Infinity 第三部 Waiting All Night106

小説 Waiting All Night

 朝日は完全に山の上に上がった。
 実言率いる大王軍は焦ることなく血気盛んに声を上げて進む。
 山頂での決戦。春日王子は物分かりよく降伏するだろうか。
 実言は周りの兵士と共に歩いて、山頂へと上がる途中にその思いが頭の中を巡った。
どうか、穏やかな話し合いができますように。しかし、これが最後と徹底抗戦されたら厄介である。
 考えが巡っている中で、怒号が上がった。
 前方から緊張が伝播してきて皆の動きが止まった。
「どうした?」
 実言の前にいる副将が前方へと問いかけた。
 暫くすると、人の波がさっと左右に別れて道を作り、駆け下りてくる男を通した。
「申し上げます。山頂へと登り詰めましたが、そこで弓による攻撃を受けて、数名負傷しました。すぐさま応戦しております。数では有利でありますから、そのうち圧していけると思われます」
 実言は頷いた。
「そこは突破しろ」
 兵士も頷いて、また来た道を駆け上がって行く。
 実言は自分自身も前線へと行く準備を始めた。
 山頂はそれほど広くはなく、崖に物見も兼ねた張り出した舞台を持った邸があることは斥候から聞いている。
 実言は館の中に相手を押し込めて、春日王子と話そうと思っていた。

 春日王子はひとまず、舞台に出る手前の部屋に腰を下ろした。抱いてきた朔も傍へと座らせた。
「水をくれ」
 春日王子は近くにいた部下に言って、腰に下げた竹筒を取り上げたところを奪うように手を出して受け取り、喉を鳴らしてその中身を飲んだ。
「朔、お前も飲んでおけ」
 春日王子は朔の顔を見て、竹筒を朔の口元へつけて飲ませた。
 性急な春日王子の行動に朔はされるままに流し入れられて、口の中に収まりきらず口の端から水の筋を垂らした。
「山頂に攻め込まれたら、邸の前を固めろ。邸の中には入れるな」
 春日王子は言うと、目の前の男は邸の外に走っていた。
「はあ、はあ、やはり、うまく行かないものだな」
 春日王子は息をつきながら独り言を言った。その時、都からついてきた腹心である金輪常道が春日王子の前に跪いた。
「王子、あなた一人であればこの山から下りることは可能です。どうか、兵士の姿に変わって、山を下りてください。そうすれば、波多氏と合流し、東国に向かえます」
 金輪の表情は鬼気迫るもので、春日王子はその顔を見つめたが、すぐに視線を外した。しかし、金輪の心は決まっていて、春日王子が目を逸らすと、その視線を追って両肩を揺すった。
「金輪、私はお前たちを置いていけるだろうか。思えば無謀なことだったかもしれない。都にとどまり、偽りでも大王に恭順の心を示していれば、また違う道が見えていたかもしれないな」
「諦めてはいけません」
「諦めてはいないよ。だが、追い詰められた中で、自分だけが逃げられるかということだ。権力のために汚いことをしたが、私一人だけになっても権力への執着を燃やせるだろうか。こんな山の上に来て、今はそんな心境さ」
 春日王子は立ち上がり、それに伴って金輪も朔も立ち上がった。金輪は春日王子の正面に立ちはだかった。
「王子!」
「逃げずにこの先の道を開くことはできないだろうか」
「王子、そのような問答をしている暇はないのですよ!」
 春日王子は現実を直視しているのか、それとも逃避しているのか、金輪の声を聞かずに端然として舞台の方へと顔を向けた。
「王子!敵が!」
 庭の方から、兵士が駆け寄ってきた。
「敵が庭へと入ってきました。応戦していますが、それもいつまで持つかわかりません」
 春日王子は朔の腰に手を回して引き寄せ、奥にある舞台の方へと向かおうとした。
「王子!」
 金輪は叫ぶ。
「ここは近い。舞台の方へ行く」
 王子は無視するように、朔を連れて舞台の方へ、明るい方へと歩く。
 しかし、抱きかかえる朔の体は重く、自分に着いてこない。春日王子は、朔を見下ろした。
