Infinity 第三部 Waiting All Night102

小説 Waiting All Night

 春日王子の騎馬たちはすぐ後ろを追ってくる馬の姿を見て慌てた。
「あれは、大王の馬だ!」
 最後尾を走っていた兵士が叫び、皆は戦慄した。とうとう大王軍と対峙する時が来たのかと。
「山へ上がる!」
 馬は脚を速めて、山へ上がる道に向かった。
「逃がすな!山に上がる前に仕留めろ!」
 大王軍からそのような声が上がり、一斉に馬の尻が叩かれた。
 腰に吊るしていた剣を引き抜いて、雄叫びを上げた。
 春日王子は自分の前に朔を抱いて、馬の背に揺られているところ、麓で奇声が上がったので思わず振り向いた。山の下では戦が始まろうとしている。
「……王子……」
 春日王子の胸に顔を伏せていた朔が声を出した。
「ん?……どうした?……心配はないよ。もうすぐ頂上だ。そうしたら寝かせてやれるからな。そこまで辛抱しておくれ」
 春日王子は腕の中の朔にそう話しかけて、手綱を握り締めた。
 麓では、大王軍の馬の脚が速く、春日王子の騎馬たちは追いつかれたのだ。
「ここで食い止めますから、どうか行ってください」
 最後尾にいた男は大きな声でそう言うと、腰から剣を抜いて馬の速度を落とし、後ろから追ってきた大王軍の兵士へと剣を振り上げて向かって行った。
 他の騎馬たちはその姿を横目に馬の尻を叩き、山の上へと急いだ。
 これで、山に上がる者たちはその道の上に乗った。
 大王軍は機敏な動きで素早く山裾に兵士を配置したおかげで、春日王子が頼みにしていた波多氏の応援は数人が食料と武器を背中に背負って山を登るにとどまった。
 集まった波多氏の援軍は、山裾の周りに大王軍の兵士がうろついているため近づけず、しばらく山の上を睨んでいたがそのまま撤退していった。
 実言は、馬上で大王軍の兵士たちの動きを見つめていた。
 皆の持ち場が決まり、後は実言から発せられる号令を待つだけだった。
 自然と馬に乗った部下たちが周りに集まってきた。
「これから山に上がる!ここで、この乱を終わらせる。春日王子を生け捕りにするのだ」
 実言の声に呼応する雄叫びが上がった。そこから実言を先頭に、山へと上がる大きな道を塞ぐほど広がって列をなして登りはじめた。
 この山には他に二本の道があるのがわかった。その道は下で兵を待たして、敵が下りてきたところを突くことにした。

 男たちの息の揃った大きな叫び声に、礼は思わず振り向いた。注意深く耳を澄まして様子を窺うと、どうやら大王の軍勢が発している鯨波のようだ。山に上がった春日王子一行をこれから追い上げるのに、士気を高めているのだ。
 礼は、前を向き途中になっていた、なだらかな山の斜面を登り続けた。
 厠に行くと言って護衛の男から離れた。それは本当のことであったが礼は自分で考えて、戻らないと決めた。待っている実言の部下が後で叱られるかもしれないが、礼は実言にその男は悪くないのだ、私が騙したのだ、と言ってやるつもりだ。
 朔のことを考えると少しでもその体に近づきたいと思い、何かいい手立てはないかと際は思案した。目の前の山がそれほど急ではないことを確認すると、礼は一人、この山を登ってこっそりと朔の元に忍び込もうと思った。
 木に巻き付いた蔦を掴み、山の黒い土を爪に食い込ませて、一歩一歩と山頂に向かって登って行ったのだった。
 陽は西に沈んだ。残光が辺りを照らす中、大王軍の馬は血気盛んに上り坂を進んで行く。

 春日王子は、自分の腕の中で荒く息をする朔を感じると、馬の歩みを速めるのもためらわれた。
「王子!敵は下から攻め込んできます!」
 後ろを守っている兵士から声が飛んで来て、春日王子は仕方なく馬の脚を速めた。
「朔、もう少しで頂上だ。そうしたら、体を横にしてゆっくりと休めさせてやる。それまで辛抱しておくれ」
 春日王子は胸に伏せる朔に顔を近づけて囁いた。
 春日王子の視界が開けて、頂上に着いたことを教えた。山の上は平で、いくつかの建物があり、人が寝泊まりする邸はとても立派だ。山頂の狭い土地を有効に使うために、崖の上に柱を組んで張り出した舞台を作っていた。
 春日王子はその舞台の上に朔を横抱きにして上がった。
「これは良い景色だ」
 夕闇の中に浮かぶ稜線と暗い緑の山並みを見て春日王子は言った。
「朔、見えるか?あの山々が。朝が来れば清々しい景色が見れるだろう。明日が待ち遠しいものだ」
 朔は頷いたような、微笑んだような、そのように春日王子には見えた。それで満足し、舞台から邸の中に戻り、やっと朔を横にしてやった。
「よく耐えたな」
 山頂には、波多氏の部下が荷を担いで上がっていたが、女人は誰もいなかった。朔を優しくかゆいところに手の届くような看護ができる者はいなかった。
 武骨な手はどのような手当てをしていいかわからず、春日王子が手ずから朔に水を飲ませた。
 朔は喉の渇きに耐えられず、竹筒の中の水を全て飲み干した。別の竹筒が差し出されて、春日王子はその竹筒を朔の口元に持って行って傾けた。朔は差し出されるままに中の水を飲み、口を離して、もういいというように目を閉じた。それを見て春日王子は朔の辛さを完全に横たえさせた。
「よく眠れ」
 朔を寝かせた部屋から春日王子は出て行き、広間へと移った。目の前には山頂の狭い庭が見えた。下から持って上がった荷物が乱雑に置かれていて、男たちがその周りに座り込んでいた。
 頂上に続く三本の道には見張りと罠を置いている。大きな道には兵を集めて迎え撃つ用意もさせている。
 束の間の休息とはいいがたいが、春日王子は広間に部下たちと座って、竹筒の水を味わった。
 
