Infinity 第三部 Waiting All Night107

椿 小説 Waiting All Night

 その時階の下に立つ実言に駆け寄ってきたのは荒益だった。大王軍が山頂の守りを突破したのに乗じて、荒益は礼を部屋に残して大王軍に合流したのだった。その荒益が、実言に言った。
「実言、私に朔を受け取りに行かせてくれ」
「……荒益……しかし……」
 実言はすぐに諾とは言えなかった。両軍が見ている前で、反逆者に抱かれているのが自分の妻と知れたら、その一族にどのような傷がつくものだろうか。悪くすると逆賊の罪を掛けられかねない。
 実言が瞬時に判断しないことをいいことに、荒益は階を三段ほど上がって声を上げた。
「その女は私の妻だ。妻を返してもらおう。人の妻を騙して連れ去り、このようなところまで慰みのために同伴させるとは!いくら王族といえども許さない」
 荒益はそう言って、一気に階の上まで登った。
 そこには、春日王子の脇に抱えられて、顔をその胸にうずめている自分の妻がいた。直視するのは耐え難い光景だが、荒益は真っすぐに春日王子を睨んだ。
 その視線を真っ向から受けて、春日王子は叫んだ。
「待て!その男はだめだ。だからといって他の男もだめだ。今は交渉中だから、お互いの身の安全を保障するとは言っているが油断ならん。この山頂に女がいるだろう。その女を受け取りに来させろ」
 もっと前に進もうとしていた荒益はその前のめりになる体を抑えた。
その場の多くの者が戦場になりつつあるこの山の上に女がいるなどと思わず顔を見合わせた。
 そこへ邸の中から、春日王子と荒益の間に進み出てくる小柄な人影が現れた。
 実言はその影が、部屋の陰から朝日に照らされるところまで進み出て来た時に目を瞠った。
「私が今から行きます。朔を受け取ります」
 麓にいるはずの礼が姿を現し、春日王子と朔の方へと歩いて行く。
 やられた!と、実言は心の中で舌打ちした。我が妻が大人しく麓で待っているような女人ではないということはよくわかっているはずなのに。だから、この山頂にいても、驚いてはいけないのだと、再び思い知らされた。緊張の中に、我が妻らしさを感じて笑ってしまいそうになる。
 群衆は急に現れた女に驚き、声が上がったが礼にはその声は聞こえない。ぐったりとした朔の元へ行き、その体を受け取ることだけに集中していた。
「朔……」
 その声は、とても、とても優しく朔の耳朶に届いた。春日王子が呼んだのだ。
「この世のお前の夫はあの男だ。あの男も、私と同じようにお前を愛しているのだろう。自ら名乗りでて、お前を受け取ると言っている。今はあの男にお前を返す。これ以上私に付き合わせて恐ろしい思いや苦しい思いをさせたくない。しかし、先ほど言ったであろう。黄泉へ行ったらその時には、私は必ずお前を探し出す。再会しよう。朔、それまでの別れだ」
 春日王子の目の前に礼が立った。
「春日王子様、朔をこちらへ」
 両手を差し出した礼に、春日王子は冷笑した。
「お前が抱いて戻れると思うのか?」
 と言った。それならばと、礼は背を向けて朔を背中に乗せてくれと示した。
 春日王子は黙って朔を礼の背中へと導いた。
 礼は背中を丸めて、朔を背負うとその体がむやみに動かないように気を付けて一歩一歩荒益の方へと歩いて行った。
「朔……もう少し辛抱してね。私はあなたを助けるからね」
 礼は呪文のように同じことを繰り返し言った。痩せた朔の体でも、小柄な礼には負担でよろけそうになりながらやっと荒益の前までたどり着いた。
 荒益は三歩ほど前に出て朔に駆け寄り、礼は荒益の方へ背を向けた。荒益は目の前で礼の背中にかろうじて止まっている小鳥のような妻に両手を広げたが、朔は微かに首を横に振った。
「朔、いいんだ。私のところに来ておくれ。何も心配することはない。苦しい思いをさせたね、すまない」
 そう言って、礼の背中に顔を伏せたままの朔の腕を取り、自分の首に回すと、膝の下に腕を入れて横抱きにした。
「……あなた……汚れます……やめて……」
 絞り出すように小さな声で言った。朔の腰から下は、薄い黄の裳を血で染めつつあった。
「何を言うんだ。お前を取り戻せたというのに、体裁などどうでもいいこと」
 荒益は朔をもう一度抱きなおして、後ろに振り返った。その姿を階の下にいる大王軍の兵士は固唾をのんで見守っているが、荒益は構うことなく階を下りると実言に会釈をしてそのまま真っすぐ進む。兵士たちは自然とその体を避けて荒益の前には道ができた。その後を礼が追いかけた。実言の傍を通る時に一瞬夫と目を合わせた。勝手なことをしてこんなところにいることをさぞ怒っているだろうが、礼は夫と次に会った時に心を込めて謝ろうと思い、素通りした。
 実言は少しばかり顔を後ろに向けると、すぐさまそれを感じ取った岩城家から連れて来た兵士、高瀬が近づいて実言と話すと礼を追っていった。
 朔を都までは連れて帰れまい。麓の邸に部屋を借りて、そこで看病するのが妥当だ。それをさせるため、実言は荒益と礼に従者を手伝わせるために人をやったのだ。
 礼はその腕にぴったりと朔を抱いた荒益の後ろを歩いた。大王軍の兵士の波を抜けてしまえば、その後にこの三人がどうなったかなど誰も気にしない。
 朔の出血は、お腹の子が流れたのだと礼は悟った。過酷な逃走の旅に朔もお腹の子も耐えられなかった。
 お腹の子のことは、春日王子も知るところとなったのだろう。春日王子は無念そうな表情をしていたが、朔を見つめるその目はとても優しいものだった。朔を責めるところなどなく、それよりも愛しんでいた。
 その反面、今、こうして夫の手の中にいる朔は、不貞の末に愛人の子を身籠って、流産し、この先自分の体がどうなるかわからない状態である。
 朔の心情はどうだろう。もう、夫の手から逃れて消えてなくなりたいと思うだろうか?
