Infinity 第三部 Waiting All Night104

朝顔 小説 Waiting All Night

 目が覚めたら、真っ暗でここはどこだろうか、自分はどうしてしまったのだろうか、と混乱した。想像でしか考えられない黄泉の国の入り口はこんなふうに真っ暗で、そこに自分はいるのだろうかと思った。気づくことなくここまで来てしまったことに物悲しさを感じもするが、反面そうなってよかったのだとも思うのだった。
 朔が身じろぎすると、近くで板がきしむ音がした。
「……朔……目が覚めたか?」
 春日王子は簀子縁と部屋の境の縁に座って、外を眺めていたのだが、朔の動く気配を感じて部屋の方へ身を乗り出したのだった。
「……王子……私……」
 朔は急に声を出そうとしたが、口の中が渇いていてはっきりとした言葉が出せなかった。
「水だ。飲みなさい」
 春日王子は朔の上半身を抱き上げて、左手で朔の唇を探した。指先が朔の口を触ると、右手で水の入った竹筒を持って行き、口元にあてがった。
 朔はゆっくりと竹筒の水を飲み干した。春日王子は別の竹筒に持ち替えて再び朔の口元に持って行く前に言った。
「どうだ?気分は?」
「ええ、だいぶ」
 朔は小さな声で答えた。
「そうか、死んだように眠っていたから心配したよ」
 春日王子はそう言って朔の頬を撫でて、また竹筒を口元にあてた。
 朔は竹筒から少量を二口ほど飲むと、もういらないと春日王子の右手に手をかけた。その合図に気付いた春日王子は竹筒を置いて、朔の体を後ろから抱きしめた。
「私は王子のお役に立てなくて心苦しいですわ」 
 朔は言うと、春日王子は答えた。
「そんなことはない。お前が傍にいてくれるだけでよい。それを私は望んだのだ」
 朔は自分を抱く春日王子の腕に手を添えて返した。
「嬉しいお言葉」
 朔は言って笑った。暗闇の中で自分の表情が伝わらないことなど気にしなかった。笑えばこの腹の痛みが和らぐように思えた。
 この腹の痛みは腹の中の子の生死に関わる気がした。
 どうかこのまま収まって欲しい。誰に望まれて自分の腹の中に芽生えた命かわからないが、失ってしまうのは悲しかった。生まれれば苦労も多いだろうが、それは新しい運命の始まりであり、朔には嬉しい出来事である。礼に従って春日王子と別れて、安全な場所で無事に身二つになればよかったかもしれない。姿を消したら愛する男には不可解に感じるだろうが、それはそれでもよかったのかも。
 しかし、礼ではなくこの男の手を取ったのだからそんなことは考えても仕方ないこと。そして、今男はこうしてかいがいしく世話をしてくれる。これほど優しい人だっただろうか。
 人の心を弄ぶように愛人同士を嫉妬させて、刃傷沙汰も起こっていた。朔も目の前で身分の低い女官に熱を上げて袖にされた時に悲しい思いをした。それが、今は朔だけを頼りに朔だけを傍に置きたいと言ってくれる。
 少しばかりの間その甘い言葉に浸って、心に起こる波紋を穏やかにする。
 しかし、腹の痛みは収まらない。
「……真っ暗……」
 朔は呟いた。
「……月が出ているのだが、今は雲に隠れてしまった」
 春日王子は少しばかり明るい声を出して言った。
「暗いのが怖いか?」
「いいえ。あなた様が傍にいてくださったと分かって、心強いですわ」
「真っ暗闇の夜を越せば夜明けだ。朝日が昇れば照り映える山々の景色が見えるぞ。さぞ美しいことだろう。一緒に眺めよう。一つ一つが旅の思い出になるだろう」
 朔は頷いた。春日王子は朔の頬に当てていた手からその意思表示を感じ取って、頬を撫でて返した。
「まだ夜だ。お前には随分と無理をさせたから、もっと体を休めないといけない。お眠り」
 そう言って、春日王子は朔の体を褥に横にした。
 朔は暗闇に目が慣れて、離れていく春日王子の影の輪郭を目で追っていたが、体は疲れていてひとたび目を瞑るとそのまま眠りについてしまった。
 春日王子はまた簀子縁と部屋の間の縁に腰を下ろして外を眺めた。
 こんなにもまんじりともせず朝を待つことが今までにあっただろうか。ひと時も目を閉じることもできず、待ち続けるのみの。
 興奮した頭は本来の目的を忘れさせてしまったようで、自分はなぜ朝をこんなにも待っているのかと思った。
 朝日が昇れば生まれ変わったように生きれるというわけでもないのに。
 しかし、春日王子は新しい日が始まるまでの間をじっと待った。
 
