Infinity 第三部 Waiting All Night111

小説 Waiting All Night

 目が覚めた。
 とてもすっきりとした気分だと、伊緒理は思った。そして、自分の手の先を見たら、しっかりと握っていた。
 母の手。
 握りなおして、その手の感触をもう一度強く感じた。目を上げると母の横顔が見えた。白い顔。お母様はこんな顔だっただろうか。
 昨日は夜の暗い中の小さな灯りだったから、よくは見えなかった。
 手を握ったまま伊緒理は体を起こし、母の顔を覗き込んだ。
 上を向いて目を瞑った顔。真っ白で、きれい……。
 伊緒理は自分の母だというのに、知らない美人を盗み見るような気持だ。
「……伊緒理……」
 後ろから声が掛かった。伊緒理はぼおっと母の顔に見とれていた姿を見られたと思って、恥ずかしくなった。
 後ろから礼が現れた。
「お母様を見ていたの?体が弱っておいでだから、眠る時間が多いのよ。まだ目覚められていないのね」
 礼は言って、伊緒理の隣に座った。伊緒理は礼の顔を見上げた。
「ふふふ。あなたのお母様は美しい人ね。じっと魅入ってしまう。私もお母様の手を握ってその顔に魅入っていたのよ」
 伊緒理は自分の思っていることを見透かされていると思ったが、礼に言われるのは嬉しかった。自分の気持ちをわかってくれる人と思うからだ。
 礼は伊緒理に朝餉を食べるように言って先に隣の部屋に行かせた。礼は乱れた衾を直して朔の手を握った。すると、されるままだった朔の手に少し力を感じた。朔は目覚めているのだと分かった。
「朔……」
 朔はわかっている。伊緒理のことを。
「朝餉を食べさせたら伊緒理を連れて来るからね」
 待っていて、と礼は言って、隣の部屋で伊緒理に朝餉を食べさせた。
 伊緒理はここまで来れたことに安心したのか、明るい顔をしている。質素な粥と青菜だけの食事に、食べ盛りの子供には物足りないだろうと不憫に感じた。伊緒理は綺麗に食べて、目を輝かせて礼を見てる。
「礼様!私にお手伝いさせてください。私は礼様の弟子ですから、言いつけられたことは何でもします」
 と言った。
「あなたはお母様に会いに来たのでしょう」
「はい。でも、傷ついた兵士もいます。私にできることは何でもします。私は医者になりたいのですから、何でもやってみたいのです」
「そう、では、仕事をお願いしましょう。でも、あなたはお母様の傍にいるのが一番よ。まずはお母様のところに行って、話しかけて上げて」
 礼が言うと伊緒理は首を傾げた。
「お母様は伊緒理が傍にいることをわかっているのよ。だから、あなたがお母様に話したいことを話して聞かせてあげて」
 伊緒理は戸惑い、恥ずかしそうに笑った。
「どんなことでもいいのよ。お母様はあなたの話がききたいはずよ」
 食事が終わって礼は伊緒理に付き添って、朔の寝ている部屋に戻った。
「朔、喉が渇いたでしょう?ごめんなさいね、遅くなってしまって」
 礼はゆっくりと朔の背中に手を通して朔の頭を自分の膝に載せて、伊緒理を手招きする。
「伊緒理、そこの竹筒を取って」
 伊緒理は黙って傍にある竹筒を取った。
「お母様に飲ませてあげて」
 礼が言うと、伊緒理は膝で母に進みより、竹筒を母に差し出した。礼が手を添えて、朔の口元に運びあてがった。伊緒理が筒を持ってゆっくりと水を注ぎこむ。伊緒理の心が現れた手つきに礼は心が和らぐ。
 母がゆっくりと飲み込んだのを確認して、伊緒理は竹筒を上げた。礼は次に持ってきた汁だけの粥の椀を伊緒理に持たせた。伊緒理はそれを匙で掬って母の唇にそっとつけた。唇はそれを感じて少しばかり口を開いた。そこへ匙の中の粥を流し込む。伊緒理は母の様子を見ながら何度も繰り返した。
「ありがとう、伊緒理。あなたの体の具合はどう?」
「もう、寝込むことはなくなりました。ここまでの道のりも連れてきてくれた佐和(さわ)高(たか)の手を煩わせることもありません。私の体は強くなりました」
 伊緒理は礼の質問に答えているのだが、最後は母の方を向いてその顔の表情を窺った。
「朔、伊緒理はね、将来医者になりたいそうよ」
「はい……」
「伊緒理はどうしてお医者様になりたいの?」
「……私は体が苦しい時にお医者様にお薬を飲ませてもらい、体を触ってもらってとても楽になりました。私のように体が辛い者が楽になったように私自身がしてあげたいのです」
「朔、私はね、荒益の母上の体調を見るために何度か別邸に伺ったのよ。そこで、伊緒理に出会ってね。私に医者になるための勉強を教えてくれと言われてね。それはとても強い気持ちだったわ。それから、簡単な薬草の知識を教えたりしたのよ。伊緒理はね、とても勉強熱心でね。教えたことは一つ残らず覚えていてもっともっと知りたいというのよ。伊緒理は優しい子だから、病気の人や怪我をした人に寄り添って手当をするよいお医者様になれるでしょうね」
