Infinity 第三部 Waiting All Night112

小説 Waiting All Night

 礼は邸に入ってすぐの部屋で横になった。礼の傍に座る伊緒理に、礼はその頬を撫でながら言った。
「あなたはお母様のところへ行きなさい。私は横になっていれば直に治るわ」
 伊緒理は後ろの部屋を振り返った。
「お母様は眠っています……」
「私も少し寝るわ。だから、お母様の傍でお母様が目覚めるのを待ちなさい」
 母に会いたい一心でここまで来た伊緒理だが、今まで離れて生活していた母に、どのように接したらよいのか気持ちの隔たりを取り払うのに躊躇しているようだ。しかし、恥ずかしそうに笑う伊緒理を見ると、やはり母と一緒にいることが嬉しいのだと分かる。今まで離れて暮らしていたぶん、この時を濃密に過ごさせたかった。
 伊緒理は小さな声で「礼様、行ってきます」と言って立ち上がり、母の寝ている部屋に行って仰向けに寝ている母の傍に座った。外で兵士に水を飲ませている間に、着ていた衣や敷き物が替えられているのが分かった。真っ白な顔を見つめる。今は眠っているようだ。衾の上に出ている母の手をそっと握った。暫くそのままでいたが、自然と言葉が出た。
「……お母さま……会いたかった。……会いたかったです。お母さまは寝たままだけど、そのままでも、お母さまの顔を見るだけでも、こうしてずっと見ているだけでも、私は嬉しい」
 伊緒理の声はとても小さかったからか、朔はその声で目覚める様子もなく、伊緒理と繋がる朔の手にも動きはなかった。
 伊緒理はそれでも、言葉で言った通り嬉しかった。こんな苦しい目にあっている母なのに、母を独り占めしその母を世話できるという喜びを感じた。そんなことを考えるのはいけないことと思っても、恋しい母と二人切りが嬉しいのだった。母の指に自分の指を絡めたり、手の中に自分の手を入れたりした。その後はじっと上から母の手を握ったまま時が経った。
 起きた礼が伊緒理の様子を見に来た。
「礼様?体の具合はどうですか?」
 衣擦れの音にすぐに気づいて伊緒理は振りむいた。両手を膝の上に置いて、こちらに体を向けた。
「横になったら楽になったわ。あなたに心配をかけてしまったわね。……お母さまはどう?」
「……ずっと眠っておられます」
「そうね。少し、水を飲ませないと。今日も暑いから。あなたも水を飲みなさい。喉が渇いているのではない?」
 礼は伊緒理の隣に座り、伊緒理は母と礼の二人に向かって座りなおした。礼は持って来た竹筒から傍の椀に水を注いで伊緒理に差し出した。
 伊緒理は促されて喉を上げて椀の中の水を全て飲み、礼を見上げた。礼は自分を見上げる伊緒理の上目遣いが子供らしく可愛らしかった。
「喉が乾いていたでしょう?」
 礼は言って、伊緒理の手の中の椀に水を注いだ。
「お母さまのお水が……」
「まだあるから大丈夫よ。無くなっても汲んで来ればいいのだから」
 伊緒理は自分の持っている椀を少し見つめてから自分の喉を潤すのに、また椀の縁に口をつけて飲んだ。飲み終わってから。
「礼様、私が水を汲んできます。お母さまに沢山飲んでもらいたいから」
 伊緒理は礼の手から竹筒を受け取って台所の甕に水を汲みに向かった。戻って来てから、礼とともに寝ている母の口に少しずつ水を入れて飲ませた。その後、盥に入れた水に白布を浸けて、母の首筋や掌、指の間、足首から足の指の間までを拭いた。礼がしているのを見ているようにと言ったが、途中から伊緒理が布を掴んで自分がやりたいと言って母の手や足を拭いた。
「……伊緒理、疲れたのではない?」
 伊緒理は首を振った。
「いいえ。お母さまと一緒にいられるのは嬉しいです……」
 最後の方の言葉は尻つぼみになった。
 嬉しいけれど、お母さまは目も開けないし、声も聞かせてくれない。……それは、悲しい。
 伊緒理の下がった眉がそう言っているように見えた。
 天井を向いて眠っている朔を、礼はどうすることもできない。このまま、刻々と時が経つのを指をくわえてみているしかない。それを、幼い伊緒理に見せるのは辛いことだった。しかし、伊緒理は屍になった母でも会いたいという気持ちでここに来たのだから、遠ざけることはしたくない。
 礼と伊緒理は、姉の、母の、命の灯が小さく小さくなって、消え切るのを待つだけなのだ。朔の黄泉の国への旅立ちを見届ける。それを礼は一人でやろうと思っていた。しかし、伊緒理が来てくれた。
 二人でやり遂げる。礼は伊緒理の健気な姿に悲しみにくれるわけにはいかないと、心弱い自分を奮い立たせた。
「……伊緒理、あなたにはきっとわかるわ。お母さまのこと」
 礼は言うと、伊緒理は首を傾げた。礼はそんな伊緒理の様子を気にせず続けた。
「……お母さまは伊緒理が傍にいてくれて心強いはずよ。私も、あなたが来てくれて嬉しい。心強いわ」
 伊緒理は礼に褒められて、恥ずかしそうに下を向いた。
 陽がとっぷりと暮れると、礼は伊緒理と共に朔の部屋の隣に褥を引いて横になった。朔に異変があればすぐに傍に行けるようにと。