 実言は疲れて眠る兵士の間に自身の身を置いて、じっと東の空を見ていた。
 この夜を越せば、その時は来る。
 闇夜に討ち入るなんて、考えもしないこと。この夜をじっと耐えて待つのだ。春日王子は覚悟を決めただろう。ここで、大王軍を突破して東国へと行けば、大王軍の面目を潰し、春日王子が大王の位を継ぐにふさわしいと、都人にも東国に行くまでの国々にも知らしめることができる。
 実言はその心意気に真っ向から立ち向かい、春日王子を生け捕りにして都へと帰還しなければならないない。
 
 礼は目を閉じたら気絶した。山頂まで登って、木の幹にぴったりと体をくっつけてその陰に潜み、あたりの探索に行く荒益を見送ってからの記憶がないのだ。山頂までの道のりに、恐怖を感じていたところに、荒益が現れて手を引いて山頂まで上げてくれたことは、とても心強かった。その安心が、敵陣の中に入ったというのに緊張の糸が切れて眠ってしまったらしい。
 どれくらい気絶していたのか。
 気がつくとすぐに目を開けて、といっても右目だけだが、その目で辺りを見回した。荒益はいない。まだ戻ってきていないのか。
 しかし、礼は人の気配を察した。
 荒益……いや、荒益ではない。こんなに警戒した気を発しているのだから。敵に違いないのだ。
 どうか気づかずに、このまま離れて行って欲しい。
 礼は祈った。近くで枝を踏んでポキと鳴らす音が自分の足の微妙な体重移動で鳴ったのかと思い、息を呑んだ。しかし、それは相手の足の下で鳴ったもので、相手こそ驚き動きを止めてあたりを見回した。
 静寂が過ぎた。
 と思ったら、いきなり木の陰から男が礼のいる方へ顔を出した。
 礼は叫び声を上げそうになったが、再びその声を呑み込んだ。
「誰だ!」
 低く抑えてはいるが、鋭く礼を突き刺すように発せられた声に身がすくんだ。そして、手が伸びてきて礼が幹の上に置いていた腕を取った。相手は、その腕を持ち上げて礼を引っ張った。
 礼は無駄な抵抗はせず、引っ張られるままに幹から飛び出した。
「……女」
 男は潜んでいた者を引きずりだし、全身を見て呟いた。
 礼はじっとして、その男が次に何をするのかを待った。
「……何者だ?」
 礼は答えずに顔を上げた。顔を上げたところで近くの茂みからこちらを見ている荒益の顔を見えた。すぐにでもこちらに駆け寄って来て、礼の目の前の男を切りつけてしまいそうだった。
「……なんだ?笠根、どうした?」
 別の見回りの男が、礼の目の前の男の戻りが遅いので、不審がって様子を見に来たのだ。相手が二人では分が悪い。
「女だ!女が潜んでいた!」
 握っている手を引っ張って笠根と呼ばれた男は、礼を引っ張っていく。礼は、荒益の方に掌を向けた。そのまま、待てとの合図だった。
 荒益は、もう一人男が向こうから近寄ってくる姿が見えて、礼の意図が見えた。ここで突っ込んで行っても、二人を斃せるかわからない。
 荒益は身を低くして姿を隠して、少しの勾配を登って礼の姿を追った。
「女?」
 笠根を探しに来た男は、怪訝そうに近づくと、そこには小柄な女人が手を掴まれて立っている。
「あや!」
 女人の顔を見ると男は驚きの声を上げた。
「なんだ、笠縄」
 笠縄と呼ばれた男は、その女人が誰だかわかって驚いたのだ。左目に眼帯をした女人などこの世に何人もいないだろう。
「その女人を知っている」
「はっ?」
「その人は、春日王子のお知り合いだ」
 笠縄が近づいてきて、笠根の手を取り礼の手から切り離した。
「なぜ、こんなところにいる?どうやって?」
 今度は笠縄が礼を捕まえて問い詰める。
 礼は声でこの男が誰だかわかった。よく思い出せば、その男の名は笠縄だった。
 ここまでの道中、礼を馬の後ろに乗せて何かと気遣ってくれた春日王子の従者である。
