New Romantics 第一部あなた 第三章34

小説 あなた

 すっかり夜風が冷たくなった。晩秋の夜、芹は庇の間で蔀戸を上げた窓からの月明かりと灯台の小さな火を頼りに縫物をしていたが、頭の中では実津瀬のことを考えていた。
 実津瀬との手紙のやり取りは、一日交替で途切れることなく送りあっていたのに、今日は実津瀬からの手紙はなかったのだ。
 必ずこうしよう、と決め合ったわけではないが、お互い受け取った翌日には返事を届け、途切れずに手紙を交わし合ってきた。だから、実津瀬からの手紙が来ないと、もしかして、実津瀬の身に何かあったのではないかと心配になるのだ。
 しかし、前回の手紙では立って歩く練習を始めたと書いてあったから、日常の生活に戻りつつある実津瀬は忙しくしているのだろう。実津瀬が普段どのような生活を送っているのかわからないので、芹は当てのない想像をして悩んだが、悩んでも仕方ないことと割り切って、縫物に集中した。
 夜もすっかり更けて、そろそろ隣の寝所に入って横になろうかと思っていた時に、庭から。
「ありがとう。世話をかけたね」
 と男の声が聞こえた。
 この声は。
 実津瀬……様?
 芹は顔を上げた。
 まさか……。
 手紙には、須原の邸を訪れたいとは言っていたが、いつ来るとは書かれていなかった。
 芹はその可能性を打ち消して、再び手元の縫い物に集中した。
 だけど、階、簀子縁と歩く音が近づいて来る。
 たまらず顔を上げて、音の行方を見ていると、妻戸の前で止まった。
 妻戸が開いて、人が部屋の中に入って来る。
 誰……と声を上げる前に。
「芹」
 と名前を呼ばれた。
「みつ……」
 実津瀬様……と岩城実津瀬を呼ぼうとしたが、芹はそこで初めて実津瀬の名前を呼ぶことに気づいて、躊躇した。
 妻戸から庇の間に侵入した人影はずんずんと芹の方へと近づいて来た。
「ん?私の名前を呼ぼうとしたのに、なぜ途中でやめたの?」
 芹の前に片膝をついてしゃがんだ実津瀬が言った。
「み……み、実津瀬…さま」
「私たちは歳も違わないよ。そんなかしこまった呼び方はやめて。呼び捨てておくれよ」
「……実津瀬」
「うん、嬉しいな」
 芹は実津瀬と初めて呼んだ。小さな声になったが。
 実津瀬は言葉で、そしてその表情からも嬉しさをにじませた。
「外で誰と話していたの?」
「お邸の門番だよ。この邸に来たのは随分前だから、あなたの部屋の場所に自信がなくてね。案内してもらった」
 男が侵入しているのだから警戒しないといけないのに案内するなんて、と芹は驚いた。
「門を入ったところで、正直に名前を名乗った。そうしたら、この階の下まで案内してくれた」
 門番は岩城実津瀬のことを父から聞いていたのだ。父も用意周到なものだと芹は思った。
「芹は何をしているの?」
 見ればわかることだが、あえて実津瀬は訊ねた。
「縫い物よ」
 芹は手元の縫い物を続けた。
「へえ、随分と大きな体の人のようだ。父上にかい?」
「違うわ!……あなた……み、実津瀬に……」
 芹は実津瀬をあなたと呼びそうになって言い直した。
「私に?私のため?」
 実津瀬は芹の手の中にある生地を持って、また嬉しそうに笑った。
 この左手ではいつ出来上がるかわからないが、芹は実津瀬のために下着を縫っていた。
「芹、それは置いて、私の方を向いてよ」
 突然、実津瀬が芹の耳に口を寄せて言った。
 芹は身を縮めた。気持ちがざわついて仕方がない。あの日以来、初めて実津瀬と対面するのだが、予告もなく現れるものだから心の準備ができていなかった。
「待って……切りの良いところまで縫い」
「今夜、私がここに来た理由、わかるだろう。縫い物が私のためと言っても、今夜は私と過ごすことだけを考えてよ」
 今夜、実津瀬がここに来た理由……。
 芹はわかっているが、わかっているだけに、突然で戸惑っている。
 それは、肉体的な繋がりを持つこと。それが婚姻の第一歩である。
 芹は心を決めて、縫物を脇に置くと実津瀬の方に体ごと向いた。膝がしらが実津瀬にくっついて、実津瀬を押した。
 そんな慌てた様子がおかしくて、実津瀬は再び自然と笑顔になった。
 自分の膝の上に揃えて置いた両手。実津瀬は右手で芹の左手首を下から握って、左手で芹の左手を包んだ。といっても、容易に左手を見られないように長くした袖の上からだ。
 芹は実津瀬に包まれた左手を見ている。すると、実津瀬の両手が袖をまくって、指のない左の残った親指を右手で掴み、持ち上げた。
 芹は驚いて実津瀬の手の動きを追った。実津瀬の顔まで持ち上げられたらそのまま、実津瀬が顔を近づけて指のあった場所に唇を押し付けた。
 あっ……
 芹は驚きのあまり声が出そうになったが抑えて、代わりに目を瞑った。
「芹……」
 実津瀬の声を合図に芹は目を開けた。
「手紙ではとても私を心配してくれていた。優しい言葉を送ってくれた」
