Infinity 第三部 Waiting All Night10

椿 小説 Waiting All Night

 梅雨のある日、後宮の碧妃から礼に手紙が届いた。碧妃からの礼宛の手紙が直接礼に届くことはない。まずは実言に手渡された。実言が改めたあと、礼に渡されるといった具合だ。その手紙のことは、礼が寝所に入ってきたときに、先に入っていた実言が迎え入れて話し始めた。
「礼、実は碧が例によってお前に後宮に来て欲しいと手紙が来てね。どうだろうか、行ってくれるかい」
「はい、行きます。随分と久しぶりだわ」
「……碧から恨みことを言われるかもしれないな。……この前、礼に館に来て欲しいと手紙が届いたのだが、私がお断りの返事を送ったのだよ」
「まあ、その前に私に一言言ってくださればよいものを」
「花の宴の準備が忙しかったものだから、終わったあとはゆっくりとしたかったのだ。邸でお前と子供たちとでね」
 礼はそれ以上は何も言わず褥の上に寝そべっている実言が広げる腕の中に滑り込んで眠った。
 明後日、礼は碧妃の館を訪ねた。
「礼!久しぶりね。会いたかったわ」
 碧妃は喜びを顔いっぱいに浮かべて、礼を迎え入れた。
「本当に、お久しぶりでございます」
 二月だけのことではあるが、碧妃には半年もまだもぶりのような気分であった。
「実言兄様はひどい人だわ。一度、私のお願いを断ってこられた。私がどれほど寂しい思いをしたことか、礼はわかってくれるかしら」
 碧妃の無邪気な訴えに礼はどう言ったものかと、微笑しただけだった。
「兄様は、どうも戦から帰られてから礼を邸に置いておきたいばかりのよう。本当に仲の良い二人ね」
「まあ」
 礼は肯定も否定もしないまま、その後に続く碧妃と会話を続いた。碧妃は有馬王子の成長に気づいたことはどんな小さなことでも話した。毎日の出来事から体が大きくなったと感じたことや、流暢に言葉が話せるようになったことなどを。有馬王子は岩城家の血を引く王子である。その健やかな成長の一端を聞くのは、礼にとってもとても嬉しいことだ。実言も、有馬王子の様子をとても気にかけている。碧妃の元から邸に戻ると、必ず有馬王子の様子を細かに聞いてくる。
 そこへ別室で昼寝をしていた有馬王子が目覚めて、母君の元に連れてこられた。部屋の中に乳母に抱かれて入ってきた王子は、下に降ろされると一目散に母君の元に駆け寄って行った。
「おかあさま」
 勢いよく母君の胸に飛び込む王子の愛らしさを皆が見守っている。
「有馬、よくお眠りできたの」
「はい」
 有馬王子は実津瀬や蓮の一つ年下の齢三つである。幼き愛らしさの中にも、しっかりとした受け答えができて、将来への頼もしさを感じるのだった。
 有馬王子の相手をしながら、碧妃と礼は引き続き談笑した。もうお暇という時とに、碧妃の体調のことを聞いた。王子を産み、母となり、その喜びと幸せを噛みしめている今の碧妃の体は不調を訴えるところはどこもなかった。
礼は暇を告げて、碧妃の部屋を後にする。この日は最後まで碧妃の傍に座っていた有馬王子が、礼に声を掛けた。
「また、来ておくれ」
 可愛らしい声が礼の背中に投げかけられた。
「はい」
 振り向いた礼は、満面の笑みで返事して深々とお辞儀して部屋を出た。長い簀子縁を歩いて、碧妃の館から出ようとするときに、後ろから足音が追ってきた。
「お待ちくださいませ。お妃さまがお頼みしたいことがあると。ご実家に届けていただきたいものをお渡ししたいとのことでございます」
 礼と侍女の淑は顔を見合わせた。
「私が受け取ってきますわ」
 淑が言った。
「ええ、お願い」
 淑は来た簀子縁を碧妃の侍女と共に引き返した。礼は、そのまま簀子縁を進んだ。この一帯は大王の妃が住む館が並ぶところで、それぞれの館と庭が隣接している。
 となりの館は椎葉家から後宮に入った幹様の住まいである。広い庭は背の高い木や低い木を程よく配置して、膝や、足元の高さには可愛らしい花をつける種類を植え込み、廊下を渡る者から館を目隠ししつつ、またその目を楽しませることも考えられているようだ。幹妃の考えか、またはお付きの椎葉家の者の指示によるものかわからないが、趣味の高さをうかがわせた。
 青々とした葉の中に色とりどりの花が咲き誇って美しい様を礼は簀子縁から眺めていた。つつじ、橘、山吹と花が多く、特に藤の花が美しく、少し遠くに目をやると藤棚が見えた。
「あら。膨らんで今にも咲きそうな百合があったはずだが、どこに行っただろうか?」
 橘の木の陰から、そんな言葉が聞こえてきて、木を回り込んで一人の女性が現れた。侍女たちが着ている単色の衣装とは違い、巧みな色使いと織りの入った背子が、身分の高い女性であることをうかがわせた。もしかしたら、幹様ご自身であるかもしれない。腕には、すでにいくつかの花を摘んで持っている。
礼は、自分がいることに気づいていないその女性が自分の世界に浸っているのを邪魔しないように、そおっとこのまま簀子縁を進もうと思ったが、その女性の横顔に視線が吸い寄せられて、歩けなくなった。
 その女性が美しいからということもあったが、その美しい人は、礼が子どもの頃姉と慕っていた従姉妹の朔だったからだ。椎葉荒益の妻となり、幹妃の義妹になった。