「……私は春日王子と一緒にいる女人の付き人なのです。ついて来るなと言われても、私は付き添いたいの。だから、諦めきれずにここまで来たわ」
「一人か?」
「ええ、一人で登ってきたわ」
「なぜ、ここに春日王子がいるとわかった?」
「麓には、大勢の大王の兵士がいたわ。皆、山に登ると意気込んでいたから春日王子はこの山の頂上にいるのだと分かったの。だから、大王の兵士に見つからないように一人で道のない山肌を登ってきたのよ」
 笠縄は礼の姿を見下ろした。頬は土と汗で汚れていて、手も爪の中まで土で黒くなり、もちろん着ている服は真っ黒だった。
「……笠縄、その女をどうするんだ」
「邸に連れて行く。春日王子に報告しなければ」
 笠縄は礼の腕を捕まえなおして、邸の方へと引っ張った。
「おい!笠縄!」
 笠根は怖い顔をして邸の中に向かう笠縄を追いかけた。
「今、ここはどうなっているのかわかっているのか?」
 笠縄は歩きながら、礼に聞いた。
「……ええ」
「わかっているなら、ここには来ていないはずだ。この山は大王軍に囲まれている。我々が山を無事に下りる可能性は限りなく低い。そんなところにのこのこ上がって来るなんて、死にに来たようなものだ」
 笠縄は声を落としているが、怒りに満ちた声音で言った。
 しかし、礼は笠縄の声に負けず、ひそめた声に変わりはないが、鋭く言い返した。
「……まだわからない。死ぬか生きるかは、春日王子にかかっている。春日王子が生きることを望めば、ここにいる者たちはみな生きることもできるわ。だから、私は春日王子の女人の世話をしながら、その望みに賭けるわ」
 笠縄は仄暗さに目が慣れて、礼の顔がどこを向いているのかが分かった。一つの目が、こちらをじっと見つめている。
「春日王子のところでなく、女人のところへ連れて行って。あの女人は朔というの。体はもう動けない程に弱っているでしょう。だから、そこへ行きたいのよ」
 それまで引っ張っていた笠縄が逆に引っ張られる格好になった。礼の体の方が前に行き、邸に近づいていく。
「おい、春日王子なら広場だぞ。皆、そちらに集合している」
 追ってきた笠根が囁き声で笠縄に注意する。
「……そうなの?皆、広場に集まっているの。であれば邸には朔が一人ね。早く連れて行ってちょうだい」
 聞き耳を立てていた礼は、すぐに笠縄に言った。
 笠縄は立ち止まった。礼は手を引っ張る形で止まった。笠根は急なことで笠縄の体にぶつかって止まった。
「……邸の中は簡単さ。その女人は奥の小さな部屋に寝かされている。邸に入ったら、臆せず奥へと入れ。そこまでは教えてやる。後は自分の力でやってくれ。あんたの賭けとやらがどっちに転ぶか、見てやるよ。私には私の従うことがあるからな」
 礼は、その言葉に頷いた。
「お礼を言うわ。あなたも春日王子を信じて」
 笠縄は捕まえていた礼の腕を話した。礼は背中を向けて邸へと静かに走って行った。
 笠縄は去っていく女人の背中を見送りながら、お互いの無事を祈った。その女人の素性をよくは知らないが、ただの侍女ではないことはわかった。そして、その柔軟で諦めない姿が好ましくて、本来なら春日王子の前に連れて行くことが正しいのだが、行かせてしまった。だが、そこに悔いはないのだった。
「笠縄!いいのか行かせて?」
 笠縄にぶつかった衝撃で顔を押さえて痛がった笠根は痛みが遠のいたところで、走って行く女の姿に驚き、笠縄に飛びついた。
「いいんだ。たいしたことにはならないから。……でも、これを誰にも言うんじゃないぞ。言ったら、弟のおまえでも容赦しない」
 と笠縄は釘を刺した。

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