 すぐさま、芹は答えた。
「それは、実津瀬も同じよ」
 野盗から助け出してくれた実津瀬とその場で思いと通じ合わせたが、二人とも少なからず怪我をしていて、疲労困憊で寝込んでいた。そこをお互いの妹たちが手伝って、手紙で気持ちを伝え合うことができた。
 実津瀬が言う言葉を蓮という名の妹が書いた美しい文字が並ぶ手紙を届けてくれた。
 早く起き上がって芹のところに行きたい。
 会ったらどんなことを話そうか。芹のことをもっとよく知りたい。
 私の舞を見てほしい。舞の感想を聞かせて。
 早く一緒になって、一つ屋根の下で暮らそう。
 芹は実津瀬からたくさんの言葉をもらった。熱烈な言葉、優しい言葉に恥ずかしくなったり、嬉しくなったり、不安になったり。
 どの言葉も今までもらったことのない言葉だ。以前であれば、こんな言葉いらないと意地を張っていただろうが、今は素直に受け取れた。嬉しくて口元がほころび、にやにやしているところを妹の房に見られ、からかわれた。
「うん、でも、私はあなたの気持ちがいつのまにか変わってしまうのではないかと、気が気じゃなかった。だから、今夜、予告もなく来たのだよ」
 実津瀬は芹の左手を両手で包んで、芹の顔を窺った。
「あの日以来だ。あなたと会うのは。しばらく時間が空いてしまって、あなたも怪我をして横になって体を休めていた。色々と考える時間があっただろう。気持ちはあの時のままかな。変わっていない?」
 実津瀬はそう言って、眉をしかめて不安な表情をした。
 芹はそんな実津瀬の顔を見つめて、しばらく考える。
 小首を傾げる芹に実津瀬は益々不安を募らせた。
「考え直してもいいのかしら……それなら、私の今の本心を」
「えっ!本気にしないでよ。心変わりはしないはずだ。池のほとりで会った時から、少しずつ私たちは気持ちを通じ合わせてきたはずなんだから」
 慌てて実津瀬は右手の人差し指を芹の唇に当てて、続きの言葉を封じた。
 芹は実津瀬のあわて様に、ころころと鈴を鳴らすような涼やかな声を出して笑った。
「心変わりなんてしないわ……あなたが言ってくれた言葉を信じてるもの」
 薄暗い中、芹が実津瀬を見上げてそう言った顔が白く浮き上がった。薄い雲から差し込んでくる月明かりが芹の瞳を光らせる。
 実津瀬は両手を上げて芹の両頬を挟むと、自分の顔を近づけた。
 それは、あっという間で、実津瀬の唇が芹のそれに重なった。ちょっと触れた軽いものだったが、芹は初めてのことで、驚いて目を見開いたまま固まってしまった。
 初々しい芹の反応を、実津瀬は内心微笑んだ。
「奥の部屋は?」
 実津瀬が奥に顔を向けて訊ねると、接吻で口がきけなくなった芹がやっと言葉を発した。
「……寝所を整えています」
 最後は消え入りそうな声になった。
「そう。では、奥に行こうか」
 実津瀬は立ち上がり、芹の右手を引いた。芹はされるがまま立ち上がった。
 几帳を抜けて中に入った。実津瀬が持って来た灯台の明かりが寝所を仄暗く照らした。
 実津瀬の背中から部屋の中を見ている芹に、実津瀬が振り返り、腰に手を回して引き寄せた。二人で褥の上に上がって、向かい合ってその場に座った。
 手紙のやり取りが、毎日相手のことを考えさせてくれたが、あの出来事から会うのはこれが初めてである。芹は、隣の部屋での実津瀬のかしこまらない優しい言葉と態度に返事をしていたが、こうして褥の上に向かい合って座ると、何を言ったらいいのか、どのように体を動かせばいいのかわからない。
「緊張しているの?」
 実津瀬はそう言って、芹の左手の親指を握った。人差し指から小指まではないから、自然と親指を握ることになった。
 芹は取り繕ってもしかたがないと思い頷いた。
「……私もだ」
 だからか、実津瀬は芹の手を揉むように力を入れては離すをしている。
 急に力を入れてきつく手を握られて、芹は顔を上げると、実津瀬は困ったような顔で、目尻を落として笑っている。
 それが合図のように、芹は実津瀬が握っている左手の親指を引っ張られて実津瀬の胸の中に飛び込まされた。それを受け止めた実津瀬は、芹の肩に手を置き、襟を持つと剥ぎ取ろうと後ろに返した。
 芹は素直に実津瀬の手に従って、袖から自分の腕を抜き上着を脱いで下着だけになった。下着を留める腰の帯の端も引っ張られて裸にされた。実津瀬も自分で帯を解いて、上着を脱ぎ裸になると芹を抱き寄せて褥の上に横になった。
 芹が震えている。
「……怖い?」
 実津瀬は訊ねた。
「……いいえ、寒い……だけよ」
 それを聞くと、実津瀬はより深く芹を胸の中に抱いた。
「温めてあげるよ」
 芹は自分の胸の前に畳んでいる左手を実津瀬の右腕の下から、実津瀬の脇腹、背中へとまわした。

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