Infinity 第三部 Waiting All Night115

小説 Waiting All Night

「……礼……よく無事に戻ってきてくれた」
 実言は礼の手を掴むとすぐに自分に引き寄せて、腕の中に抱いた。
 まだ濡れている髪の間に指を入れて掴むようにしっかりと礼の頭を引き寄せた。
「……実言……ごめんなさい」
 礼は実言にされるままに身を委ねた。実言の言うことに背き、我儘を言って自分の思うことをしてきた。自分勝手に甘えることはできないと思うが抱かれると安堵した。
「……いいんだ。お前が無事に戻ってきてくれただけでよかった」
 実言は礼が戻ってきたからこそ笑いを含んだような声音で言えるのだった。
「しかし、朔は残念だった……」
 実言の声は一変して、朔の死を悼んだ。
「……お前がついていてくれたことを荒益は本当に喜んでくれていた」
 礼は実言の胸の中で顔を上げた。
「息子の伊緒理が来たわ。本当に奇跡のように現れたのよ」
「……荒益の優しさだろう。我々貴族の邸には兵が立って、出入りを厳しく管理していたからな。伊緒理は都の外れで荒益の母君と暮らしていたから自由にできた。それが幸運だった」
「伊緒理は体の弱い子なのに、朔に会うために長い旅をしてきたわ。そして、立派に朔の最期を看取りました。朔は辛く苦しかったでしょうけど、最後は伊緒理にしっかりと支えられて、心も安らいだことでしょう。本当に伊緒理が来てくれてよかった。朔にも伊緒理にも私にとっても」
 実言は礼の体から手を解くと、手を握って寝室へと歩き出した。
「椎葉の家は、荒益はどうなったの?春日王子の陣営とみなされて謀反人とされてしまったの?」
 礼は実言に聞いた。
「それだけはさせないつもりだ。そう訴える者もいるが、荒益自身は私と共に行動していたから、それをつぶさに説明した。春日王子の陣営であるとの意見は下火だ。我々の軍勢にいたのだから荒益が春日王子と繋がっていると思う者はいない。しかし、妻は何かしらの理由で奪われたのだと知れてしまった。妻を奪われた夫という不名誉が付いたかもしないが、それを荒益は気にはしていなかった。あいつも、朔への愛を通したということだろう」
 実言は答えたところで、ちょうど寝室に入った。疲れた体が、どうしても眠らせろと言って、旅から帰ってきたままの姿で潜り込んだ褥と衾は新しいものに替えられていた。
「伊緒理も都が落ち着くまではじっとしておいた方がいい。辛いだろうが、都の外でしばらく過ごすことになるだろう。荒益もそのことはわかっている」
 実言と礼は褥の上に上がると、すとんとそこへ座った。
「もう……もう……私の手の届かないところに行かないでおくれ。命がいくつあっても足りないよ。お前がいるべきところじゃない場所に現れて、私を驚かすことが何度あったことか。……礼」
 実言は握っていた礼の手を持ち上げてその指に口づけた。
「……実言……」
 礼は自分の勝手で実言を苦しませていたことに目を潤ませた。実言は礼の申し訳ないと思う気持ちをわかったと言うようににっこりと笑った。無言で礼の左目にかかる眼帯へと手をやってそれを外してしまった。
「久しぶりじゃないか。何も隠していないお前を見たいよ。私だけが知るお前をね」
 といって、礼を褥の上に押し倒した。
 見上げたら、実言の目を真剣に、でも優しい顔をしていた。
「心配したよ。お前は私を裏切らないと信じているけれども、もし何かあったらと毎日、気が気ではなかった。こうして戻ってきてくれたことが嘘ではないと感じたい」
 と言って、自分も寝転がると礼を引き寄せて抱いた。
 上着はとうにどこかに行ってしまっていて、礼は薄い単衣一枚を纏っただけだった。すっぽりと実言の腕の中に収まった礼も久しぶりの夫の抱擁は嬉しかった。
「痩せたね……」
 実言は悲しい声で呟いて、礼に口づけた。軽く合わせただけの唇を実言は少し開かせて礼の中に深く入って激しく口づけた。礼はだんだんと強くなる実言の愛撫に身を任せたい気持ちにかられるが、旅から帰ってきたばかりの体で実言を受け入れられるだろうかと不安になった。腹には子もいるのに。
 実言はすうっと、礼の首筋へと唇を移動させた。日焼けした肌を辿ってから白い乳房の膨らみの始まるところをそっと吸った。
「実言……」
 礼は思わず夫の名を呼ぶと。