 一瞬たりともそう思わないと言ったら嘘になるかもしれない。でも、このまま荒益から逃げてしまってはだめだ。荒益という男の愛と葛藤を知らなければ。
 朝日が山を越えて差し込んでくる中、山頂から山道を下る礼、荒益、朔は、戦闘で命を落とした者たちの骸が折り重なっていたりぽつんと置かれていたりする中を止まることなく進んで行く。
 途中に、歩けない負傷兵を板に載せて麓まで運んでる兵士たちから、朔を板の上に載せて運ぶことを勧められたが荒益は断った。朔を手離すのを嫌がっているようだった。
 麓に近づくと負傷した兵士たちを助けるため、または亡くなった兵士を運ぶために大きな声や音がして騒がしい。朔の体の緊張が伝わった荒益は、朔の耳元に口を近づけて言った。
「大丈夫だよ。私がこうしてお前を守っているのだから。安全な所へ行って、体を休めよう。もう少し辛抱しておくれ」
 礼の後ろをついてきていた、岩城家の兵士高瀬が礼に追いつき話しかけた。高瀬は荒益の妻である椎葉夫人を休ませる部屋を見つけてくると言って走って行った。礼は頷き、高瀬は荒益と朔をも追い越して姿が見えなくなった。
 麓に着くと、礼は近くの小川から二つの竹筒に水を汲んで荒益のところへ運んだ。
 朔を抱いたまま座り込んでいた荒益に礼は一つの竹筒を渡し、もう一つを大事に持って朔の口元にあてがった。
 目を瞑っていた朔は薄っすらと開けて、ぼんやりと目の前の人影を見る。
「朔!水よ、飲んで」
「……礼」
 朔は喉が渇いていたから、竹筒の先から注がれる冷たい清水を少しずつ飲んだ。
「待ってね。今、安心して休める場所を探しているから」
 ぼおとしていた朔は霞んでいた視界がはっきりして礼を見た。そして、真上に夫の顎が見えた。
「……あっ」
 朔は小さく叫んだ後、やっと声を出した。
「あなた……」
 荒益を呼ぶ声に、荒益は笑顔を作って応えた。
「……私……あなたを……」
 それは、礼には自分の不貞を告白する合図のように感じた。礼は、それが今でいいのかと思い朔を止めようかと思ったところに高瀬がやって来て、近くの邸を手配したと言った。
 荒益はすぐに朔を抱き上げて、案内する高瀬の後ろについて行った。
 暫く道なりに歩いて脇道を入り林の中を進むと小さな古い邸が現れた。庭には負傷した兵士が座り込んでいて、老女が竹筒から水を飲ましていたが、そこを抜けて階を上がると中はがらんとして、誰もいなかった。
「この邸の主人は逃げ出したようです」
 大王軍の兵士があふれるように庭へ入って来て驚いて逃げて行ったのだ。
「庭にいた老女は近所から下働きに来ている者のようです。邸がもぬけの殻で、知らない兵士が階の上に座り込んでいたと話していました。不安がっている老女を、守ってやると言って、この邸を借りたというわけです。勝手ですが」
 部屋へ入ると、高瀬は古い褥を出してきて敷いた。朔をそこへ寝かせるのは忍びないが、固い板の上はもっとよくない。荒益はその上に朔を優しく寝かせた。
「朔……」
 荒益は妻の名を呼んだ。
 ぐったりとした朔は、辛そうに瞼を振るわせてゆっくりと目を開けた。
「……あなた……私は……」
 必死で言葉を縛り出そうとする朔に荒益はそっと頬に手を当てて、朔の言葉を遮る。
「朔……私の妻になって幸せかい?こんなふうに苦しんでいるお前を見ると、とてもそうは思えなくてね。私はお前にとって良い夫にはなれなかった。そして、この先も私はお前にとって良い夫ではないからね」
 荒益はそう言って、朔の頬に当てた反対の手で朔の胸に垂れた髪を撫でた。
「だけど、私の妻のままでいて欲しい。美しいお前を他の誰かに渡したくはないのだ。たとえ王族だろうとね……」
 荒益は両手を回して寝ている朔の頭を抱き、朔の頬に自分のそれをこすりつけるようにして頬ずりした。
 朔は体に沿わせておかれていた手をゆっくりと上げて自分を抱く荒益の肩へと載せた。
「……あなたと……私は幸せ……」
 頬を合わせたことで、荒益の耳は近くなり、朔の頼りない声は荒益の耳朶に届いた。荒益は何度も頷いて、その度に朔の頬にその動きは伝わり、頬が上下に動いた。
