移動し、身を隠して池の方を窺った。
 池の方へ意識が向いていたから、背後への警戒など皆無だった。
 だから、芹はそのことに全く気付くことができなかった。きっと、落ち葉を踏む音がしていたはずなのに。いきなり、真っ黒な手が目の前に現れたかと思うと、その手が芹の口を塞いで体に抱きついた。
 声を上げたくてもその手は顔の下半分を覆い、声が漏れる余地はなかった。
 後ろからぴったりと体をくっつけられて、もう一方の手で芹の腕の動きを封じた。芹は自由になろうと自分の体に巻かれた腕に両手をかけて力一杯自分の体から離そうと引っ張ったが、その腕はびくともしない。自分の自由を奪う正体は何なのか、芹は目を上に向けた。
 自分の頭の上に、真っ黒なものが動くのが見えた。大きな獣か、と思ったがその時、言葉が聞こえた。
 最初は何を言っているのかわからなかったが、何度か同じ音を聞くと、それが言葉であると分かった。
「暴れるなよ、暴れるな」
 そう言って、腕に爪を立てる芹をなだめていたのだ。
 そこで、芹は獣のように真っ黒な男に掴まったのだと分かった。黒いのは日焼けした肌が泥や汗で汚れているのと、髭が顔全体を覆っているためなのだ。
 池のほとりに戻って妹と再会したいのに、思いとは反対に芹は男に林の奥へと引きずられて行く。
 どこへ連れていかれるのかしら……。私は房と再び会えるのかしら……。
 口を覆われた男の手は不潔で、耐え難い異臭が鼻を突く。邸に閉じこもっている芹には邸の外の世界の知識は乏しく、この汚れた男が何者なのかわからない。しかし、こんな男に掴まって、連れていかれるところは世間に疎い芹だって想像はついた。
 絶望に突き落とされる気持ちと、それとは反対の気持ちが湧くのを芹は感じた。
 
 不安そうな表情の侍女を置いて、房は池のほとりを通って、踏集いで集まっていた広場に向かって走った。
 息が上がって胸は苦しいし、足ももつれそうだが、立ち止まることはできなかった。
 運よく近くの住民と出会えたら、一緒に姉を探してもらって、いち早く姉を見つけて邸に戻りたい。
 芹は池の周りをよく知っているのかもしれないが、房は知らない。だから、不安で仕方がなかった。芹は少し離れた場所に留まって、しばらくしたら戻って来るつもりなのかもしれないが、房の不安に思う気持ちはそれを待つことができなかった。
 取り越し苦労ならよいが、もしも姉が道に迷ってしまって戻って来られなくなってしまったら。そう思うと、少しでも早く姉を探し出したい。
 房の妄想による甘い期待とそれを敏感に感じ取った芹の誤解が招いた、芹の逃走。こんなことになってしまうなら、芹と一緒に何事もなく邸に帰る方がよかった。
 房は踏集いで集まっていた広場に向かった。
 踏集いの時は、大勢の若い男女が集まっていたが、今は当たり前だが一人も人はいなかった。それでも近くに集落があることから、住人を探す。
 誰か!誰か!
 房は冷静になれと自分に言い聞かせながら、踏集いの広場を横切った。そこから、誰かいないかと祈る気持ちで林の裾を辿るように歩いた。
 すると、目の前に林の中から男が二人出てきた。着ている着物から、ここらに住む住人に見えた。
「もうし!そこのお方!」
 房は大きな声でもう一度呼んだ。
「もうし!」
 男二人がこちらを向いた。自分の声が聞こえたのだと、房は安堵し駆けだした。
「どうかお助けいただけないでしょうか。人を探すのです」
 いぶかしむ目を向ける男二人の前に立って、房は言った。
「人探し?……私たちは今から都から来るお殿様たちの狩りの手伝いをするのだ。だから、手を貸すのは……」
「狩り?……狩りの手伝い」
「そうだ。山の中の獲物を追うのに、人がいるらしい」
「今から、狩りをする人たちのところに行くのですか?」
「そうだ」
「ならば、私をそこに一緒に連れて行ってください」
 都から人が来て狩りをする、とはきっと岩城実津瀬たちのことだ。そこへ行って、事情を話せば、助けてもらえるかもしれない。
 若い娘が蒼い顔をして狩りの集まりの場に連れていけというのをどうしたものかと考えた。
「私は都から来ているのです。狩りに来ている人たちに知り合いがいるかもしれません」
 房の言葉に、それであれば連れて行くことくらいはいいだろうと男たちは頷き合い、一緒に行くことになった。
 男たちの言葉は、都とは少し違っているところがあり、狩りについて話しているようだが、房にとって二人の会話はところどころわからないところがある。呑気に歩く二人をせかしたい気持ちはあるが、ぐっと我慢した。
 小高い丘の上を目指してなだらかな坂を上がる。頂上には人影が見えて、手を振っている姿が見えた。男の一人が応えるように手を上げた。男たちと同じように狩りの手伝いに呼ばれた近くの住人なのだ。
 房にとって丘の上まで上がるのはきつかった。はあはあと息を切らしてやっと頂上へとたどり着いた。
「ん?どうしたんだ?お前のところの娘か?」
「いいや。来る途中に出会ったのだ。人を探すのを手伝ってくれと言われてな。狩りの手伝いがあると言ったら、都の知り合いがいるかもしれないから、ここまで連れて行ってくれと言われた」
 男たち五人が輪になって、後ろを歩いて来た房のことを話した。
 房は頂上まで上がりきると、胸に手をやって息を整えた。
「ここで待っていろと言われているんだ。そのうち、狩りをする都のお殿様たちがこちらに来るはずだ」
 房はその説明に頷いて、顔を上げた。遠くを見ると、人影が見えた。
「あれは……」
 房が遠くを見つめて訊いた。
「ああ、あれが都から来たお殿様たちじゃないか?」
 それを聞くや否や、房は走り出した。
「おい!あんた!」
 男たちは止める間もなく走り出した房を見送るしかなかった。
 向こうから来る一団の全体が見えた時、房はこの人たちは都から来た人だと分かった。大勢の男がこちらに向かって歩いて来るが、その衣装は房を連れてきてくれた男たちとは格段に違う、美しいものだった。
 誰でもいい、名を名乗れば誰かが須原のことを知っていてくれるはずだ。そうすれば、同情して姉を探すのをたすけてくれるはず。
「もうし!誰か!」
 房はこちらに向かって来る一団に向かって呼びかけその面前へと走り続けた。

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