「わかっている。旅から帰ってきたばかりのお前に無理はさせないよ。私の欲望はここまでさ。……少し寝ようか」
 実言は起き上がり、腰の帯を解いた。礼も体を起こして、実言が楽な格好になるのを手伝う。夏なので一枚脱いだら下着姿になるが、実言の腕に白布が巻かれていることに目が留まった。
「実言!」
 礼は実言の腕を掴むと鋭く言った。
「怪我をしているの?」
 礼の掴む手の力が思いの外強いので、実言は少し顔をしかめて。
「春日王子とやり合ってね。少しばかり」
 礼は袖をめくって実言の腕を検分する。
「他には?」
 胸の前の紐を引っ張って礼は実言を裸にする勢いである。胴にも白布が巻いてあるのを、礼は解いてその傷を確認した。
「都に戻ってきてすぐに宮廷の医者に手当てをしてもらった」
 春日王子に切られたその傷はまだ傷口が完全にふさがらず、赤い身を見せている。
「私に手当てをさせて。……あなたがこんなことになっているなんて……」
 礼は部屋の隅に置いている薬箱と手水のための盥を引き寄せて傷を洗った。実言は沁みるらしく顔を少しばかりしかめている。
「春日王子は剣のお強い方だったの……?」
 実言は褥の上に仰向けに寝て、礼の手当てを受けながら答えた。
「……春日王子は剣の使い手だった。その生まれ持った地位に甘んじることなく、勉学や剣術など日々研鑽を積まれていたのだな。手強かった。決して甘く見ていたわけではないが、あそこまで強いとは思っていなかった。間合いが間違っていれば私が斃れていてもおかしくなかった」
 礼が塗り薬を塗り始めて、実言は顔をしかめて痛みに声が出そうになるのを我慢した。礼は実言のしかめた顔を見ていながら、手を休めず塗り薬を塗り終えた肌に、洗いざらしの白布を折りたたんで厚みを持たせたものを置いた。実言の体を起こして、胴に長布を巻きつけて傷口に置いた布を固定する。実言は礼が手を動かして、腹回りに三度ほど布を巻かれながら、意識はあの山頂の舞台に飛んでその時の気持ちを反芻した。
「あの方は確固たる理想を持たれていた。それは私とは違う方法だったかもしれないが、何が正しく何が誤りかは決まっていない中で春日王子と意見を戦わせ、最善を導く対決は心が躍るような面白さがあっただろうと想像した。……そう思うと惜しい方を失ったのだと思うのだ。岩城にとっては最大の障害が無くなったのだと喜ぶところなのかもしれないが、私には何かもっと春日王子と話をしてみたかった……」
 実言はそう呟くように言って、我に返ったように礼を見た。ちょうど、布を巻き終えて布の端を内側に入れ込もうとするところだった。礼と目を合わせた実言は、苦笑して。
「私たちにとっては、春日王子のおかげで命を落とすところだったな。……あの方をもっと知っていれば……こんなふうな結末になっていなかったかもしれない。……もっと違った道があったかもしれない」
 実言は言って、憮然としている礼を抱き寄せた。
「そんな怖い顔はやめておくれ。確かに春日王子は私たちを苦しめたが、それは廻り合わせのあやが悪かったのかもしれない。私は全てを憎んで今の結果に勝ち誇った気持ちにはなれないのだ。どうしたものだろうね」 
 実言は言った。
礼は傍に置いていた実言から脱がせた下着をもう一度着せて、薄い上着を被せて帯を締めた。
「……実言……都が落ち着いたら、束蕗原に行きましょう。あなたの傷を癒さないといけないわ」
「お前の悲しみを癒すためにもね」
「束蕗原には伊緒理も連れて行きたいわ。荒益に許しを得て、連れて行きたいの。あの子は本当に人を助けることに責任を感じている子よ。立派なお医者になるでしょう。去様に早く合わせてあげたいのよ」
 礼にはこの一連の争いの中で唯一の光明である伊緒理を支えることが喜びだ。
 実言はそう言って明るい表情をする礼と再び横になった。
「そうだね。荒益に相談しよう。ああ、お前がこうして傍にいてくれることがどんなに安心をくれることか。改めて気づく思いさ」
 実言の腕の中は礼にとっても居心地がいい。
 礼はすうっと眠りの中に落ちていく。この前にこの褥の上でひとり眠ったときは沼に引きずり込まれる感覚だったが、今は天へと舞い上がって行くような快良い浮揚感の中で眠りに落ちた。
 

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