 実言たち大王軍は歩兵を先頭に山の道を道幅いっぱいに広がって進んでいた。時折、試すように樹の上から矢が飛んできて、歩兵の肩に刺さった。兵士たちはすぐに盾を頭の上に覆いかぶせて防御の形を取った。その後ろに弓を持った部隊が立ち上がってその弓の跳んできた方向に三矢ほど放った。春日王子勢の斥候が木から飛び降りる影が見えた。こちらの矢が当たったのかわからない。一旦退散するために樹から離れたのかもしれなかった。
 矢を受けた兵士は道の脇に座らせられて、何もなかったように隊列は前進した。後から手当てをする役目の者が来て、その兵士を手当てするのだ。
「怯まず進め!前へ進め!」
 騎馬の兵士が大きな声で鼓舞し、歩兵はその声に従って前進する。
 最前列で次々に叫び声が上がり、騎馬の兵士は前を向いた。
 前進していた隊列が停滞して、皆が体を窮屈に寄せ合っている。
「どうした?」
 叫ぶと、前方から叫び声で返事があった。
「穴です。穴にはまってしまって、身動きできません」
 道を横断するように大きな堀が作られており、薄い板の上に土を盛り、落ち葉で隠されていたところに最前列の兵士たちが落ちると、次々と人がその上に折り重なって後ろの兵士も落ちてしまった。意気盛んに進んでいた隊列は急には止まれなかった。
 落ちた者も後ろから進む者も堀にはまったと分かるのには、少し時間がかかった。何人もが折り重なった。しばらくするとその重みに耐えれず、呻き声や叫び声が上がり皆が手を貸して一人一人を掘から出した。
 最前列の混乱は、最後尾の実言のところにも届いた。
 実言は別に驚きもせず、被害の状況を調べて知らせるように言った。
 ここは波多氏の物見のための山である。敵を防ぐために様々な防御の整備がされていてもおかしくないのだ。
 人的被害をどれだけ少なくして頂上へ行くかが問題だ。頂上にどれだけの兵士と武器があるかわからない中、むやみに味方の兵士を失いたくなかった。
 堀は意外に深くて、四人が横に並び進んでいたが、その五列目までがその中に落ちていた。肩を打撲したり、足を挫いたりして痛がる兵士は、脇に避けさせた。そして、無傷の兵士たちは堀に渡す丸太や、掘りを埋めるための土を近くから取って来た。すぐに堀を埋めることはできないが、丸太を四本渡せたので、次々に兵士たちはその上を渡って前進した。
 もう残滓も届かないほどに辺りは暗く、足を挫いて歩けない兵士に松明を持たせて、兵士たちが堀の上に渡した丸太を安全に渡る助けをさせた。
 夜が迫る中、大王軍は山頂にたどり着こうとした。
 この部隊の将軍である実言自身が山頂まで行きたいと思っていたのだ。そこで春日王子と対峙し、次の手を打ちたいと思っていた。
 時折、嫌がらせのように矢が飛んで来て兵士が倒れたが、先頭を歩く歩兵が持つ松明の灯りを頼りに、軍勢は決して止まることなく前進した。
「大王軍はこの頂上に向かって進んできています」
 戻ってきた斥候が春日王子の前に進み出て報告した。
「……この邸の前まで入れないようにしよう。道の途中で迎え撃とう。崖の上から矢が打てるところがあっただろう。そこで奇襲をかけるぞ」
 春日王子の言葉に、頷いて準備に取り掛かった。
 春日王子はその様子を立ち上がったまま眺めていた。
 波多氏とは良好な関係で武器や食料を援助してくれたが、この頂上にいる男たちの人数を考えると、もっと早くに人を大勢よこしてくれてもよかったのにと思うのだった。山の下にいる大王軍に阻止されたのかもしれないが、余りにも少ない。山頂からはみ出すほどの人数をよこせとまでは思わないが、これではどこまで耐えられるか心もとない。
「もうすぐ陽が暮れます」
 都にいる時から、自分の傍にいてくれた金輪が独り言のように言った。
「そうだな……」
 大王軍の将軍である岩城も考えていることだろうな、と春日王子は思った。

 礼はなだらかな山の斜面を登っていた。陽が暮れたが雲に隠れていた月が現れた。山を覆う大きな樹の間から差し込む月光を頼りに頂上に向かっているのだった。
 研ぎ澄まされた神経は、この山を安全に登るために働いていた。須和家の女が持つ不思議な力は時たま都の貴族の中で話題になり、その力を欲しがった。実言もその力が欲しくて礼を選んだと言ったが、その力の継承者である礼は普段の生活の中で継続的に力を感じることはなかった。いつでも思いのままに発揮できるものではない力を、男たちは儚くも求めているのかと思っていた。
 しかし、今はその力のありがたみを感じる。礼の中にあるこの斜面を登れば朔に会えるという確信が突き動かしていた。脳裏によぎる少し先の未来が見えるのだ。
 朔よ、朔よ。待っていてね。すぐにあなたの傍に行って手当てをしてあげる。
 礼は、泥まみれになりながらも山頂にたどり着きつつあった。

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