 昨日、母の手を離さず板間の上に横になって寝ていた伊緒理に、褥の上でゆっくりと眠らせてやりたかった。子供の伊緒理は眠たいのを耐えて、母や傷ついた兵士の世話をしているのだと分かっている。
「伊緒理……」
 横になって暫くして礼が呼んでも返事はなかった。礼は上体を起こして乗り出すと、小さな寝息が規則的に聞こえてくる。伊緒理の健やかな寝息に、礼も安心してすぐに眠りに落ちてしまった。
 翌朝、伊緒理は夜明けとともに起きた。すぐに横を見ると隣に寝ているはずの礼の姿は見えない。起き上がって衝立の向こうへ行くと、母が昨日と同じように眠っている。夏の朝でも、少しひんやりとした中で、伊緒理は体に沿っておいてある手を握った。冷たい手の甲をさすってから、枕元に置いている椀から中の水を匙ですくって唇を湿らせるように水の玉を落とす。
 母の唇はかさかさとして皮がめくれてしまっていて、水の玉はそのささくれに少しとどまってからするりと口の中に入って行った。伊緒理は暫くそれに夢中になって、母に水を飲ませた。
「……伊緒理」
 衝立の向こうから礼がこちらを見ていた。
「私がお願いする前にお母さまにお水を飲ませてくれていたのね。ありがとう。あなたは食事をしましょう。こちらにいらっしゃい」
 伊緒理は頷いて匙と椀を置くと、立ち上がって台所に行った。
 大王軍と春日王子の戦の後の片づけは粛々と続けられていた。
 都から派遣された兵士や医者、それを手伝う従者たちによって、負傷した兵士を都に連れて帰る準備を始めている。早朝に煙が立っているのは都から持ってきた食料で飯が炊かれているのだと、礼は気づいた。
「礼様」
 粥の椀を空っぽにした伊緒理は礼に向かって言った。
「礼様は横になっていてください。私がお庭の兵士に水を上げてきます」
 昨日、気分が悪くなってうずくまった礼を心配してくれるのだった。
「まあ、伊緒理。あなたはお母さまの傍にいなさい」
「お母さまの傍にもいます。でも、兵士のお水も大切だから、私はやりたい」
「そう……。では、あなたが兵士にお水を上げている間は私がお母さまの傍にいるわね。あなたはとても頼りになるわ」
 伊緒理は嬉しそうに笑って、桶、柄杓、椀を持って外へと出て行った。
 礼は伊緒理を見送った後、沸かした湯を少し冷ましてから朔の体を拭いた。冷たい体を少しでも温めて、少しの間でも目を開けて伊緒理を見てあげて欲しかった。朔の命は細い糸によってこの世に繋ぎとめられているものの、いつ切れてもおかしくない状態である。礼は伊緒理が受け入れられる母との別れを望むのだった。
 それから、礼は衝立を隔てて敷きっぱなしの自分の褥に横になった。妊娠していると分かっているのに、体に無理をさせている。礼はお腹に手を当てて、心の中で謝った。
 あなたを蔑ろになんてしていないのよ。とても大切。もう少し待ってね。私の我儘を許してちょうだい。
 礼は、お腹の子を思って何度も心の中で詫びた。
 伊緒理は不満そうな顔をしてすぐに戻ってきた。
「どうしたの?」
「みんないなくなっていました」
「そう……都から兵士を助けるために人が来ているから、移動していったのね。あなたはお医者様になる人ね。こんなに人のために尽くしたいと思っているのだもの」
 礼は伊緒理を手招きして、体を軽く抱きしめた。
「お母さまにお粥を食べさせてあげて。あなたがあげるとよく口の中に入れてくれる気がするわ。あなたが食べさせてくれていることをお母さまはわかっているのね」
 礼は伊緒理と共に朔の傍に座り、お粥の汁を口へと運んだ。
 伊緒理は反応の乏しい母の気持ちを読み取ろうと、じっと見つめている。離れて暮らしていた母の隅々まで感じて、記憶に残そうとしている。それは、もう伊緒理の拠り所となる母との二人だけの宝の記憶になるだろう。
 夏の夕立が襲って、外にいた少ない兵士を簀子縁にあげて雨宿りをさせ、その続きで夕餉を配った。
 それが終わると伊緒理は母と食事をした。母の口に粥を入れて食べさせ、自分も粥を掬って食べた。黙って寝ている母だが、一緒に膳を囲んで食事をしている雰囲気がして、伊緒理は嬉しくなった。
「今日も疲れたでしょう?」
 夕餉が終わった後、沸かした湯を絞った布で一日の体の汗や汚れを拭きとって、褥の上に座った伊緒理に礼は話しかけた。
「いいえ。お母さまと一緒にいられて嬉しいです」
「そう……あなたが来てくれて本当に心強いわ。私一人だと、とても手が回らずに不安だった。明日も朝早いから寝ましょうか」
 伊緒理は褒められていることに恥ずかしそうに微笑んで、礼と同時に衾を被った。すると、すぐに眠りの沼に引きずり込まれた。
 礼は暫く目を開けていた。暗闇の中で、伊緒理と朔を感じていた。しかし、それも長くは続かず、礼も眠りの沼に落ちて行った。

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