 真っ白な朔の顔が春日王子を見上げていた。
「……王子……私……」
 朔は体を前に折って板に突っ込みそうになるのを、春日王子は腰に回した手で止めた。朔は呻いてその場にしゃがみこもうとする。
「朔!……どうした?どうしたのだ!」
 兵士が邸の中に雪崩れ込んできた。邸の前まで大王軍の兵士が来ているのが分かった。怒声が飛び交い、槍を打ち付け合う音が聞こえる。
 しかし、春日王子はそんなことは耳に入らず、しゃがむ朔を抱き起すのに必死だ。
「朔、立ち上がれるか?どうしたのだ……」
 春日王子は朔の抜けた腰を抱え上げようと手をやると、朔の腹は濡れていて、濡れた気持ち悪さが伝わった。春日王子はその手を見て、驚いた。
 手が赤く染まっている。
「朔?」
 朔の腹から血が流れている……。春日王子はすぐに朔の身に起こっていることが飲み込めない。
「怪我をしたのか?……血が……」
 そう言って、朔の腹に手をやる。すると、朔は呻いて嫌がった。
 春日王子は朔と共にそこに座って、朔の頤に手を添えてその顔を覗き込んだ。
「朔……」
 瞳の奥を覗いて何か言えと、春日王子は言っているように朔は思えた。
「……あ……」
 朔は体に力が入らない中、必死で口を動かした。春日王子は、朔の口元に耳を近づけてその声を聞き漏らすまいとした。
「……王…子……。私……腹には……子が……」
 そこで、朔の声は途切れた。しかし、春日王子は朔の言わんとすることを理解すると雷に打たれるような衝撃が体を貫いた。
「……朔!それは、私の子だろう?」
 朔は頷きも、首を左右に振ることもなく、じっと春日王子を見つめている。しかし、春日王子には朔がそうだと言っていることが分かった。
「なぜ!なぜ、それをわかった時に知らせてくれなかったのか!朔!私の子であるのに!」
 春日王子は朔を吹き飛ばしてしまいそうなほどの剣幕で言う。朔はその言葉を聞くと、知らずに涙がこぼれ出た。
「……王子……子が……いないのは……望まれ……ていない……のだと……」
 朔は息も絶え絶えにそう言うと、春日王子は激しく頭を振った。
「違う!違う!」
 春日王子は朔の目からこぼれ落ちる涙を親指で拭ってやりながら言った。
「それは違う!朔!誰も……誰も、私の子を成してはくれなかった。私は自分の子が欲しかったのだ。これほどに切望していたものは他に無い。しかし、数多の女人を相手に選んだが誰も私の子を成してくれなかったのだ」
 春日王子は、朔の頬を撫でて、頭を抱き寄せ頬ずりした。
「朔……朔……なぜ、私に話してくれなかったのだ!昨日、今日わかったことではないだろう。子がいると分かった時に私に打ち明けてくれていたら、私は、お前の夫に頭を下げてお前を譲ってくれと言った。そして、その子のために我が地位、財産、人生全てを捧げて育てた。お前ともに、我が子を……」
 春日王子の言葉に、朔は打たれた。春日王子の目尻から幾筋もの涙がこぼれているのを見ると、王子がどれほどに子を望んでいたのかを思い知った。強い春日王子が、これほどもろく泣いている姿など想像もできない。
 そして、自分の股の間から流れる血と共に死んでしまった春日王子の子のことを思った。あの子は、この世に生まれて来たかっただろうか?そうだとしたら、申し訳ないことをした。
「朔、お前だったのだな。私を受け入れ、私の夢を叶えてくれる女人は。私はお前をもっと大切にしなければならなかったのだ。それを怠ったから、お前は私を信じてくれなかったのだろう。馬鹿なことをしたものだ」
 春日王子はそう言って、朔の髪を愛しくたっぷりと撫でた。
 金輪は春日王子が朔と抱き合う姿を立ったまま見下ろしていた。
 春日王子がはっきりと話したことはないが、自分の後を託す子供を望んでいたことはわかっていた。妻である藍妃との間に子ができないと、手当たり次第に女に手をつけた。ある時、春日王子が貴族の中に多産の家系の女はいないかと尋ねたことがあった。母親も姉も多産の女を王子の閨に連れて行ったこともあった。しかし、子ができたという女人はいなかった。