「……朔」
 礼の声は小さいものだったが、庭で花開こうとする百合を探していた朔はその声の方へ顔を向けた。
 二人は目を合わせて互いが誰であるかを確認した。
 子供の頃から変わらないすっきりとした華やかな美しさのままの朔がいた。
 反射的に朔は顔を背けた。体まで橘の陰に隠そうとするところを、礼は叫んだ。
「朔、待って!行かないで!」
 礼は近くの階まで走り、飛び降りる勢いで降りて、朔のもとへ駆けた。朔の前に立ち止まり、一定の距離を保って礼は朔に呼びかけた。
「朔……久しぶりね。月の宴以来だから……もう、五年ぶりかしら」
 朔は橘の木の陰へ向かおうとした体をなんとか止めて、礼の言葉を聞いた。しばらくして。
「……そうね。……本当に久しぶりだこと」
 と絞り出すように言った。
「私は、碧様のところに伺ったのよ。……朔も、幹様のところに」
「ええ、そうよ」
「本当に久しぶりね。……また会えて嬉しい」
 礼は素直な気持ちをそのまま言葉にして言った。
「……そちらは万事がうまくいっている様子。……王子様を得て、その権勢はますます勢いを増すばかり。羨ましいこと」
 朔は自嘲的に笑った。
「……朔。そんなこと……私は朔とまた会えて嬉しいの。……私はまた、あの頃のように朔と」
「あの頃とは、いつ!」
朔が間髪入れずに声を荒げた。
「お前もわかっているだろう。私たちはもう、あの時から元の仲には戻れぬ間柄だということを。将来の夫を奪われた私と奪ったお前が何を持って仲良くできようか!」
 朔は礼に向かって言い放って、それを後悔するように顔を背けた。
「……そのことを憶えている者もいるだろう。いい笑い者になるだけだ」
 朔は再び絞り出した声で、礼に言った。
「……朔、……私は、あなたをいない人にはできない。……あなたは、私を導いてくれる人」
「綺麗事を言うのではない。……お前は私を嗤っているであろう。……憐れみはいらぬ」
「憐れみなど!なぜ、あなたはそのように思うの。私は今も慕っています」
「お前にはわからぬであろうな。あの時、お前は私から全てを奪ったのだ!」
「……朔……」
 礼は言葉を絶って、両手を震わせた。
「……あなたは実言にお似合いの女性だわ。幼い私は、二人に憧れて、いつか私も運命の男が現れると思っていた。それは実言ではない別の人だと思っていた」
「偽りを言うでない!」
「私は誰よりも近くであなたの思いを見てきたもの。……朔を姉として慕ってきたのだから、朔の思う人を奪うなんて考えていないわ。……あの時も、朔を助けたかった。……そして、朔の思う人を助けたかった」
 礼が左目に矢を受けた時の自分の思いが口をついた。
「……真皿尾一族のことを一瞬にして考えたのだろう。……どうすれば、岩城家とつながりをもてるかと。何かしらの取り付く糸口を探していたのだろう。それが、なんと、実言の妻に納まるとは。お前の払ったその代償は大きなものだったが、しかし、今のお前を見ればそれも小さなことだったかもしれないな」
 朔は言って、背中を向ける。
「……朔、私の怪我が実言にあのような選択をさせるとは思いもよらなかった。朔の苦しみを思うと、私は、あのまま死んでしまいたかったわ。回復していく体が恨めしくて仕方なかった。でも……今こうして、実言の妻となり、実言と毎日の暮らしを営むことを、私は運命だと思っている。あの時、私たちの運命は狂わされたと思ったけど、これが私の運命よ。……実言と共にする苦楽が私にそれを教えてくれる。私にとって実言は代わる人のいない唯一の大切な人よ。狂う前のあの日に戻って、朔に実言を返すことはできないわ」
 礼はそこまで言って黙った。
 月日が朔との確執を溶かすことを期待していた。しかし、朔はまだあの時のことが凝り固まったままその心にあるのだ。奪われたと思う者の気持ちはそう簡単にその苦しみを乗り越えることは難しいのか。朔は、拘っている。しかし、月の宴で見た荒益との仲睦まじい姿や、二人の息子を得ていることは不幸せなはずはないのだ。息子の伊緒理のしっかりとした姿は朔が作り出したかけがいのないものだろうに。
「朔……あなたにはあなたの運命が開かれたはずよ……荒益」
 礼の言葉の途中に朔は振り返り、手に持っていた摘んだ花を礼に投げつけた。
「何を!」
 礼は反射的に顔の前に出した腕に投げつけられた花は当たって下に落ちた。
 朔は礼を睨みつけ、次の言葉を唇を震わせて耐えた。そして限界にきたところで、今度こそ背を向けて、館に向かって走り出した。
 朔はその走りを途中止めることなく、一気に館の階まで戻った。近くで花を摘んでいた侍女が、驚いて寄ってきた。
 苦しそうに息を吐きながら走ってきた朔は、胸の前で握り合った両手を震わせていた。侍女は心配顔で訊いた。
「奥様、どうなさいました」
「……向こうまで花を摘みに行ったが、蜂がいたのよ。刺されそうになって、慌てただけよ」
「まあ、お怪我はないですか」
「ええ、すんでのところで逃げたわ。……幹様にお見せするお花を投げ落としてしまった」
「こちらにありますから、これをお見せしましょう」
 侍女が腕の中の花を指して言った。朔は「そうね」と言って、階を登って行った。

コメント