前にも一度見かけたその男の人は、もしかしたら……と思っている人ではないか。
以前見かけた時は、途中で蓮が邸の中に入ってしまったため、間近ですれ違うことはなかった。しかし、今、蓮たちは食堂に向かって歩いていて、食堂の扉に着く前に去たち一行とぶつかってしまう。
井も去が客人を連れてこちらに歩いて来ることに気づいて、渡り廊下の端に身を寄せると頭を垂れた。
蓮もすぐに廊下の端に移動をして井の隣に並んだが、すぐに同じように頭を垂れることはできなかった。ぎりぎりまで、顔を上げて去の隣にいる男の顔を見てやろうと思った。
去は柔和な笑みを浮かべて、男の話に耳を傾けている。
蓮はどんどん近づいて来る一行に目を凝らした。
ああ、もう、頭を下げなくていけない、と蓮は体を傾け始めた時。それまで去の横顔をみて熱心に話していた男が、ふっと視線を前に向けた。
蓮は男が前を向いた時を逃さず、その顔をじっと見つめた。それに気づいたのか、男は廊下の端に立つ見習いの女たちに視線を向けた。その時、蓮は男と目が合った。
蓮は驚いた気持ちが如実に顔に出た。
ああ、もう、頭を下げなくてはいけない。
蓮は慌てて頭を垂れて、去たち一行が通り過ぎるまでその姿勢を保った。
ああ…。ああ……。
蓮は言葉にならない気持ちで、頭を下げたまま自分の沓の先を見ていた。
あれは……伊緒理だった!
蓮の記憶には別れた時のままの伊緒理が刻まれている。もう五年も前のことだ。
伊緒理は子供の頃は病弱で部屋で臥せて過ごすことが多くて、五年前の青年の時も色白だった。それが、蓮が好きだった細面の顔は変わらないが、真っ白だった顔は日焼けしていて、細かった体は一回り大きくなったように見える。
そんな変化があっても、伊緒理だと分かった。
だって目は同じだもの。笑って細くなった目。優しい眼差し。
忘れもしない!近くでずっと見つめていた初恋の人だ!
「蓮さん、どうしたのですか?」
ずっと下を向いたままの蓮に頭を上げた井が声を掛けた。蓮は平静を装う顔を作って、顔を上げた。
「何でもないわ」
しかし、嬉しさが込み上げて来て自然と笑みがこぼれてしまう。
「何か笑うような、面白いことがありましたか?」
井は不思議そうな顔で問うた。
蓮はううん、と首を振ってそのまま食堂へと向かう。
「変な蓮さん!」
嬉しそうな蓮に、井もつられて笑って後を着いて行く。
去は客人である伊緒理を見送るために厩まで一緒に行った。見送った後に、これから始まる食堂での講義に臨むつもりだ。
五年前、伊緒理は留学生としてどこを見回しても海原しか見えない広い海の中を進んで、陶の国に行った。いつ帰って来るのか、帰って来られるのかもわからないと言っていたけど、こうして帰って来ていたのだ。
再び会えるとは思っていなかった。
だから、蓮は思った。
伊緒理のその姿を見られただけで嬉しい。言葉を交わすことはなくても、元気な姿を知ることができてよかった。
食堂に入ると三人ほどの見習い仲間がすでに来ていた。
去は客人と厩に着いても、まだ話をするだろう。去が講義を行う時は、時間になると鐘が鳴るが、それは講義を聴く生徒たちに教えるのではなく、多忙な去に時間ですよ、と教えるためのものになっている。
見習いの女人だけでなく男医師について学んでいる男たちも、去の話を聴きに食堂に集まって来る。
蓮と井が長机に隣り合って座り、話をしていると向かいに鮎が座った。
「鮎さん。先ほどはありがとう」
蓮が言った。
牧が仕事をさぼったために、薬草を倉に収める仕事に時間がかかりそうになったところを、鮎が指示をして二人ほど応援に寄こしてくれたおかげで、何とかこの講義が始まるまでに薬草をしまう仕事は終わらせることができた。
「いいえ。それより、牧さんには困ったものね」
と言って嘆息した。蓮は頷きはしたが、何も言わなかった。