 もし、この朔という女が妊娠したことを言っていれば、春日王子は今、大王から権力を奪おうなどとは考えなかっただろう。自分でなくとも、我が子がその権力の座に着けるように準備しただろう。自分でなくとも、自分の血筋がその権力の座にいられるように。
 しかし、時すでに遅し。春日王子は謀反の罪で都を追われ、このような山の上に追い詰めれた。女人のこの出血を見ると子供も死んだということだ。何も、無くなったのだ。
 金輪は暫くの間、春日王子の憐れに思えるその生涯に思いをはせていたのを、ぶち破るように、怒声と共に多くの兵士が入ってきたので、庭の方を振り向いた。
 赤い短甲をつけた兵士が見えた。それは大王軍の兵士の証である。大王軍が邸の中にまで入ってきたのだ。
 金輪は声を荒げて春日王子に言った。
「春日王子!敵が邸の中まで入ってきました。私たちはもう、あの背後が崖でしかない舞台の上しか逃げ道はなくなりました。あなたは、どうされるおつもりです?」
 苦しそうな息遣いの朔を抱いたまま春日王子は、顔を上げた。
「相手と話がしたい。交渉役に話をつけてくれ。こちらも汚い手は使わない。お互いの身の安全を保障して話をしよう」
 金輪はすぐに振り返って、庭の方へと向かった。
 春日王子は金輪の後ろ姿がこちらに逃げてくる兵士によって見えなくなると、朔へと目を戻した。
「朔、苦しいか?」
 朔は何も言わず、春日王子の顔を見ている。
「聞くまでもないな。こんなに出血しているのに。自分の体がどうなってしまうか、不安に違いない。腹は痛み、苦しいに決まっている。お前をこれ以上酷い目に遭わせたくない。お前が大切だ」
 春日王子も朔を見つめて、ふっと口元を緩める。微かな笑みに見えた。
「王子、話して参りました。相手はいつでもいいと言っています」
 春日王子は頷いて膝を立てて朔を一緒に立ち上がらせようとした。体が安定せず後ろに倒れそうになるのをそのまま見ておられず金輪が後ろから手を貸して立ち上がらせた。
「すまないな……苦しいだろう」
 春日王子は、後ろにいる金輪の方へ顔を向けて言い、その後の言葉は朔の顔を自分の胸に引き寄せて、頭を撫でながら言った。
「前を開けてくれ」
 少なくなった味方の兵士に囲まれている中、朔を抱えて広場前の邸の庇の間まで進んだ。
「話し相手は誰だ?誰が交渉役だ」
 春日王子が腹から声を出して階の下に並ぶ大王軍の兵士の顔を見まわした。
 朝のしんっとした空気の中に、返事をする声が発せられた。
「私です」
 前面の兵士の間から階の真下中央に歩いてきて止まった男を春日王子は見た。
「岩城実言でございます。この軍の指揮を取っています」
 春日王子は下を向いていた男が、階の下で顔を上げたのを見て、にやりとした笑みをこぼさざるを得なかった。
 やはりという気持ちだ。
「この部隊の将軍がこんなところまで来ているとはな。山の麓で私を捕まえたとの報告を待つものじゃないのか」
「私は大王から直接の命を受けておりますから、春日王子とこうして対面して大王のお言葉を伝えなければなりません」
「ふんっ」
 春日王子は鼻を鳴らした。
「いい気なものだ。しかし、その前にこの女を渡したい」
 かろうじて立ち、春日王子に身を預けている朔を見て言った。
 朔は苦しい中でも、春日王子が言っていることが分かり、頭を動かした。それを感じ取って、春日王子は朔の頤に指をやって少しばかり上げさせたその顔を見て囁いた。
「朔、私たちはいつか死ぬものだな。遅かれ早かれ。私が先か、お前が先かわからぬが、この世では行き違いがあって私たちの仲はうまくは行かなかった。しかし、黄泉の国では必ず再会しよう。その時、お前は私の子を抱いていて、我らは夫婦になるのだ」
 朔は春日王子の言葉を聞くと、感情の涙が出た。

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