New Romantics 第一部あなた 第三章26

小説 あなた

 話の中心にいるのは、岩城本家の鷹野だ。
 鷹野は今日の狩りの集合場所に集まった者たちを引き連れるかたちで、狩りの主戦場となる甘樫の山に向かっていた。
 集合場所を出発する前に試射をした時、武術は苦手な鷹野が立て続けに的を射抜いたのだった。見ていた仲間たちにさすが岩城一族だ、と褒められて鼻が高かった。鷹野はたまたま三度の試射が全て命中しただけだが、それを岩城家に阿る者たちが過剰に褒めてくれるので、へつらいとわかっていても機嫌がよくなる。
 なだらかな丘の上に、狩りを手伝ってくれる地元の男たちの姿が見えた。
 鷹野たちは若いのだが、朝早くから長い距離を移動し、また日頃は机にばかり向かっていて体力がなくもう疲れたという者が多かった。やっとここまでたどり着いたと、みながほっとした顔をした。
 狩りの手伝いの男たちが並ぶ列から一人がこちらに向かって飛び出して来た。  
 それに気づいた先頭を歩く若者は、違和感を受けた。一人だけこちらに向かって来るその人物はどうも、女人のように見える。垂らした長い髪に、肩に掛けた領巾の裾がはためいている。狩りに女人の手伝いがいるのか……と。
 大きくなった姿はやはり女人だった。そして、何かを叫んでいる。
 鷹野は多くの仲間を引き連れて歩いていると、前を歩いていた二人が立ち止まっているのが見えた。その間には女人がいて、二人に向かって何かを訴えている。
 鷹野も女人がいることを不思議に思った。何を話しているのだろうと女人をよく見ると、それは知った女人だった。
「房殿!」
 鷹野はその女人の名を呼ぶと、女人は呼ばれた方に顔を向けた。
「……鷹野様!」
 房は名を呼ばれて振り向いた先に鷹野がいて安堵し、すぐに鷹野の前まで走った。
「どう…」
「鷹野様、どうかお助けくださいまし。姉を見失ってしまって」
「ん?姉……芹殿を?」
「はい!踏集い近くの池から、林の中に入ってしまったのです」
 鷹野は芹ときいて、脳天を突きさすような速さで何をしないといけないかを悟った。
 後ろを振り向き大声で呼んだ。
「実津瀬!実津瀬―!早く来てくれよ!」
 稲生や他の友人たちと遅れて歩いていた実津瀬は丘の中腹で手招きする鷹野を見た。
「なんだろう?」
 鷹野の大きな声に、実津瀬は首をひねって隣の稲生を見た。
「早く来い、と言っているから何かあったかな?行ってやってよ、実津瀬」
 稲生の言葉に、実津瀬は仕方ないとゆっくり走り出した。こっちに来いという鷹野も実津瀬に向かって走って来る。
 こっちに来いと言っておいて自分が来るとか、おかしなことだ、と実津瀬は笑いそうになった。鷹野が近づいて来ると、後ろに隠れていた女人の姿が見えた。
 ……女人がいるのもおかしいな。甘樫丘の住人だろうか。手伝いに来たのか。
 実津瀬は足を速めた。向こうから来た鷹野は下りで足が止まらず、ぶつかりそうになった。
「どうした?」
「実津瀬、芹殿が行方不明になったらしい」
「え!」
 実津瀬は鷹野と一緒に鷹野がいた元の場所へと坂を上る。先を歩いていた男達と一緒にいる女人に近づくと、それが誰だかわかった。
「房殿!」
 房は実津瀬に声を掛けられると、目の縁に涙を膨らませた。
「実津瀬様、どうか、姉を探すのを手伝ってください。踏集いの近くの池に出かけたのですが、姉が、芹が池の向こうの林の中に入ってしまって」
「なんだって!」
 実津瀬は顔色を変えると、振り向いて最後尾で馬を連れている従者に叫んだ。
「馬を!馬を連れて来てくれ!」
 実津瀬の大きな声に景之亮が反応した。馬を連れてくる従者と一緒に走って来た。
「どうしたのです?」
「女人が一人、行方知らずになったそうなのです。この女人は知り合いです」
 実津瀬は景之亮に、房を指して言った。
「行方知らずになった女人も私のよく知った人なのです。……ここから少し離れたところに池があって……そこから林の中に入って行ったらしいのです。池から離れて行ったというと……」
 実津瀬は言葉を濁す。その後を景之亮が引き取る形で続けた。
「それは、甘樫丘の西のあたりですか?そうであれば……盗賊たちの」
「盗賊!」
 隣で聞いていた房が悲鳴のような声を上げた。
「私は今から馬で先回りをします。景之亮殿、池の方から林に入って探すように指示をしてくれませんか。楽観的に考えたら、池に戻って来ているかもしれませんし」
 言葉の最後の部分は房に向かって実津瀬は言った。
「姉さまを心配してここまで走って来たのですね。私たちと出会えてよかった。この人数で狩りをするところだったのですよ。その者たちが姉さまを見つけますよ」
 実津瀬は房に言うと、房を鷹野に預けた。そして、馬に飛び乗った。
「では行きます。後のことは、景之亮殿にお任せしたい。お願いします」
「承知した」
 景之亮が頷くのを見て、実津瀬は馬の腹を蹴った。
 房からは、芹が池のほとりから林の中に入ってしまった、としか聞いていない。
 なぜ、あの池のほとりに姉妹が出掛けたのか。なぜ、芹一人が林の中に入って行ってしまったのか。
 なぜ、なぜと思うことはあるが、それは芹を見つけた後に教えても羅えばいいことだ。今は、一刻も早く、芹を見つけなくてはいけない。踏集いの時期が終わって、人が集まらなくなったら、その場所は盗賊が出るようになった。まだ日が高いから、盗賊たちも寝ているかもしれないが、絶対にそうだとは言えない。芹がどこかで盗賊や、大きな獣に出くわし、襲われないとは言えないのだ。
 景之亮から近いうちに盗賊狩りをすると聞いていたが、その前に悲劇が起こってはいけない。ましてや、その犠牲者が芹であってはいけないのだ。
 実津瀬は馬を走らせて、芹のことを考えた。まだ心の隅にいた芹を中心へと据えた。