「だいたい揃いましたかね?」
井は食堂全体を見回して言った。見習い仲間たちの顔、男の見習いの顔がそろい、食堂の席は大体埋まっていた。
「去様はどうしたのかしら?」
鮎が言った。
「去様はお客さまを見送りに行っておられます。私たちが倉の作業が終わって、食堂に向かっていると、お召し物から都からのお客さまとお見受けした男の人と一緒に邸から出て廊下を厩の方に歩いて行かれていましたから。ねぇ、蓮さん」
井は見たことを鮎に伝えて、蓮に同意を求めて来た。
井が都からのお客さま、と言ったことに、蓮は自分が伊緒理の顔ばかり見ていたことを思い知らされた。着ている物がここら束蕗原周辺に住んでいる者ではなく、都から来た人だと井は思ったのだ。伊緒理がどのような衣装を身に着けていたなど、全く目に入っていなかった。
「お客さま?……ああ、陶国から帰国された椎葉様のことかしら」
椎葉というのは伊緒理の一族のことである。
「椎葉様とおっしゃるのですか?」
蓮はとっさに言った。
「ええ、昨日から都から来られた椎葉様がお泊りになっていると聞いたわ」
「やはり都から来た方だったのですね。お召し物がなんだか違うと思いました。都にはあのようなきれいな着物を着た人達がたくさんいるのですねぇ」
井は感嘆の声を出した。
「異国に留学生として渡られて、数年あちらで医術の勉強をされて、昨年帰国されたそうよ。留学前から去様とは親交がおありのよう。帰国されてから何度かこちらにいらっしゃっているのを見たわ」
「留学して戻って来られたのね。その方、椎葉様は、今は都で何をされているのかしら?」
蓮は鮎に訊ねた。
「典薬寮にお勤めと聞いたわ。留学で得た知識を宮廷の医師の方たちにお伝えしていらっしゃるよう。また、陶国から一緒にいらした、お招きした医師の通訳もされているとか。仕事の合間に、よく一泊で去様をお訪ねされているらしいわ」
蓮は興味深く聞いた。
伊緒理は典薬寮の医師をしているのだ。
本当に立派になって、と思った。
体が弱くいつ命を落としてもおかしくない、と言われていたため、一族は健康な弟を跡取りとして大事にした。伊緒理は、祖母と一緒に都の外れにある椎葉家の別邸に住み、熱にうなされ、咳で体が揺れて、褥に寝て天井を見つめながら死を意識して生きていた時期があった。
成長するにつれて、体は丈夫になったが、跡取りは弟に譲って、伊緒理は自分の体を診てくれていた医師のように、誰かを助けたいと思うようになった。最初は蓮の母、礼を、そして、蓮にとってもだが伊緒理にとっても大伯母に当たる去を頼って少年の頃から医術の勉強をしてきた。
伊緒理にとっては親族でもあるが師でもある去を今も慕い、こうして頻繁に都と束蕗原を行き来して会っているのだ。
「皆、待たせてすまないね。客人をお見送りしていたのだが、話が弾んで、遅れてしまった。では、話を始めるとしよう」
去が食堂に入って来て、声を上げた。
皆は顔を上げて、体を去の方へ向けた。
「先ほどの客人は陶の国へ留学して戻って来た人なのだ。彼が陶の国の宮廷の薬草園の話をしてくれた……。広大な庭に見たこともない木や花が植えられていて、その実、葉、根を使って、病を治していると。我々もその知識を使って、少しでも病から人々を救えるように研究をしましょう」
去の言葉に、皆は頷いた。
蓮は他の者たちとは違った気持ちが湧いて、胸が熱くなった。
伊緒理の大海原の中を大波に揉まれながら命懸けで渡った異国の知識が、都で、また去の元で多くの人の病気を治すために役立てられているのだ。
蓮は人知れず、涙がこぼれるのを我慢した。
伊緒理!
伊緒理は自分が目指したものを着実にその手に掴もうとしているのだ。
ああ、なんと素晴らしいことだろう!
伊緒理、おめでとう!
蓮は心の中で喝采を送るのだった。
コメント