「……朔……」
 顔を上げた荒益の目から一筋の涙がこぼれた。
「私はお前の傍にはついていられない。都にも連れて帰ってやれない。こうやって、お前を春日王子から奪い返したが、私はお前をここに置いていく」
 荒益は薄っすらと開いた朔の目を見つめた。
 朔の瞳には荒益がいっぱいに広がって映っている。その目から涙が溢れて、朔の頬にその雫が落ちるのが見えた。寒さを感じる中で、自分の頬に落ちて来た雫は温かく感じた。
 今度は朔がゆっくりではあるが頷いた。一度、二度。
 朔には荒益の思いはわかっている。
 苦しんで耐えられなくて、泣いてくれているのね……。私のために。
 反逆者と共にいた事実を大王軍の兵士たちは見ている。荒益がそのままその女人を都に連れて帰ったら、どのように思われるか。政治的に扱われて、反逆者の一味に仕立て上げられる可能性もある。それは、荒益の気持ちだけで背負う汚名としては重すぎる。一族全員がその汚名を着せられたら、皆殺しにあうだろう。
 それはだめだ。二人の子供、幼い伊緒理も孝弥も容赦なく殺されてしまう。そんなことを誰が望むだろう。そうさせないためにも、荒益は泣きながら朔を切り捨てる選択をするのだ。
 思い返せば今の今まで夫の愛を失ったことはない。これから先も、それは尽きることはない気がした。
 荒益に非情なことを言わせているのは自分が蒔いた種だろう。春日王子に魅せられて通じてしまった罪だ。腹の痛み、股からの出血からして自分の死を覚悟しなければならない。その中で現世の気がかりは二人の我が息子だ。
 荒益は伊緒理と孝弥を守ることを宣言しているのだと朔はわかっている。
 だから、頷くのだった。荒益の言葉に納得していると。親ならどう行動するべきかわかっている。
「朔!朔!美しい我が妻よ。愛している。だが、ここでお別れだ。寂しい……苦しい……悲しい……愛しい朔……だけど……さよならだ……」
 荒益は朔の手を握って押し殺した声音で言った後、握った手を離すことができなかった。それは、朔もできなかった。自分から離してしまうことはできなかった。
 そっと荒益の背後に立ったのは礼だ。高瀬と共に庇の間に下がって荒益と朔の二人きりの空間を保っていたが、頃合いを見て礼は荒益と朔へと近づいた。
 礼は無言で荒益の隣に座って朔の手を握る荒益の手を上から握った。
 朔を見つめたまま荒益は、手の力を緩めた。礼は自分の手の下で力の抜けたのを感じ取ると、そっと荒益の手が抜ける空間を作った。滑るように下に落ちた荒益の手は、それでも朔の肌から離れるのを躊躇い、その腕を掴んで朔を見つめている。
 こんな田舎の殺風景な邸の一部屋に朔を置いたまま、今生の別れになると思うと荒益は後悔しかなかった。可哀想なことをしたと、自分の不甲斐なさに怒りがこみあげてくるのだった。その反面、鬼神のごとく心を鬼にして我が子を守り、一族を守るためにこの女人をここで切り捨てなければならないのだ。
「……荒益……私が朔の傍にいるわ」
 荒益に代わって礼がしっかりと朔の手を握ったまま、朔に優しい眼差しを送りながら言った。荒益は顔を上げて礼を見ると、朔を見つめている礼はその時だけ荒益に視線を送った。
「朔の傍には私がいるから、荒益、あなたはあなたの役目を全うして。朔は一人じゃないから心配しないで」
 荒益は礼に言われて、そこで決心がついた。
「礼、すまない……朔を頼むよ」
 荒益は朔の腕から手を離すと立ち上がり、部屋の外へと出て行った。
 礼は固く目を閉じている朔の顔を見つめて、荒益の足音が遠ざかるのを感じていた。遠ざかる足音が聞こえなくなったと思ったら。
「朔ー!朔ー!」
 とこちらを振り向いた荒益が慟哭の叫びをあげた。愛しい妻の名を呼んでやれる最後である。
 それは礼の背中を突き差し、朔の体の中へと深く入って行った。荒益の声は朔の体の中を駆け巡って最後に、朔の心を包んだ。
 朔は夫の真心を感じて、閉じた目から幾筋もの涙がこぼれた。

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