 真っ黒い男の脇に抱えられて、芹は後ろに引きずられて行く。男の腕を自分から引き剥がそうとするが男の力は強くて、何をしても無駄だった。成す術もなく、芹は男によって林の奥へと連れていかれる。
 男が黒いのは日に焼けているだけではない。土や泥が汗や水で沁み込みこびりついた真っ黒なぼろきれを纏っているからだ。そして、それは悪臭を放って、芹の鼻から目から入り込んでくる。
 芹は気持ち悪くなって、胃の中のものがせり上がって来るのを感じた。
「うわぁぁ!汚ねぇな!」
 芹の口を押えたていた男の手の平に芹は胃の中のものを吐き出して、男は芹の口から手を放し、吐き出されたものを投げつけ手を振って汚れを落とそうとした。
 男の力が緩んで、芹は自分から地面に突っ伏すようにして倒れ込み、口の中のものを続けて吐き出した。
 苦しくて全身で息をしているところ、男が後ろから芹の腰に腕を回して、体を起こした。
「なんてぇ細っこい女だ。こんなんじゃ、誰も喜ばないか……まぁ、その時は俺のものにてやろう」
 男は上を向いた芹の顔に自分の頬をピタッと付けて、汚れた真っ黒な歯の間から赤い舌を出して、芹の頬を舐めようとした。芹は視界に男の開いた口から出た舌がちろちろと動くのが見えて、再び気持ち悪くなり胸まで上がったものを一気に口から外に吐き出した。
「汚ねぇな。げえげえと吐きやがって」
 男は汚れた手を近くの幹にこすりつけた。
 芹はあの夜のことを思い出していた。綾戸の手を握って真っ暗闇の中を走って逃げたあの夜。
 あの時の野盗もこんな男だっただろうか。こんな汚らしい身なりで悪臭を放ち、口を開けばいやらしいことを言って。幼い私たちを弄び恐怖させ、最後には命を取った、綾戸の。
 綾戸……今日こそ……あなたの……
「おい!お前は一人でここまで来たのか?それとも……」
 男は顎に手をやって首を傾げた。年寄りでもなければ、幼さの残る若さでもない男の顔が考えている。しばらくしてはっとして顔を上げた。
「そのきれいな着物…都の娘か?ならば、一人で来ることはないな……お付きの誰かと一緒なのだろう。こうしちゃあいられない!早く俺の住処に連れて帰らないと!」
 男は叫ぶと、再び芹の腹を自分の腰に脇に抱えて、走り出した。まだ、吐き続けている芹など構うことなく。
 林を抜ける手前で男は芹を一旦地に置いた。
 芹は汚れた口元を左手で拭った。ここまで腹を抱えらえて、頭を下にしたまま連れて来られて、くらくらとめまいがする。頭を地面に着けて突っ伏していると、上から声が聞こえた。
「おい、起きろ!立て!」
 その声に素早く反応することはできず、芹はゆっくりと顔を上げた。自分の前に立った男の黒く汚れた裸足の足が見えた。
 ゆっくりとした芹の動きに腹を立てた男は、芹の両腕を掴むと無理やり立たせた。芹が自分の足で立ったところを、すぐに屈んで芹のみぞおちに肩を当てて担いだ。
「あっ!」
 芹は驚き足をバタバタと振ると、男は芹の足をまとめて腕を巻き付けた。
「大人しくしていろよ!これから、俺のこの足で目の前の原っぱを駆け抜けてあっちの林に行くんだから。あっちまで行ったら後はすぐだ。俺の住処に着いたら、いくらでも休ませてやるからな」
 男は自分にしては優しいことを言ったと、ひとりにやにやと笑った。
「じゃあ、行くか!」
 男は林と目の前の野原の境にある木々の間に立って、目の前の短い草に覆われた原っぱを見渡した。
 芹にとっては目の前にはこれまで通って来た林が見える。自分が最初にいた場所からどれだけ離れたのだろうか。
 房を振り切って逃げたはいいが、頃合いを見て戻るつもりだった。それが、野盗たぐいの男に連れ去られてしまうなんて。
 住処住処というが、男の住処はどんなところだろうか。一人で住んでいるのか、それとも仲間と一緒なのか。そんなところに連れていかれたら、私はどんなことになるのだろうか。
 怖い!
 芹は自分の手の届く男の背中を拳で叩いた。
「痛い!痛い!やめろよ!そんなこと続けてみろ!優しい俺でも怒るぞ!」
 男は最後に凄んだ声を出した。
 芹の足を抱くように抱えている手の反対が芹の裳の中に入って、足を直に触った。芹は驚いて反射的に足を曲げると同時に、声が出た。
「ひゃぁ!」
「無駄なことをするな。大人しくしていろ。俺は優しい男だが、腹の虫の居所が悪いと何をするかわからんぞ」
 その言葉に芹は手足の動きを止めた。
 綾戸……怖い…………
 綾戸…………怖い!
 ……誰か……誰か助けて!
 芹は顔を上げて林の奥を見つめた。

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