 礼が「ね」と伊緒理に向かっていうと、伊緒理は恥ずかしそうにして下を向いた。
「朔、伊緒理は優しい子でしょ?あなたはよくわかっているでしょうけど」
 礼は言って朔の方を見た。朔の表情は変わらない。でも、声は聞こえているはずだ。
「伊緒理、庭の兵士に水を配って頂戴。今日も暑くなるだろうからね」
 伊緒理は素直に頷き、部屋を出て行った。礼は伊緒理をこの部屋から遠ざけた。寝たきりの朔からは、随分と異臭がした。この邸に通っている婢に手を借りて、女二人で朔の着替えをした。昨日脱がした衣は一晩で乾いたのでそれに仕替え、褥の敷き物も替えた。
 朔の股からは出血は止まっていると思っていたが、脱がした衣を見てみるとうっすらと赤い色が滲んでいる。
 相当に体の内側に痛みがあるだろうに、朔は黙って耐えている。敷物を替える間堅い板間に一旦寝かせてしまうのが申し訳なく、礼は素早く褥を取り替えて、朔を元の場所に寝かせた。
 朔を動かすのはよくないし、礼にとっても力仕事は大変であるが、こうして身ぎれいに清潔にするのは伊緒理の前で美しい朔の姿を見せたいからだった。
 朔の体の移動で礼も疲れたようで、隣の部屋で気を失ったように眠りに落ちた。目覚めると礼は庭に出て、伊緒理の姿を探した。礼は座り込んだ者や、横になっている者の傷の具合を見ながらずんずんと邸から離れ、都から北に向かう通りの方まで歩いて行った。すると、伊緒理が一人で桶と柄杓をもって、兵士に声をかけて椀に水を汲んでは飲ませていた。椀は負傷兵の手から手へと渡されて、その度に伊緒理は何か話しかけている。
「伊緒理!」
 礼が呼びかけると、伊緒理はこちらを向いた。
「お母様のところに行きましょう!」
 言うと、伊緒理は首を振った。そして、また先ほどと同じように兵士に水を配り始めた。礼はやっとのことで伊緒理に追いついた。
「伊緒理、お母様が待っているわよ」
「はい。でも、もう少し。あの辻まではお配りしたいから、礼様はお戻りなって。すぐに行きます」
 伊緒理は言う。礼はこの子は、決めたらやり遂げる子なのだと、改めて思った。そうならば仕方がない。あの子も医者の端くれになる運命なのだと思った。
 礼は伊緒理のしたいようにさせようと来た道を邸に向かってひき返した。その途中で急に気持ちが悪くなった。それで、自分が妊娠していることを思い出した。無意識の中で体を庇ってきたが、意識の中に思い出したのは今だった。
 お腹に宿る子にはいつも辛い思いをさせている。実津瀬と蓮を妊娠した時も、実言が出征した不安の中で出産し、乳離れもしていない二人を置いて北方に実言を追って行った。そして、今自分の腹にいる子もその存在が分かっているのにほっとかれているのを恨めしく思っているだろう。
 礼は兵士が連なっている道の反対側にしゃがみこみ、気持ち悪さをやり過ごそうとした。我慢しきれず、胃の中の物を出した。薄い粥しか食べていないのだから、吐き出してもたいしたものは出なかった。それでも、体の中の物を吐き出すのは苦しいことで、礼は涙目になって耐える。すると、急に背中が楽になった。誰かが背中をさすってくれているとのだと分かるのは少し時間がかかった。
「礼様?大丈夫?」
 礼は反射的に振り返り、不安そうな幼い声が伊緒理であると分かった。
「……伊緒理」
「気分が悪いのですか?水を飲みますか?」
 伊緒理の心配そうな声に、礼は申し訳なく思った。伊緒理の差し出した柄杓を受け取って水を口に含み、濯いで吐き出す。その間も、伊緒理が背中をさすってくれた。
「……礼様……どこかお悪いのですか?」
 不安そうな声が訊ねた。
「大丈夫よ。暑いから、少し気持ち悪くなったの。あなたが背中をさすってくれたから楽になったわ。水がとても気持ちいい。あなたがいてくれた助かったわ」
 礼が言うと、伊緒理は恥ずかしそうに、だが嬉しそうに笑って礼の背中をさすり続けた。
 礼は体を起こすと、伊緒理が覗き込み。
「佐羽高を呼んできます。礼様はお一人で歩けないでしょう。私も小さくてお支えできないから。待っていてください」
 伊緒理はそう言いおいて邸の方へ走って行った。佐羽高とは、伊緒理を馬に乗せてここまで来た椎葉家の従者である。暫くして、伊緒理は佐羽高を連れて戻り、その男の肩を借りて礼は邸の中に入った。

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